近代とは何か~わたしたちはどこに立っているのか?

雑話

これは11回目。「わたしの推薦図書」のコンテストに、サン・テグジュペリの『人間の土地』を応募しました。そのとき引き合いに出した、昭和の評論界の大御所・江藤淳の見方です。文学という鏡を通じて、日本の近代を一刀両断した論評はなかなか骨太です。わたしが昔よく読んだのは、角川文庫の『決定版・夏目漱石(江藤淳)』でした。

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電子書籍が急拡大している。読まれている本の種類は、かつてと同じなのだろうか。それとも、変わってきているのだろうか。ライト・ノベルが近年流行していたが、やはり「軽い」ものが一段と好まれるようになっているのだろうか。とても、古典になってしまった夏目漱石や、重厚な過去の評論が読まれているようには思えないのだ。

面白くないから、昔のものが読まれなくなっていくのか。それとも、ひたすら考えなくてもよい、読みやすいものばかりが好まれるようになっているからなのか。いずれにしろ、日本文学が盛り上がっているとはとても思えない。

江戸時代までの封建的社会と、明治維新以降の近代とどう違うのかについて、昭和の評論界の大御所だった江藤淳は、明快に一刀両断している。

江藤に言わせれば、近代という世界は、「個」の実現を目指したという。一番わかりやすいのが小説の主人公たちの立場だ。

日本の小説の主人公は、その多くが、田舎や古い家、社会の因習から逃れて都会に飛び出し、自己実現のために必死に闘う。理想は天の星のように高いのだが、やがて破れ、悲劇的な結末に至る。生き様そのものでいえば、石川啄木のような人生だろうか。そして残る結論は、自分は間違っていない。おかしいのは、国家や社会、親やこの環境のほうだ、ということになる。

小説の主人公をカテゴリーで分けると、こうした「エゴ」をあくなき追求する主人公を描く小説がある。

一方で、別の小説では、そうした自分の中の「エゴ」に抗い、自分と同じような「エゴ」を持った他者との関わりを、どう融和的に結びつけようとするのか。このテーマに苦悶する主人公を描く小説がある。

前者は、徹底的な自己肯定であり、近代の価値そのものである「エゴ」の追求を文字通り反映している。

後者は、自他の対立を打開するために、第三の道を選ぼうとする。たとえば、愛という概念が、自他いずれも超越したものとして描かれる。一方的な恋ではない、むしろ自己犠牲的な愛である。

江藤によれば、日本で書かれた小説のほとんど(彼は主流派と呼んだが)は、前者に属し、主人公のいずれもが自己実現という「エゴ」の追及をする、という。島崎藤村、田山花袋以来、日本の文学界は芥川龍之介でその頂点を極めるが、彼らの主人公はすべてこのパターンに入るというのだ。

芥川の『地獄変』は、その典型的なものだ。絵師は、殿様から「地獄の火で焼かれる人間の屏風絵を描け」と言われて苦労するが、結局できなかった。自分の娘が火で焼かれ死に、それを実写して傑作を描くことができたという内容だ。芸術至上主義というのも、この範疇(はんちゅう)に入るだろう。

プロレタリア文学も然り。労働者の主人公は正しく、社会が間違っているというスタンスは、舞台装置こそ違え、主人公の発想はイデオロギーという「エゴ」の実現である。

谷崎潤一郎も同じである。『春琴抄』では、憧れていた女性が醜い姿になってしまい、男はその美しさをその目に永遠に留めるために、自ら失明する選択をする。ここまでくると、究極の、マゾヒスティックなまでの「エゴ」である。他者のことなど御託は並べるものの、結局二の次であり、基本は自己の魂の救済が最優先なのである。「反主流派」であれば、こういう結末は選ばない。醜くなった女を主人公は愛するだろう。

この「エゴ」という近代精神は、戦後、アメリカの民主主義によって、一段と加速する。それまで、国家主義や、封建的な社会慣習といった古い価値がまだ残っていたから、こうした「エゴ」の暴走に良くも悪くも、かろうじて歯止めをかけていたが、その歯止めは1945年8月15日以降、失われた。

戦後の小説は、その「エゴ」が性欲という、もっとも生物的な欲求ひとつにほとんど集中的に仮託されて描かれるようになった。

近年では、それすら乗り越えてしまい、村上春樹作品のように、主人公の多くが「ノイローゼ」であったり、精神的に病んだ人間であったりと、自分の「エゴ」すら感じ取れない立場になっていく。

かつて、ドストエフスキーが書いた小説ではほとんどが逆で、登場人物のすべてが間違っているのに、痴呆や狂人だけが真実を主張したのとは雲泥の違いである。

このように明治以来、自己実現、自我の開放、自己愛の絶対肯定、という主人公のパターンがほとんどの小説の主人公を占めていた、と江藤は指摘する。彼の見立てによると、これに抵抗したわずかな作家たちがいる、と。その代表は夏目漱石である。森鴎外もそうだ。ただ、森鴎外は、明治が終わると、もはや小説を書かなくなる。歴史だけを書くようになり、過去だけを見るようになった。次の時代に期待をもてなくなったのだ。

漱石も『三四郎』の冒頭でこんな場面を描いている。日露戦争の勝利に酔いしれる群集を見ているときのことだ。車で知り合った乗客に、「日本は滅びますね」と言わせている。恐ろしいまでの予言だ。

日本は、国際連盟で五大国に入り、白人国家と肩を並べるにいたる。そのまま海外でも「エゴ」を貫き、世界を相手に戦争をして、壊滅する。その後は、アメリカの核の傘の下で安逸を貪り、国際的にはなんの主体的な貢献もせず、しようともしない。かつては脅威をもって見られたが、いまや軽く見られている。いずれにしろ、重視されることはない。日露戦争直後の、漱石の「日本は滅びますね」は驚くほどの確率で的を得ていたことになる。

日本の作家で、江藤が(やや条件つきのものも含めて)「反主流派」のものとして挙げたそのほかの作家は、太宰治、宮沢賢治、三島由紀夫、三浦綾子、初期の遠藤周作に代表されるような、わずかな人たちだけである。

江藤は言う、「面白くないものは、読む必要がない」と。結局、本が読まれなくなってきている理由は、読む側の力不足もある一方、書く側が面白いものを書けないという、これまた力不足のせいかもしれない。

100年の後、読む価値があるものとして残っているのは、吉川英治の『宮本武蔵』と、吉田満の『戦艦大和ノ最期』だけだ、とまで江藤は言い切った。

なかなか手厳しい論評だが、読んでおいて損はない。しょせん、文学という世界は人生の「余技」に過ぎないが、不思議なほどその国の社会や世相を正確に反映しているものだ。

日本の政治はどうしようもない、と嘆くことしきりだが、その国の国民の質が政治の質を決定しているのだ。文学にも同じことが言えるだろう。日本文学がまったく盛り上がらない現状は、日本の現状を示唆している。

わたしたちの国の形は、まだ幕末を引きずっていた日露戦争までと、その後現在に至るまでとで明らかに変容してしまっている。慨嘆をこめて、中村草田男が詠う。

「降る雪や明治は遠くなりにけり」



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