世界観の相克

政治・経済, 歴史・戦史

これは365回目。世界の覇権をめぐる概念には、どうも2つの潮流があるようです。わたしの勝手な分類なのですが、第三帝国という概念と、世界帝国という概念です。

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「第三帝国」は、ハートランド(大陸国家)を中心に発生することが多く、伝統(正当性)の継承というイデオロギーで成り立っている。

一方「世界帝国」は縁辺地域(大陸周辺国家)を中心に発生することが多く、前者に対してまったく新しいパラダイムシフトを起こそうとするイデオロギーの傾向が強い。

まず、第三帝国から見てみよう。

第三帝国というと、すぐヒトラーのナチズムを思い起こさせるが、もともと中世イタリアの神学から発生している概念だ。

当時は世界史を3つの時代に分ける考え方があった。3時代教説というものだ。

・律法の元に俗人が生きる『父の国』時代
・イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代
・最後の審判の後に訪れる、自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代

三番目が永遠の福音の時代だとされた。

その後、ロシアの文豪ドストエフスキーが、ローマ帝国(→西ローマ帝国)、東ローマ帝国が、信仰の不足が原因で滅亡したものの、聖なるロシアは、「第三のローマ」にならなければならないと論じた。

これが、近代の第三帝国という概念の一番最初である。

その後のロシアは、ソ連、そして再び現在のロシアに至るまで、この概念を捨てきれないでいる。ロシアが、汚辱にまみれたヨーロッパを「解放」するというナショナリズムである。

かつての偉大なローマを腐らせたのは、ユダヤ人であるという、反ユダヤ主義的な色彩は濃厚で、ドストエフスキーの小説は、ここかしこに反ユダヤの思潮を垣間見ることができる。

ドストエフスキーの「第三のローマ」という概念は、第一次大戦で疲弊したドイツでも育まれた。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の前身であったドイツ労働者党の創設者の一人、エッカートに始まる。

エッカートは、ドストエフスキーではなく、劇作家のイプセンが生んだ概念の影響を受けている。イプセンが説いたのは、「霊の帝国(中世キリスト教文明)」と「肉の帝国(古代ギリシア思想文明)」の2つを併せ持った理想国家として「第三の帝国」と称した。ここではじめて「第三帝国」という言葉がうまれている。

エッカートの思想は、イプセン以上に反ユダヤ主義を全面に押し出しており、悪魔のようなユダヤ人が利子率をつくりだしたのだと糾弾する。

ドイツ労働者党が、ナチスに発展していく過程で、やはりドストエフスキーの「第三のローマ」論に影響をうけた、思想家アルトゥール・ブルックは、1923年に『第三帝国論』を著している。

第一帝国がかつてのドイツ・フランス・イタリア地域にまたがっていた神聖ローマ帝国。


帝国の崩壊後、ドイツ地域は小王国分立の時代が長かったが、1872年に統一されたドイツ帝国が成立する(ビスマルク宰相の時代)。これが第二帝国。

そして、第三帝国の創設を唱えたのである。

第一次大戦の屈辱的な敗戦の後、多くのドイツ人が民主的なワイマール共和国を、正当な国家・政権と認めてはいなかった。みな、「ほんとうのドイツ」が再興されることを望んでいたのである。

そのうちのとくに右派(ナチス)が増長していったのにはこうした背景がある。ナチスはそこに「第三帝国」という概念を持ち出したのである。

ナチスの宣伝相であったゲッペルスも、やはりドストエフスキーの影響を強く受けている。

しかし、宣伝文句として一時、この「第三帝国」という言葉は使用を控えた時期もあるようだ。反ナチ運動が風刺に用いるようになったためらしい。もっとも1941年12月以降は、ヒトラー自身が「今や、ドイツという時、それは『第三帝国』以外の何ものでもない」と述べている。

このローマの継承者という概念は、東洋ではほぼ「中華世界」という概念が比定されるといってよさそうだ。中国自体がそうであり、漢民族王朝の明が滅び、満洲民族による清王朝が成立してからというものは、隣の朝鮮では自分たちこそが、ほんとうの「中華」の継承者であるという、「小中華思想」が根付いていった経緯もある。

中国は、昔から「世界に必要なたった一つの世界観とは、中華にほかならない」という中華思想が連綿と引き継がれている。

ローマにせよ、中華にせよ、ハートランド(大陸)の大部分を占める地域では、この「正統性の継承」ということが、つねに政権のスローガンとなってきた。

これに対して「世界帝国」論というのは、明らかに、これらローマ世界や中華世界に対する、アンチテーゼとして存在してきた。

その最たるものが、「大英帝国」である。ナポレオンを破ったあとの英国は、七つの海を支配し、決して日が沈むことのない大帝国として18世紀から19世紀初頭に君臨した。栄光ある孤立は、その誇り高き孤高の象徴である。

そこから分離したアメリカもまた、戦後のパックス・アメリカーナ(アメリカによる世界平和)を示現し、まさにアメリカそのものが「世界帝国」化したものと言っていい。

このアングロ・サクソン中心の帝国は、つねにハートランドの第三帝国や中華帝国を掣肘し続ける形で歴史を動かしてきた。大英帝国もアメリカ「帝国」も、ハートランドから見れば、縁辺地域(周辺国家)か域外国家である。

