軟派で結構~山は怖いのだ

雑話


これは203回目。山登りをする人間にはいくつかの名称があります。登山家というのは、山に登ることを職業にしている人です。だから余暇に登山をするアマチュアのことを、ふつうは登山家とは呼びません。もっとも、職業として狩猟のために山に入る人を、昔は「またぎ」と呼んでいました。

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プロかアマかを問わず、さまざまな呼称があるのだが、たとえばクライマーという呼び方もある。これは、岩登りを専門にする人たちのことだ。カラビナとか、ハーケンなど、「ガチャ」と通称される「鳴り物」をがちゃがちゃと腰などに吊り下げている人たちだ。

あの、クライマーの特権であるかのようなガチャを吊り下げている姿は、山に登る人にとっては、一種憧れだが、そそり立つ垂直の崖をよじ登って行くわけで、非常に高度な登山技術が要求されることは言うまでもない。

これに対して、山登りに宗教的な目的を持ち込んでいる人を、修験者と呼ぶ。宗教にまでは至らないが、哲学を持ち込んでいる人を、俗にアルピニストと呼んでいる。本人は、特段、哲学と意識していないことも多いだろう。一般には「山に登ることそのものを目的としている」と言う人が多いかもしれない。

多くの人は、もっと娯楽的な、趣味的な登山をしているわけで、おそらくこれをハイカーとでも呼ぶのだろう。

山には、人それぞれの向き合い方がある。クライマーが素晴らしい登山であり、文字通り物見遊山のハイカーが低俗な登山だということは、けっしてない。たとえば、ハイカーは、クライマーのような優れた登攀技術は持ち合わせていないだろう。しかし、クライマーというものは、四季折々の樹木や草花を美しいと思う審美眼など、これっぽっちも持ち合わせていないのが普通だ。記録追及の亡者といってもいいくらいだ。ハイカーのほうが、よほど山の美しさに同調できる感性が豊かなのだ。クライマーは、征服欲や支配欲で心が満たされるが、ハイカーは山に一体化することで癒される。

軟派で結構。よほど、そのほうが、エベレスト無酸素登山を敢行するアルピニストや、「征服」した岸壁の数を競うストイックなクライマーなどより、はるかに山とは何かを知っていることも多いだろう。

ただ、山に登る人に線引きが出来るとしたら、一点だけ考えられる。それは、「恐れ」を抱いているかどうかだ。物理的にも、また神秘的にも、なんらかの恐れというものが無ければ、正直山に登る「資格」は無いといっても過言ではない。そしてその山の怖さというものは、かなりの部分、人間の犯す過ちと表裏一体である。

警察庁の統計では、過去、日本国内で発生した遭難の件数は山が増え、水辺が減っているのだ。確かに「山は近くなってきている」のだ。

山の遭難にはいくつかの類型に区分されているが、気象遭難、道迷い遭難、滑落遭難などが一番多い。そしてこれらは、重複して致命的なダメージを登山者に与えることもある。甘く考えがちだけに、一番盲点となりやすく、危ないのが低体温症だ。

低体温症では、体温が35度になった辺りから脳機能の低下を引き起こし、判断力が通常ではなくなる。幻覚や錯乱、ろれつが回らなくなり、言動がはたから見ても異常さを増してくる。34度以下でほぼ足の左右すら把握できず動けなくなり、32度以下辺りで死亡確率が一気に増大し、27度では確実に死にいたる。簡単なことだ。クリティカルラインまで、たった3度の違いである。絶体絶命には7度必要ということになる。

体が冷えると震えで熱を発生するが、その限界点が35度前後で、更に冷えると内臓を温めるために体の震えは収まるが、体表の冷たい血流が内部を巡回する為に、体温低下が加速し、想像を超える早さで内臓機能低下を引き起こす。この恐るべき低体温症の回避には、十分な防寒着および行動食摂取による熱発生が必要になる。

2009年7月16日早朝から夕方にかけて、北海道大雪山系のトムラウシ山において、悪天候に見舞われた結果、ガイドを含む登山者9名が死亡した事故がある。夏山の山岳遭難としては、近年でも稀に見る多数の死者を出す惨事となって記憶にまだ新しい。

途中悪天候となり、稜線では台風状態の中、ずぶぬれとなった20人(内ガイド3人)のパーティは、順次低体温症に陥った。風速70-90mと推察されるが、これは時速105~180kmの自動車から身を乗り出したのと同じ状況だ。本州の夏山では考えられない零下6度にまで気温が低下し、強風とあいまって体感温度は零下14度にまで下がっていた。

午前5時半に出発地点のヒサゴ避難小屋を出発。普通なら、2時間半から3時間で到達する山頂下の北沼に、6時間近くかけて到着。10時半ごろに、女性一人が低体温症の反応を見せ始めている。ここから、パーティは段階的に分裂していく。最初の生存者が自力下山で危地を脱したのは、当日の夜中、零時前だった。

この事件には、さまざまな問題が指摘されているが、ここではやはり登山ツァーであったことによる、団体のスケジュール優先の固定観念が一番最初の段階で、引き返すという果断さを妨げたことは否定できない。

しかし、なによりやはり低体温症のリスクに対する参加者全員の認識度合いが問題だったろう。先述の低体温症というのは、登山のみならず、平地でも(たとえば、扇風機などで)容易に発生する可能性がある盲点なのだ。

