言葉は生ものである~誤読あれこれ

文学・芸術


これは106回目。人のことなどとても言えた柄ではありません。が、面白い話だとは思うので、書いてみました。本当に言葉はナマモノですから、時代時代で読み方も、意味も変わってしまいます。本当はどういう読み方だった、どういう意味だったということはとても大事ですが、しかし・・・

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言葉は、生きものだから、時の流れによって、誤読が誤読ではなくなり、いつのまにか正しい読み方になっていくことがある。たとえば、十という字だが、「じゅう」と読んでいるうちは良い。これが、二字続きになっていったときに問題が起こる。たとえば、「十回」「十把ひとからげ」を、なんと読むだろうか。

今は、「じゅっかい」「じゅっぱひとからげ」と読む人が、おそらく圧倒的に多い。わたしも今では、口がそう馴れてしまったが、たまに「じっかい」「じっぱひとからげ」とつい言うときがある。もともと、そう教わったのだ。いい大人になってから、「じっ」を「じゅっ」と言うように直していたから、たまに「じっ」が出る。

もともとどちらが正しいかといえば、「じっかい」「じっぱひとからげ」が正しい。「じゅっかい」「じゅっぱひとからげ」という読み方は、無かった。

今では、どうも学校でも、「じゅっかい」となっている教科書が多いらしく、「じっかい」などと言った日には、「それおかしいよ、間違いだよ」と、わたしが過ちを指摘されることが普通になってしまった。面倒なので、わたしも「じゅっかい」となるべく言うようになった次第。それでも、子供のころから「じっかい」と呼んでいただけに、どうしてもたまにこの「じっかい」が口から飛び出し、自分で「あっ」という顔をしてしまう。こんな風に、実は正しいものが、気がついたら間違いにされていたというのが、言葉の世界には横行している。

こんな調子では、そのうちに、「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」も、間違いになっていき、「じゅんぷうまんぽ」と読むのが正しいという時代が来るのかもしれない。「じゅんぷうまんぽ」と読む若い人のことを笑っているわたしが、逆に笑われても仕方がなくなってくるのだ。多数派有利の原則。デモクラシーというのは、恐ろしい。

こういうことを言い出したら、実際キリが無い。「日本」だって、「にほん」ではない。「にっぽん」が正式な読み方だ。「日本銀行」だって、一万円札の裏には、ちゃんと「NIPPON GINKO」と記してある。もちろん、正式であることは間違いないのだが、法律上の規定は無い。「にほん」と慣用しても一向に差し支えない。

その漢字を使う意味が変わってきているために、それがあながち間違いとは言いにくくなってきているものも結構ある。たとえば、「生蕎麦」と書いて、ふつう「なまそば」と読んでしまうだろう。

本来これは、「きそば」である。つまり、つなぎを一切使わない、蕎麦粉だけで打った蕎麦のことを「生蕎麦(きそば)」と読んだ。昔の二八蕎麦(にっぱちそば)は、蕎麦粉8割、つなぎ2割で打ったということらしいのだが(ほかにも諸説有り)、蕎麦粉だけだと「きそば」と呼んだらしいのだ。

ところが、現在「なまそば」と言うとき、たとえばスーパーなどでの買い物で、過熱処理を敢えて十分していない商品か、乾燥させていない蕎麦のことを「なまそば」と呼んだりしている。つまり、原材料の含有量のことを言っているのか、それとも製品になるまでの加工プロセスのことを言っているのか、ということだ。これは、同じ「生蕎麦」という字を使っているものの、まったく意図や次元が違うわけで、一方的に間違いというのも気が引ける。こうして「生蕎麦」という漢字の存在そのものが、曖昧になってしまってきているのだ。

誤読とは違うが、意味を取り違えて、そのまま使われてしまっているケースも多い。たとえば。「三十路(みそじ)」とか「四十路(よそじ)」とかいう言葉だが、三十路というと、「三十歳代」という意味で使っている人がいる。が、本来これは、間違っているわけで、「三十路」とは、「三十歳」そのものの意味にほかならない。

