愛することは、長い夜に灯された・・・

宗教・哲学, 文学・芸術

これは366回目。

本棚を整理していたら、リルケの本が二冊でてきた。

「ポルトガル文」と「マルテの手記」だ。

詩集もあったはずだが、見つからない。手狭なのでずいぶんと段ボール箱に詰めており、その中にでも紛れ込んでいるのかもしれない。

このたまたま見つかった二冊の本だが、「ポルトガル文」のほうは、リルケのオリジナルではない。原作をドイツ語翻訳したものだ。

リルケらしい、美しい文章で綴られた、いわば書簡体小説なのだが、なぜリルケはこれを翻訳しようとしたのだろう。

そう思い立ったくらいだから、なにか感動をしたに違いないのだが。

「ポルトガル文」は、ポルトガルの尼僧が、フランス軍人と恋に落ち、結局捨てられ、彼に思いのたけを投げかけた5つの手紙で構成されている。

17世紀に書かれたこの創作は、以来大変な人気を集めてきた、書簡体小説の傑作であり、またその「はしり」でもあったという。

尼僧は、彼に対する思いやり、悲嘆、恨み、憎悪、苦衷、ありとあらゆる身を焦がす思いを綴る。読んでいて、彼女が「恋に恋して、疲れ果てていく」さまが読み手の心を熱くする。痛々しいほどだ。果たして、ほんとうに彼を「愛して」いたのかは、疑問に思える。

「報いを求める」情動というものは、得てしてそこには「彼」が存在しない。いるのは、制御不能なほど膨張した自分自身だ。当然、破れる。

真面目な人ほど、こうした悲劇に自分を陥れる。

偉そうなことを書いているが、私自身、そんな境遇に陥ったことは、一度や二度ではない。誰しもそうだろう。

おそらくそのへんが、昔から人々にとっては「追体験」するような思いになり、身につまされ、そして絶賛されてきたのだろう。

最終的に尼僧は、きっぱりと気持ちに踏ん切りをつけたように、筆を置く。

冷たい言い方をすれば、これだけ自分が愛しているのにという思いが、行間ににじみ出ており、要するに「報われない思い」の悲惨さ、惨めさが浮き彫りになっているように思ったものだ。

つまり、承認欲求のようなものかもしれない。

なにも恋愛に限らない。社会活動をしている上で、そうした挫折というものは、何度となくわたしたちを襲う。

たまたまリルケが翻訳した原作が、恋愛を素材にしていただけのことだ。

リルケは、どうしてこの原作をわざわざドイツ語に翻訳して、人々に紹介しようとしたのだろう。どこに彼はその大きな動機や、感動があったのだろう?

彼のオリジナル作品である「マルテの手記」には、「ポルトガル文」に対する答えが書いてあったように思えるのだ。

リルケは、「マルテの手記」の中で、(これまたリルケの真骨頂が現れているような美しい文章ばかりなのだが)こんなことを書いていた。

「愛されることは、ただ燃え尽きることだ。愛することは、長い夜に灯された美しいランプの光だ。愛されることは消えること。そして愛することは、長い持続だ。・・・」

この答えを持っているリルケが、どうして「ポルトガル文」に手を染めたのか、いまだによくわからない。

実際、「マルテの手記」のほかの部分にも、こんな文章があり、明らかに「ポルトガル文」の提示した課題に対する、彼なりの結論だと思うのだ。

「男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。」

リルケは、尼僧が自分の思いに折り合いをつけて、次の一歩を歩みだしたと考えていたようだ。リルケは、尼僧が彼を置き去りにして、追い抜いていったと表現したが、わたしには違う風景が見える。

尼僧が追い抜いていったのは、彼女自身だったのだろう。

だから、そういう意味では本当の新たな一歩だったに違いない。

「マルテの手記」には、印象的な言葉がある。

「詩は、人々の考えるような感情などではない。詩がもし感情だったとしたら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならないはずだ。詩というものは、ほんとうは経験なのだ。」

みんな、日常という生生しい詩を、日々綴りながら歩んでいる。暗がりの中、青白いかすかなランプを灯しながら、わたしたちは手探りでまだ見ぬわたしを追いかけているのだ。