パラノイアが世界を変える。

雑話


これは85回目。人類の歴史を、前へ前へと推し進めたのは一体どういう人たちでしょうか。それは意外なことに・・・

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かつて、CPU(半導体、演算処理装置)最大手のインテルの創業者、グローブ氏に有名な言葉がある。

「パラノイア(偏執狂)だけが、生き残れる」

正確には、Paranoid(偏執者)と言ったのだが、日本では英語の音(おん)の通りがいいのか、パラノイア(偏執狂、偏執病・症)が使われている。

要するに、「変な」人間だけが、生き残るという意味だが、まともな人間は生き残れないのだろうか。確かに、かのダーウィンも「種の起源」の中で、「突然変異が、進歩と呼ばれる優勝劣敗のダイナミズムとなった」と核心に触れていた。「突然変異」というのは、要するに「異常な、変種」である。

わたしなどは自分のことを、たとえばこの会社の中で、もっとも「きわめてまともで普通の人間」であると確信しているのだが、どういうわけか社内では、「もっとも変な人間」という評価になっている。冗談ではないのだ。思い返せば、サラリーマン時代、いくつかの会社を渡りあるいたが、常にそうであった。学生時代もそうであった。ずっとそうだったのだ。それでは、わたしは、「変な人間」なのか、それともわたし自身がそう思っている「普通の人間」なのか。

結論としては、だれもみな自分を「普通」だと思っているのだ。しかし、たいてい誰でも「変な」ところがある。問題は、その「変さ加減」が突出しているかどうか、ということだ。

ここに面白い研究がある。さる同僚によると先日NHKでも特集番組が放映されていたようだが(ナショナル・ジオグラフィックの制作したものらしい)、要点としては「多動性障害者が、人類を世界に動かした」という仮説だ。

「多動」というのは、どういうことかご存知だろうか。一般的には「落ち着きが無い」といったような言動で知られる。

ところが、人類の700万年の歴史において、この「注意欠陥多動性障害(AHD)」と呼ばれる性質こそが、アフリカ起源の人類を、世界に移動させた原動力であった、という仮説がある。これはいわゆる人類の大移動「GreatJourney(偉大な旅)」と呼ばれている、人類の地球規模的な活動のスタートとなったムーブメントである。

人類は、アフリカ中央で発生し、そこから何十万年もの時間をかけながら、少しずつ生息範囲を広げていったとされている。アフリカから、シベリアを抜け、ベーリング海峡(当時は陸続きだった)を通過し、北米大陸に入り、最も離れた南米大陸に辿り着いたのは、今から1万3千年前と言われている。この「グレート・ジャーニー」が終息するまでに、実に、700万年のうちの大半を必要としたことが確認されている。

なぜ、4大陸に進出するために700万年近い時間が必要だったのか。危険が大きすぎたのである。恐らく、何度も進出しては膨大な犠牲者を出したことが推測される。人類は夥しい失敗を繰り返し、犠牲を払いながら、700万年の人類大移動を完成させたのだ。

この、現代からは想像もつかない危険に挑んだ種類の人間が焦点である。これは、「異常者」でなければできないということだ。この「グレート・ジャーニー」を突き動かした原動力こそ、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」と現在呼ばれる人たちだ、と仮説されているのだ。

この「注意欠陥多動性障害(ADHD)」の特性とはなんだろうか。現代では、これは「障害」とされている。なんでもかんでも、病名のようなものをつけて、「障害」だとする社会傾向は、どうにかならんのか思うが、一応それにならって書いてみよう。

特徴としては・・・

1.注意に関する障害(或いは執着と過度なこだわり)
2.多動性(落ち着きがない)
3.衝動性の高さ(後先考えずに行動する)
4.その他の性質

もちろん、ADHDにもタイプがあり、不注意優勢型、多動性衝動性優位型、混合型に分けられる。わたしの場合は、全部当てはまる。完全にADHDだ。

一度、うちの下の子が、多動ではないか、ということで、以前のことだが家内が心療内科につれていったことがある。本人はとくにそういう診断は無かったが、医者がこう言ったそうだ。「お父さんって、変わってるって言われませんか」話がわたしの話に完全にすり替わってしまったという。家人の様子をいろいろと医者が尋ねたらしいのだ。それでわたしのことに話が及んだようだ。結果、わたしが「変わってると言われないか」ということになったのだという。余計なお世話だ。

こうしてネガティブな表現を使うと、「変だ」「おかしい」ということになるが、別の表現を使うと、まったくイメージが変わってくる。

1. 注意散漫→いろいろなことに注意を向けることができる。
2.落ち着きが無い→行動力がある。
3.衝動的→チャレンジ精神が旺盛
4.その他、飽きっぽい、執着する→飽きっぽいは刺激を求めて行動する、執着するは気が散らない集中性(一見矛盾する性格を同時に持っていることになる)

こうしてみると、原始、ADHDの特性が人類の生存圏を飛躍的に拡大させる上で、大変な役割を果たした可能性があると納得できよう。

面白いことに、現代ではこうしたポジティブな側面は隠蔽され、ネガティブな側面だけにスポットライトが当たり、なんと「障害」というレッテルを貼られているのである。インテルのグローブ氏は、こういう社会的な傾向に対して、噛み付いたわけだ。

このように人類を、地球支配に向けさせた功労者であるADHDが、いまや障害扱いとなってきた大きな転換期は、産業革命であるといわれている。つまり、工業化による労働の平準化、均一化、効率化という経済発展である。

教育の必要性がこの発展には必須であり、その普及によって、逆に個性はすべて消し去られていく効果を生んできたという皮肉な結果がある。拍車をかけたのは、「民主主義」であり「人権」「平等」という概念であった。それによって、逆差別とも言うべき悲劇を「異常者」たちは味わう羽目に陥ったことになる。

極度の効率性を求めると、ナチスのように「優生保護法」の徹底から、劣等人間の浄化(抹殺)という思想にもなる。障害者はことごとく、ゲルマン民族の恥だといって、消されていったのも、この流れだ。

日本でも、一斉授業を行う過程で、何らかの理由で学習がはかどらない子供が目立つようになり、ADHDのみならず、自閉症、スペクトラム障害、学習障害、知的障害、ことごとく「障害」のレッテルを貼られ、区分され、隔離される運命になっていった。

わたしなどは、「違った人間」と折り合いもつけられないようなら、つけられるようにしろ、と思ってしまうのだ。健常者のほうがコミュニケーション能力欠如で、病気なんじゃないか、そう言いたくなる。少なくとも、多少は、わたしのようなADHD(の疑いがあるようだ)の人間に、人類を救った功労者として敬意を払ってもらいたいものだ。

なまいき言ってすみません。



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