小説の書き方
これは353回目。
小説を書くというのは、日記と違い、人に読んでもらうためのものだ。だから、わかってもらうために書く。わからんでもいいと思って書く小説など無い。
だとすると、当然書き方というものがある。
架空の状況を設定して、そこで人間ドラマが展開されるわけで、書き手によって完成までにはさまざまなプロセスがあるだろう。手順といってもいい。
世の中に数多いる、プロ・アマの作家というのは一体どういう書き方をしているのだろう? 昔から大変興味がある。
たとえば、小説に筋は重要か否かという問題なのだ。あくまで、作家が訴えたかったことや内容ではなく、創作の技術論の話だ。
かつて芥川龍之介は、自分がなかなか書くことができなかった「話らしい話のない小説」こそ、美しい最上の芸術だと思ったらしい。
だから、表現がなんといっても重要なのだ、という結論になったようだ。
『蜃気楼』など、いくつか晩年にこのパターンで試みているが、わたしなどにはとても好みではない。三島由紀夫は「不思議と、この種の作品が好まれているようだ」と言っている。
芥川は、志賀直哉の作品にこの「話らしい話のない小説」のモデルを見たようだ。
だからだろうか、わたしはそもそも(内容はともかく)、志賀直哉の小説をほとんど面白いとは思えない。
芥川はご存知のように、緻密なプロットが整備され、最後は『奉教人の死』のようなドンデン返しが用意されたりする。
最初から最後まで計算しつくされた「筋立て」なのだ。
ふと思う。
「話らしい話のない小説」を書く作家というのは、どういうふうに書くのだろう。最初から、すべて書くことが頭に浮かんでおり、ただそれを書きなぐるだけで出来上がってしまうのだろうか。
それとも、何度もノートなどに「話らしい話のない小説」を「構成」し、推敲と校正を繰り返しながら、「計算づく」で「話らしい話のない小説」を書くのだろうか。
とても興味深い。
ちなみに、このテーマで芥川とやりあった谷崎潤一郎などは、「筋が大事なのだ」と言い切った。構成がしっかりしていれば、すべて良いというのが谷崎の結論だったようだ。
重ねて言うが、小説の中身のことではない。その小説の「成り立ち」のことなのだ。
わたしは、この「話らしい話のない小説」を書くことができないし、書こうと思ったこともない。
たいていは、大学ノートにストーリー(プロット)の展開をどんどん書きこんでいき、途中の挿話や、登場人物、場面なども、何度も修正する。
あとになって思うのだが、ほとんどの場合、最初にタイトルすら決まっていたりする。あるいは、それがタイトルにならなかったとしても、重要なキーワードがある。
また、小説の最終場面や結末が「先にありき」ということがほとんどだといっていい。
つまり、先に「書きたいものの」イメージがあり、それを導き出すために、うんうんと唸ってその「過程」を大学ノートに、たくさんのパズルを書き込んでいくのだ。
これが谷崎の言うところの「構成」というものなのだろうか。
さてさて、みなさんはクリエイターとして、小説を書くといった場合、どんなふうに完成させておられるのだろう。
わたしは、最初のこの「構成」ができてしまえば(ひどいときには、A4用紙一枚に、びっしり構成を書いただけだ。Barracudaという長編小説は、まさにこの最初の構成を書いたA4の一枚用紙の裏表だけがすべてだった。)、あとは長編でもなんでも、一気呵成に書けてしまうのだ。それこそ、後から後からどんどん「筋」を埋めていく文章が湧き水のようにほとばしりでてくる。
すくなくとも天才でないことだけは確かだ。
三島由紀夫などは、今に残る原稿用紙にはほとんど推敲が無い。はじめから最終原稿を書き上げたという体だ。
音楽でいえば、モーツァルトの譜面もそうだ。余計なことが書いてあるのは、ほとんど卑猥で低俗な悪戯書きだけで、譜面そのものは信じられないほど完成された最終譜面そのものだ。
こういう天才という人たちは、それでいて緻密な作品構成を成し遂げている。
今、多くの小説家志望の人たちが膨大な数の作品を書いているに違いない。
昔と違い、ワープロだからいくらでも書き直せ、つねに最終原稿なみに綺麗だ。
それでもわたしは知りたいのだ。
書く前に、どういう筋立てで、どこにどういう挿話を入れて、どういう効果的な登場人物を入れて、と七転八倒しながら筋立て(小説の設計図)をつめているのだろうか。わたしのように。
それとも、いきなりイメージが浮かんで、ただあとは指が打っていくだけなのだろうか。
先日、3月から5月にかけて、2ヶ月ほどで「御坊 夜伽草子」という短編集を書き上げて、Novel Daysやカクヨミに投稿してみた。
第一巻と第二巻。
合計で20短編が含まれている。
個々の怪談と、全体を通じて一つのストーリーと。表と裏の筋書きが、並行して進む筋立てになっている。
いつもそうなのだが、あっという間、それこそ2ヶ月といったが、実質書いていた日数は半月くらいだろう。
それこそあっと言う間だ。
しかしわたしにとっては驚きでもなんでもない。
なぜなら、その前に、やはり2-3週間くらい、大学ノート一冊びっしり埋まるほどの、20話の細かい「設計図」をつくり終えていたからだ。
実際に小説本編を書き始めたら、ただただそれこそ指が動くにまかせただけ、というのに等しい。
わたしはどうもこういう意味ではやはり凡才らしい。
過剰なほどの準備がなければ、事を始めることも、成し遂げることもできないようだ。
さて、みなさまはどういうスタイルなのだろう。
興味が尽きない。