若者に文学など要らないんでしょうかね?

文学・芸術


これは202回目。日本の文学を読んでいると、非常に極端で、逆のパターンが見受けられます。どうしたらそこまで自信を誇れるのか、というくらいのロマンティシズム。一方で、どうしてそこまで自虐的になり、羞恥心のどん底に落ち込んでしまうのか、という自己嫌悪。どちらも、若い人には無用なのかもしれませんね。

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たとえば、前者のロマンティシズムというと、与謝野晶子の歌集は、うっとうしいくらい自己愛に満ちている。

その子二十(はたち) 櫛(くし)になるがるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな

やは肌の あつき血潮にふれも見で さびしからずや 道を説く君

乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれない)ぞ濃き

いとせめて もゆるがままに もえしめよ 斯くぞ覚ゆる 暮れて行く春

春みじかし 何に不滅の命ぞと ちからある乳(ち)を 手にさぐらせぬ

人の子の恋をもとむる唇に 毒ある蜜を われぬらむ願ひ

確かに、かなり食欲不振になるくらい、これでもかこれでもかという自己愛が炸裂している。が、ふとよく立ち止まって味わってみると、その裏側には、逆の「あまりにもはかない命」「頼りない人と人との交わり、関係性」といったものへの、激しい抵抗感が渦巻いているのに気づく。

「尊大な自尊心」に見える与謝野晶子の歌も、人間の悲劇的な存在を強烈に意識した上でのものだとすれば、哀しみさえ感じられる。

ただ脳天気に、青春ってすばらしい!などと、うぬぼれているわけではないのだ。逆である。悲壮感がそこにあるのだ。

あたかもこれとは反対側にいるかのような、太宰治はどうだろうか。「尊大な自虐」は、行き過ぎていて、これまた吐き気がしそうなほど、うっとうしい。もうたくさんだと言いたくなるくらい、羞恥に溢れている。

有名な晩年の「人間失格」の一説は、印象深い。

『恥の多い生涯を送ってきました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。
自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。
そこで考えだしたのは、道化でした。最後の求愛でした。・・・』

いかにも太宰らしい、自虐でありながら、逆に強烈な自己主張をしている。それも自分以外のすべてを否定しかねない強烈さである。

まったく文学史上、ジャンルやカテゴリーの違う、この二人の文学者だが、不思議と共通点がある。それは、それぞれの視点で、「人間の限界」に絶望し、その中でまだ最後の抵抗をしようとしている姿勢である。

絶望や限界があるから、希望を信じられるのかもしれない。それがなければ、ただの自己賛美や、自己卑下で終わる類のものでしかない。それが、文学史に燦然と輝いて一ページを刻んでいったということは、そういうことなのだろう。

この自尊心と自虐という極端な相反価値を、そのまま描いて見せた作家のひとりが、ロシアのドストエフスキーである。

彼の初期の人道主義的な作風から、後半の長編に代表されるような人間不信や絶望に彩られた作風へと、橋渡しする格好になったのが、「地下生活者の手記」である。

ネクラーソフという登場人物が、地下室で書いた手記という体裁をとったこの小説は、1+1=2の世界への疑問、人間は理想のためだけに動くわけではなく、同じくらい破滅のためにも動くということ。人間は、矛盾に満ちている、といった視点に集中した内容になっている。

この「ひきこもる人々」は、現代社会では多くの若年層に見られるパターンである。たくさんのネクラーソフが、この日本の若年層にも溢れかえっているような気がする。

激烈な自尊心と、同じくらい激しい自己卑下の意識にさいなまれる存在である。知識や体験があれば、まだしもこの発熱を抑えることもできようが、しょせん若年層にはそれができる知恵も工夫も無い。彼らは、思うのだ。自分は賢いはずだが、同時にハエのような存在だと。