登山は、軽量化が必要であるから、どうしても食料については、行動食・非常食を含めて、できるだけ合理化しようとする。これは致し方ないことだが、そもそも人間は、食わなくても論理的にはそれなりにしばらく生きていけるのだ。

というのも、人間の体の脂肪分は、栄養摂取がなくなると(空腹を感じると)、体内のモードのスイッチが切り替わる。脂肪分がエネルギーに転換されていくのだ。山登りをしてきても、体重が減らないということが多いと思うが、それは、登山中食事を取っているからにほかならない。それが、エネルギーとして発散していっただけだから、体の脂肪分は減っていない。

ところが、空腹になるとこのモードが変わるのだ。脂肪分の燃焼が始まり、エネルギーに転換される。行動食はこのとき重要な役割を果たす。たとえば、板チョコなどが行動食として多用されるのは、その糖分によって、脂肪分のエネルギー変換を促す着火剤になるからだ。

食料が尽きたとしても、この板チョコという強烈なエネルギー転化剤によって、人間は20日とは言わないまでも、すくなくとも4日間(板チョコ2枚分ほど)は脂肪エネルギーの燃焼だけで行動が可能になる。とくに低体温症の発生を阻む一つの方法として、板チョコの摂取による内臓運動の活性化と、脂肪エネルギーの燃焼というのは、きわめて有効だ。

しかし、北海道ならずとも、本州の山でも森林限界を超えれば、天候はきわめて急速に変化するし、夏山と言えども低体温症に陥ることは多々ある。条件がそろってしまえば、気温10度でも、発生するのだ。低体温症による死亡というのは、要するに凍死なわけだ。これは不必要なほどの準備によって、かなり避けられるリスクである。

ちなみに、道迷いなどの遭難に陥った場合の対処法にも触れておこう。人間、迷ったと思うと、「どうせ、山は下ればそのうち人家や村落にたどり着く」という誤解をしやすい。だから、やたらと必死で下ろうとするのだ。しかし、これは山では非常識である。

もちろん状況にもよるから一概にも言えないのだが、原則として言われていることは、道に迷ったら、引き返す。しかし、引き返す道も分からなくなっている場合が問題なのだ。
このときには、逆に尾根を目指すということだとされている。いわゆる稜線に出るのだ。つまり、登るのである。

山というのは、予想もつかない形状をしている。迷ったと思って、道無き道を下ってしまうと、まず十中八九、沢に降り立ってしまうことになる。沢は、切り立った谷底と同じであるから、ほとんどが岩場である。この岩場を渡渉するのは、とてつもない疲労負担になるのだ。まず、1時間もしないで動けなくなってくるだろう。スリバチ状の沢に陥ってしまったら、そこからの脱出はきわめて困難であり、脱出したとしても疲労は極限に達している可能性が高い。

渓流沿いだから、このまま流れに沿って、歩き下っていけばと思うのはわかるのだが、そこまで辿りつくことがまずできない。場合によっては、途中滝のような状態であったり、歩く場所は、逆に岩場をかなり登ってから迂回しなければ、流れに沿っていけないという場所もでてくる。これを二度、三度繰り返しているうちに、やはり体力が限界を迎える。

だから逆に、道に迷ったら、とにかく登って稜線に出ろ、と良く言われることだ。稜線・尾根というのは見晴らしが良い。一体、その一続きの山並の中のどのへんに自分が位置しているのか、かなり正確な認識ができるのだ。もし、町や都市を望むことができれば、目標を定めることもできる。

当然、道に迷った時間帯が夕方であれば、もはやビバーク(緊急幕営)以外にはない。動かないことだ。夜間行動は命取りである。国定公園だろうと(原則、幕営禁止)なんだろうと、ビバークを強行するしかない。

山登りには、さまざまな経験則や知恵、予備知識などが必要なことは言うまでもない。わたしなどは昔、八ヶ岳の部分縦走を試みようとして意欲満々で取り付いたのは良いが、稜線まで出たところで、嫌な感じがして、奥蓼科の温泉にさっさと下りてしまった。山登りが、途中で脱落。いきなり温泉三昧に切り替わってしまった。

一応自分的には天気に不穏を覚えたというだけなのだが、それはただの口実だった。要するに気が乗らなくなったのだ。あれだけ気分高揚して山に入ったのに、にわかに気が乗らなくなるというのは、わたしの場合普通ではない。強行しても、まずろくなことにならない。こういうときは、やはり単独行は楽だ。人のことを気にする必要がないから、自分勝手に山を下りることができる。挫折感、敗北感など、軟派な登山者だからさらさらない。

勝ち残るには、生き残らなければならない。生き残るためには、挫折感や敗北感を持たないことだ。山はわたしにとって挑戦の対象ではない。だから、負けることも決してない。戦わないのだから当然のことだ。要するに、わたしはただの軟派なハイカーということだ。それで結構。それも、近年では、時間が取れないという理由を盾にとって、まったく山が遠くなってしまった。ますます軟派になっている次第。

ちなみに、「迷ったら、もっと上れ」という先輩諸氏からの助言だが、ほかにもいくつかあるのだ。一番意味不明なのは、「初雪の山には上るな」というもの。

長いこと、地面が滑りやすく、危険だということなんだろうと勝手に想像していたのだが、近年、初雪の山というのは「ふだん見えないものが見える」という怪談を聴いたので、「え~、そういうことなんか?」とびっくりした。

ほんとかどうか知らない。「見てはいけないものが見える」から、初雪の山に登ってはいけない、というらしい。くわばらくわばら。



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