それ以外に、いったい何がある?
これは386回目。わたしは基本的に、ろくでなしです。とても褒められた人生を過ごしてきていません。わたしが書くと、『the・ろくでなし』、です。しかし、彼の手にかかると・・・
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ろくでなしの「ろく」は、一般的に「碌」と書かれるが、これは当て字らしい。 元々は「陸」と書き、陸は、土地が平らなことから物や性格がまっすぐなさまを意味していたという。 その否定語なので、性格が曲がった人という意味になるわけだ。
わたしは、そういう意味では、間違いなくろくでなしだ。
新聞で、ESGとかSDGという言葉を聞くだけで、正直虫唾(むしず)が走るのだ。地球温暖化=二酸化炭素排出問題などと聞くと、鼻でせせら笑ってしまう。困ったものである。ひねくれている、ということだ。
この駄文をお読みいただいている人たちは、よくおわかりだろうが、「綺麗事」が大嫌いだという文章が頻繁に出てくるはずだ。自分が綺麗事では収まらないからだろう。
ニュースを目の前にして、「この本質はなんだろう?」と偉そうな大義名分を掲げているものの、実はただ「裏読み」しているにすぎない。
そんなわたしでも、間違っていない、と想うのだ。頑固というか、意固地というか、この「ろくでなし」性を改めようとはしない。
これが一番素直なものの見方なのだ、と納得すらしてしまうのである。
そんなわたしにさせてしまった大きなきっかけの一つは、ある写真集だ。
大学を出て就職をした年に、驚愕的な衝撃を受けた本があるのだ。藤原新也氏の『全東洋街道』である。すぐさまその後に出版された『メメント・モリ(死を想え)』で、完全にノックアウトであった。
彼の最初期の『印度放浪』は、ずっと後になってから手にすることになった。
『全東洋街道』は基本的に写真集だ。トルコから日本までの放浪・漂白記録だ。
食い物と、セックスと、糞尿という三点セットがすべての鍵だ。人間にとって、必須のファクターだからだ。それぞれに、本質的な意味がある。
食い物というのは、死体という意味だ。セックスとは、性器であり、売り物になるということだ。糞尿たるや、生きている証(あかし)そのものである。
それを、日本でも、そして先進国でも、道徳的に問題があるからと言って、綺麗な包装紙で覆い隠している。倫理というやつである。『全東洋街道』は、その包装紙を乱暴に引き裂いて、顕にしてみせるのだ。
藤原氏の言葉をそのまま引用するとこういうことになる。
・・・ここイスタンブールであろうと、カルカッタであろうと、あるいはシンガポールであろうと、香港であろうと、そして東京であろうと、ロスアンゼルスであろうと、オレンジの皮と豚の頭は均質に、そして確実に腐っていくはずだ。ただ、それが街の内側に梱包され隔離されるか、あるいは、街行く人々の目の前に放逸に投げ出されているかどうかの違いにすぎないだろう。東洋ではまだ、人びとの生活が梱包されずに表通りに放り出されている。・・・
これが物事の本質だ、とわたしたちに突きつけるのである。
そもそも倫理とはなんだろうか。食って食われる以上の倫理が、この生きとし生ける世界の中にあるのだろうか。
考えてみれば、刺し身は実に美味い。しかし、要するに新鮮でまだピチピチの死骸なのである。食い物というのは、すべて死体にほかならないではないか。
食って、食われての世界を、実はわたしたちは毎日の日常で当たり前のように過ごしている。それが、包装紙に包まれた「当たり前」ではなく、裸の「当たり前」を思い起こさせてくれたのが、この『全東洋街道』と、続く『メメント・モリ』だ。
後者は、そういうのが苦手な人は、手に取らないほうが無難である。カルチャーショックどころではなく、モダンな人間性が崩壊しかねない。
人が野良犬に食われているのだ。「当たり前」のように。藤原氏のコメントは、あまりにも有名だ。
・・・ニンゲンは犬に食われるほど自由だ・・・
そしてカメラ・アイは執拗に、一般食堂、売春宿、死体棄て場を追っていく。「彼らを救済せよ」などと高邁な話は一切出てこない。
では、ただの変態か、それとも冷酷なまでに非情かというと、どちらも違う。ヒューマニズムに訴えて、注目換気させようとしているのか。それも違う。
カメラの本来の特性であり宿痾である、「ありのまま」の中に、本質を見ようとしているのだ。強靭な精神力と、深い愛情がなければ、ファインダーも目の前の現実に耐えられまい。
これでもかと死を見せつけられることで、生が眩しいほどの輝きでわたしたちの胸の中に蘇ってくる。
写真が文章を説明し、文章が写真をわたしたちの感性に訴えかける。
この手法だけでもわたしには、目から鱗だったが、それよりもなによりも、写真というものが、従来のリアリズムを遥かに飛び越えて、真理を預言する水晶玉のようにすら思えたものだ。
わたしたちが、求める幸せというものが、一体本当に幸せなのか。
そんな馬鹿馬鹿しい、しかし誰もまともに答えられない問いを、『全東洋街道』や『メメント・モリ』は、ぶっきらぼうに投げつけてくる。
藤原氏なりの、答えは作品中に、ときどき垣間見える。
彼は長い雨期に入ったカルカッタで、自分の写真術をさりげなく、しかし端的に述べている。
・・・雨期の写真術は 自分が雨に濡れること・・・
それ以外に、何がある?