世界が悪いのか、自分が悪いのか、それともどちらでもないのか。 世界は悪い、自分も醜悪、だからひきこもる。 作中には印象的な文章がある。

『世界が破滅するのと、このぼくがお茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。』

このドストエフスキーのような作家は、非常に危険だとよく言われる。太宰治が危険だとされるのもそうだし、ニーチェが危険だというのも同じである。つまり、感染力がきわめて高い作品が多いのだ。それも、根底にあるのが、人間への絶望と限界であるから、タチが悪い。多感な年ごろにこういった作品群を読むと、シンクロしてとんでもない言動にその人を誘い込んでしまう恐れがあるのだろう。

文字通り、字面を読んで、「信じ」て「同調し」てしまうからだ。作家の行間の思いを読み込めないからだ。

だから、人生にもまれた後に、これらを読むと、同じ感染力でもかなりこちらも免疫をつけているから、冷静に読むことができる。言葉を文字通り受け止めてしまうミスは、少なくとも無くなる。本当のところ何が言いたいのかに思いを馳せることができる。

つまり、文学(とくに詩は危険である)は、若い時に読んではいけないということだ。優れた文学作品であればあるほど、危険だということになる。愚にもつかないような作品か、あるいは完全に童話や物語であれば、問題無いだろう。

文章が簡潔で平易だからといって、聖書のようなものは絶対にいけない。宗教書というのは、危険も危険である。優れた文学作品の先にあるものが、宗教という世界だからだ。子供にいきなり核弾頭のボタンを与えるようなものである。

極論を言えば、優れた文学というものは、40過ぎたら読めという感じだろうか。だいたいからして、昔、戦前のころ、文学など正直、不良やごろつきの手慰みくらいにしか扱われていなかったのだ。優れた作家ほど、本質は愚連隊といっしょである。若いうちは、わたしはドキュメンタリーをひたすら読むべきだと思うようになった次第。

小説とは、事実より遥かに真実性を表現するためのものである。優れた文学小説というものは、そうしたものだ。が、純粋に研ぎ澄まされた真実を露わにしているから、それだけ危険なのである。たぶん、絵画もそうだ。音楽ですらそういう気がする。聴けば理不尽なほどの精神の高揚を揺さぶられるワーグナーの音楽を、ナチスが大衆動員のツールに最大限活用したことなども、その類だろう。

若いうちは、小説など読まなくても良い。どうせ、わからないか、わかったらその人は危ない。むしろ、生身の人間の生きざま・死にざまの記録を読んだほうが、ずっと価値がある。年齢を経て、若い時分にずいぶんと文学小説に溺れた経験から、そういうことが言える。嘘だと思うなら、小説を読みふけったらよい。若い世代ならきっと、クソの役にも立たないか、役に立つ前にあなたは病理に陥るはずだ。

そこからふと気が付いて、帰ってこれる人は良い。帰ってこれなかった人が、どれだけいたことか。わたしらよりもっとずっと長く生きなければならない若者たちは、文学という無謀にして危険な麻薬に、手を染めている暇などないはずだ。

そもそも20歳前後までに得た知識と能力だけで、その後の50年を生きていこうなどというのは、あまりにもずうずうしすぎるのだ。思いあがるなということだ。文学は、そういう錯覚を起こさせる麻薬なのだ。

若者というのは、だいたい5年から15年くらい年長者のファッションやライフスタイルは、「ダサい」と思うらしい。ところが、20-30年離れた世代のものは、意外に新鮮に感じるという法則があるそうだ。

流行というものが、それである。そんな程度だということなのだ。その定見も無い未成熟者が、文学を読むなど早すぎるのだ。彼らには、仮想の世界観ではなく、生身の人間に少しでも接することのほうが、遥かに重要なのだ。

それは、直接、同時代の人間とやりとりに限らないドキュメンタリーや伝記、ルポルタージュなどを通じて(それが書物による記録でも、動画でも)、会ったことも、そして決して会うこともない過去の多くの人間の生きざまや死にざまの真実を知ることのほうが、経験値が増すのである。



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