しかもその裏側には、これらの「世界帝国」志向の原動力として、シオニズムがかなり影響を与えていると推察される。少なくとも、権力はユダヤ人社会のエルサレム奪回と、ユダヤ教による世界支配というこのシオニズムが陰に陽に支えてきたことは間違いない。属にいう、ユダヤ人の国際金融資本である。

こういう対立構造で世界の歴史が右に左に揺れてきた中で、同じく極東という縁辺地域からにわかに勃興してきたのが日本であった。

幸か不幸か、日本はユダヤ的なシオニズムが社会構造の淵源には存在しない。が、明治維新以降は、明らかにユダヤ資本によって、世界史に引っ張り出されてきたといえる。その最初の事件が、日露戦争である。

以後、大英帝国やアメリカ「帝国」の意図に沿っているときには、彼らは日本を支援したが、その意図から外れてくると、掣肘を加えてきたのである。それが太平洋戦争である。

日本という国家の位置は、明白に第三帝国や中華帝国に対するアンチテーゼであるべきなのだろうが、前者(ナチス・ドイツ)と軍事同盟を結び大英帝国やアメリカ「帝国」の眉をひそませた。

そして、中華帝国との戦争は本来まったく問題視されるところではなかったはずなのだが、残念ながらアメリカ「帝国」も中華帝国の乗っ取りを企図しており、日本がこれと共同戦線を持たなかったことから、邪魔になり、潰しにかかったと言える。

今、現代社会は、プーチン大統領の「聖なるロシア(第三のローマ)」と、習近平主席の「中華世界の実現(2049年への百年マラソン))」という脅威に直面している。

一方、英国はEUからも離脱して、再び栄光ある孤立を目指している。アメリカは当面の脅威である中華世界の崩壊を目論でいる。再び、ハートランドと縁辺国家との確執は、加速し始めているようだ。

日本はどこに立っているべきなのか。歴史・文化的には、縁辺国家である日本だけに、英国やアメリカのサイドに立つのが「自然」ということになる。ただ世界はグローバル化しており、かつての時代と違い、各国利害はそれこそ複雑に絡み合っているから、イデオロギーによって一刀両断できる状況ではなくなっている。

要は、上手に泳いでいくことが課題なのだが、一体、それには何が必要なのだろうか。

ハートランドに抗して力を蓄えるのに、日本のような縁辺国家に絶対必要なものはなんだろうか?

それはハートランドが、ともすると持つことができない社会構造であるとすれば、その一つに「多様性の許容」ということがある。

ロシアにしろ、中国にしろ、いずれもローマの継承者、中華の体現者といいながら、つまるところロシア人・漢民族のナショナリズムの正当化にすぎない。

だから、依然としてロシアではユダヤ人は愚か、少数民族への蔑視・迫害が終わらない。中国ではさらに激しい。イスラム教徒200万人とも言われる矯正キャンプや、チベットの長期間にわたる弾圧を見ればよくわかる。

しかし、大英帝国にしろアメリカ「帝国」にしろ、アングロサクソンというのは、必ずしもそうした狭量な民族主義とは違う国家観を持っている。それが「多様性の許容」である。自由主義や民主主義というものは、そういうものだ。

白人優位とはいえ、この2つの国家は、最終的にプラグマティック(現実的)な利益追求が国家の原動力としてある。それはユダヤが後ろに控えていることもかなり影響しているだろう。必ずしも、ロシアや中国のように赤い国境線にはこだわらないのだ。それが、どの民族の人間であろうと構わないのだ。カネになるものは使えば良い、という発想だ。マネーの支配が、世界の支配だという考え方が根底にあるためだろう。

この英国やアメリカというのは、自分の世界観に世界中の知恵とマネーを集めることに全精力を費やしている。

日本が生き残っていくとしたら、おそらくその道であり、日本民族(やまとみんぞく)が世界を支配するという途ではない。実際、満洲国の創設も、首謀者の石原莞爾関東軍参謀の思想に見られるように「五族協和」であった。

太平洋戦争も、ご都合主義的に担ぎ出されたのだという批判はあるにしても、歴史的効果としては明らかに「大東亜共栄圏」という言葉に表されている。

やはり日本にとって、一番自然で、馴染みやすいのは、単一民族の圧倒的支配を世界に敷衍するという、「第三のローマ」「第三帝国」「中華世界」という概念ではなく、アングロサクソン的な「世界帝国」志向のように見える。国土を広げたいわけではない。実質的な支配力の増強を目的としている世界観である。

昨年のラグビー・ワールド・カップで、日本チームは大会の盛り上がりに火をつけるという点では大金星を飾った。誰も想像しない健闘ぶりを見せた。チーム・メンバーたちが「すべてをこれに賭けてきた」という言葉通り、あの大会中、「最強の敗者」であったという印象を、世界中の人々に刻みつけたのは事実である。

あの日本のラグビー・チームの決定的な特徴が、「多様性」であったことは間違いない。ワールドカップは、出場選手に国籍要件を求めないのである。

だから、日本代表は、純然たる日本人もいれば、日本国籍を持つ海外出身者もいたし、また完全に外国籍の者すらいる混成チームであった。

抜群の多様性を、最も有機的に統合させることに成功した直近の大戦果が、あの昨年のワールドカップにおける日本のラグビー代表チームであったように思う。

おそらく、あれが日本の理想とする最終形なのだろう。それに引き換え、日本の経済・社会構造はいかにそれとはかけはなれたところで逡巡していることだろう。途は確かに遠い。海外では、恐るべき「世界観」の衝突が始まっているというのに・・・