復讐と贖罪 ~恋愛小説のステレオタイプ

文学・芸術

これは189回目。恋愛小説というものを、考えてみました。いろいろな種類があるのでしょうし、わたしはほとんど古典的な作品しか読んだことがないので、あまり参考にはならないかもしれません。わたしが読んだ中では、とても対照的なステレオタイプ、二つを取り上げてみました。『復活』と『嵐が丘』です。「現代の恋愛はこうじゃないのだ」と言われれば、それでわたしは沈黙するしかありませんが。

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恋愛はいつも、エゴイズムで終わる。究極の形は復讐である。逆の究極は贖罪かもしれない。いずれにしても成就しないのである。エゴイズムだからにほかならない。恋愛は、しょせん愛とは違う。

成就してしまったら、それは幸福であるかもしれないが、少なくとも文学のテーマにはならない。問題提起にならないのだ。そしてまた成就しないからこそ、恋愛の激しさ、重さ、その醜さ、浅はかさが際立つからだ。

ここに両者の典型的な小説がある。まず、贖罪から見て見よう。トルストイの『復活』だ。恋愛と、愛と同じなのだろうか。どうも違うようだ。

この小説は、トルストイの中の長編では、わたしは『戦争と平和』より、『アンナ・カレーニナ』より、はるかに質が高いと思っている。

主人公のネフリュードフは、ある裁判の陪審員として出廷する。被告人は、驚くべきことに、若き日に弄んだ下女のカチューシャだった。彼女は、ネフリュードフに捨てられた後、彼の子供を産み、娼婦に身を落とし、殺人にかかわっていたのだ。

カチューシャには殺意が無かったことが証明され、本来なら軽い刑で済むところ、運命のいたずらか手違いでシベリア流刑となる。ネフリュードフは、贖罪の意識に目覚め、恩赦をもとめて奔走し、ついに彼女の後を追い、その厚生に一生を捧げる。

最後まで小説はトルストイらしい、あまりにも理想主義的なヒューマニズムに貫かれている。それだけに、(作者の意図とは別に)果たして氷のように心を閉ざしたカチューシャは、ネフリュードフの愛(と彼は思っているが、必死で救済しようとしているのは、彼自身の魂にほかならない)は届くだろうか。

カチューシャが「許す」と言えば、万事解決するのだろうか。二人が改めて結婚すれば、それで幸福になれるのだろうか。

さまざまな疑問や懐疑を読者に残しながら、一方的な贖罪の物語は進行していく。ネフリュードフをロマンチシズムであるとすれば、変わり果てたカチューシャはリアリズムの権化である。

カチューシャにとってみれば、自分を弄んだときも、自分を救済しようとしている今も、ネフリュードフのようなロマンチシズムは、鬱陶しさのなにものでもない。変わり果てて彼女は本来冷徹なりアリアズムの世界に生きているからだ。しかし、カチューシャは、今でも実はネフリュードフを愛していたのだ。しかし、ネフリュードフが果たして心底、カチューシャを愛していたかといえば、おそらく違う。だから、カチューシャは、罪人の彼女に改めて結婚を申し込んだネフリュードフに応えなかったのだ。また求婚を受けることで、むしろカチューシャは、愛するネフリュードフの一生を破壊してしまうことを恐れたのだ。だから、身を引いた。

さて、こうした一見、遅すぎた純愛物語、悲恋物語のように見える『復活』だが、カチューシャの拒否は愛かもしれない。が、果たしてネフリュードフの求婚は、愛なんだろうか?

ある意味、これも贖罪を扱いながら、究極のすれ違いということもできる。これと対照的なのが、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』である。

トルストイの長編の中では抜群に読みやすい『復活』と違い、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』は、嫌になるくらい読みにくい。そもそも、(当時から問題とされていたように)語り手が、ときに真実ではないこと、つまりウソを言うのである。

三代にわたる愛憎劇であるだけに、人間関係や筋書きが複雑で、読者はときに混乱する。昔は、出版社が時系列的に話を並べ替えてしまったことがあるくらいだという。

話を簡潔にすれば、要するに幼馴染のキャサリンに裏切られたと思ったヒースクリフが、その一族を支配し、財産をすべて奪い、死に追いやり、そして滅ぼそうとする執拗なまでの復讐の連続である。

そして、その結末は、どうだったろうか。滅ぼされかけた一族の生き残り二人は、ヒースクリフの死後、幸せな明日という光を垣間見始めるのである。ヒースクリフの復讐は、成就したと言えるのか。それとも、すべては無益な徒労でしかなかったのか。一体あの、生涯をかけた狂気のような復讐は、なんの意味があったのだろうか。

あるいは、キャサリンの死後、ヒースクリフがその墓を暴いて死体を抱く場面がある。そこでヒースクリフの愛は、多大な犠牲を払いながらも、成就したと言えるのか?

逆の言い方をすれば、ヒースクリフのキャサリン(自分を捨てた女性。彼女がすべての発端である)への愛とは、果たして愛だったのであろうか。もしそれが真実愛だったのであれば、愛とは復讐と本質は変わらないのだから、そのくらい彼の愛とはおぞましいほど醜悪なものにほかならないものだったということだ。

ヒースクリフは、語り手(ネリーという下女)によって最後の最後まで、その心のうちというものを明らかにしていない。酷薄無残な復讐鬼の行状のみが延々とつづられている。

ヒースクリフは、キャサリンを思い起こさせるこの世のすべてを破壊しつくそうとして、最終結末ではそれを果たさずに狂死していくのだ。

「さえない結末じゃないか。しゃかりきになって奮闘した末に、こんなところに行きつくとはお笑いだな?」

しかも、彼はこの復讐劇の元凶であったはずのキャサリンには何一つ手を下していないのである。

『復活』も、『嵐が丘』も、恋愛小説とは実は呼べない。いや恋愛小説なのかもしれないが、「愛の小説」ではないのだ。本人たちは、自分に執着し、相手に執着すればするほど、お互いの意志とはまったく無縁の、目に見えない力によって振り回されているようにしかみえない。もっと逆説的に言えば、それを知らしめると言う意味では、「愛の小説」なのかもしれない。ここには「愛は無い」という小説である。

愛という、一見非常に深い小説のテーマのように見えていて、つきつめるとどちらの名作も一種の「狂気」と言ってもいい。『嵐が丘』は容易に狂気を感じることができるが、『復活』は違うというだろうか。ネフリュードフのように、貴族が全財産を投げうって、一人の身を持ち崩した犯罪者の娼婦に身を捧げようとするのである。これを「狂気」と言わずになんと言おうか。

『復活』も『嵐が丘』も、主人公のカップルは、実は最初から最後まで、一心同体なのかもしれない。『嵐が丘』の中で、キャサリンが、そこにヒースクリフがいると知らずに、彼の愛を話す場面がある。

「彼が、わたし以上にわたしだからよ。」

身震いするような一言である。シベリア送りになるカチューシャが、ネフリュードフから遅すぎた求婚を告げられたときに応えなかったのも、カチューシャにとってはネフリュードフが、自分と一心同体と思えるくらい愛していたからにほからない。自分のために、ネフリュードフを引き摺り、彼を壊したくはなかったのだ。

彼らが抗い、あるいは復讐しようとしたり、贖罪しようとしていたのは、むしろ彼らの人生をまるごと呑み込んでいる運命そのものであったかもしれない。その意味では、本当のテーマは、心のすれ違いでも、復讐でもなく、彼らの愛のありかたでは、運命を克服することができないという問題提起であったかもしれない。



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