近年では、アラサー(三十歳前後)や、アラフォー(四十歳前後)」というように、日本人の気質性から、若干はばかる意味の場合には、わざと「曖昧にする」不文律が強い。もしかしたら、こうした気質性が、「三十路」を「三十歳」ではなく、「三十代」と曖昧化させて使うようになってしまっているのかもしれない。

笑ってしまう誤読もある。「団塊世代」を、意外に「だんこんせだい」と読んでしまう人がいる。ぷっと思わず笑ってしまったのだが、問題はこの「だんこん」だ。

以前、パソコンに入っていたATOKで「だんこん」を変換したら、「弾痕・男根・団塊」と表示されたのを見たことがある(今はどうだろうか)。明らかに団塊を入れているところは間違いだ。「魂(こん)」ではない。「塊(かい)」だ。字がそもそも違う。国語辞典を引いてみたら、当然ながら「弾痕・男根」しか書かれていなかった。

もっと面白いのは、「旧中山道(きゅうなかせんどう)」だ。言葉遊びの類いの誤読だが、「いちにちじゅうやまみち」と読むそうだ。昔なら、そのものずばりだろうから、言いえて妙の言葉遊びと言える。

しかし、「蚊帳(かや)」を「かちょう」と呼んだり、「伊達男(だておとこ)」を「いたちおとこ」と読まれるのは、いささか困りものだ。もっともこうした、マジな誤読というより、わざと間違えて遊ぶ文化も、それなりに文化の豊熟さを生む大事な要素だろう。

昔、「平林(ひらばやし)」という苗字の男がいて、愛称が「ひらりん」だったり、わざとおどけて「いちはちじゅうのもーくもく」と呼ばれたりしていた。「平林」の二字を細かく分解して、面白おかしく読み下したわけだが、これなどは、誤読も誤読、確信犯的な誤読の遊びだ。

これは江戸の小噺(こばなし)だが、「かなしや くやしや きんべいが めいどにひっこし もうしそうろう」というのがある。「悲しや 悔しや 金兵衛が 冥土に引っ越し申し候」とでも、書いてあるのかと思ってしまう。要するに「死んだ」、という連絡内容だ。

ところが、そうではなくて、書いた人の意図は、「曲尺屋金兵衛(かなしゃくや きんべえ) 亀戸に引っ越し申し候(かめいどに ひっこし もうしそうろう)」ということだった。曲という字は、「かね」とも読むので。どうも曲尺屋(かなしゃくや)という屋号の店なのであろう。実は、「くやしや」の「しや」の部分は、原文にはないので、江戸人特有の「せっかち」さが、「かなしやくや」を慌てて「かなしやくやしや」と、勝手に呼んでしまったというオチまでついている。

せっかくの引っ越しのお知らせも、死亡通知になってしまったという笑い話だが、江戸時代、庶民はふつう「仮名書き」で、しかも句読点も使わず、小さい「ゃ」の字も同じように大きく書いてしまい、全文一続きで「かなしやくやきんへえかめいとにひつこしもうしそうろう」と書いたものだ。「べ」や「が」の濁点も無い。無くても、文脈から「へ」を「べ」に、そして「か」を「が」に読み分けたので、ときとして上記のようなことが起こってしまったのだろう。

今、わたしたちが思っている誤読の問題、日本語の乱れと呼ばれる問題も、実は江戸時代、仮名書きの世界では、もっとすさまじい誤読が横行していたかもしれない。それに、江戸人特有の洒落っ気と遊びの要素が加わって、とんでもない言葉の乱脈が沸き起こっていたような気もする。そして、それが今の日本語をつくり上げてきたのだと思えば、あまり誤読だなんだ、正しい日本語はと法整備などでがんじがらめに縛り付けるものではないような気がする。



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