一流の文学は突き放す

文学・芸術, 雑話

これで12回目。前回、江藤淳を引き合いに出して、一丁前に文学論を語ってしまいました。プロでもないのに、だいそれたことをしたと結構後悔。これは三島由紀夫の自論です。わたしなりに芥川、漱石などを使いながら、それをかみ砕いてみました。ちょっと長いですが、ご容赦ください

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せっかくなので、開き直って、もう一本、文学のことを書いてみた。一流の文学ってなんだろ?ということだ。今回わたしがアップした『イレーヌ』という小説は、彼に言わせれば、おそらく二流どころか、三流だろう。間違いない。

文学というものが(ここでは小説に限定してみる)、一流か、あるいは二流かという分類をするとしたら、三島由紀夫の言い方を借りれば、「読者を、崖っぷちまで連れて行って、突き放す」かどうかということになる。

つまり、答えを出さないのだ。安易に答えを示す文学は、文学として二流だ、と三島は言った。文学というものの意義を論じるという点では、一つの強烈な分類方法である。

それが自然主義小説か、私小説か、ロマン主義文学か、意識の流れ派か、そういった技巧的な分類は、そこではまったく議論の争点にならない。どのような形式や方法論を用いた文学であろうと、要するに答えを出してしまうかどうかで一流か二流かが決まると、三島は言うのである。

答えを出してしまう文学は、なぜ二流なのか。読者を安心させるからである。その答えが正しいか、正しくないかはどうでもよい。読み手が感動するか、しないか、好きと思うか嫌いと思うかもどうでもよい。

作品が、読み手にある問いを投げかけて、さんざん引き回した挙句、答えの無い袋小路に置き去りにするのである。高級な文学とは、人を悩ませるものにほかならない、そう言っているかのようだ。つまり、「危険な作品」ということだ。二流品は、安易な答えや結末がそこにあるから、安心なのだ。ある意味毒にも薬にもならない。面白ければそれでよい、という程度のもので終わる。わたしが書くものも、まさにこの毒にも薬にもならないたぐいだ。

なぜなら、示される答えは、安易な「納得」を読者に強いるからである。真実には、安易な納得は無いのだ。一流の文学は、徹底的に読者を追い詰めて、その先には、宗教という一つの答えを用意している世界がある。あるいは、科学という確固とした答えを用意した世界もある。

しかし、一流の文学はけっしてそこには決して読者を導いてくれない。その直前で、突き放すのである。自分で考えろ、と。生きるための智慧を求めている読者を、ご丁寧に崖っぷちまで連れて行って、そのまま置き去りにするのである。

だから、文学など読まないほうがいいのかもしれない。楽になるためには、自分を、そして人間を知りたがらなければ良いのだ。自分がだれかも忘れてしまえれば、なんの苦痛も幻滅も無い。ただ、スマホで夥しい数の「親友たち」と、ひたすら惰性のように「つながっている」ことだけで安心していられる。一頃流行した言葉「きずな」という美名に隠れて生きていける。

文学の黄金時代は、18世紀からにわかに隆盛を極め、19世紀にピークを迎え、20世紀前半で、ほとんど死に絶えたといっていい。その二百年の間に、文学は人間というものを掘り下げて見せる、ほとんどの使命を果たし終わったのだろう。だから、読むに耐えるものは、18世紀から20世紀前半までの古典しか残らないはずだ。

文学は、やはり死に絶えたと思うべきなのだろう。あとは、二流、あるいは亜流しか生まれてこない。しかし、文学(古典)はすでに十分にその歴史的使命を確かに果たしたのだ。文学は、人間の限界をぎりぎりまで掘り下げて見せてくれたからだ。限界を知れば、可能性を信じられるだろう。三島が言いたかったことは、そういうことなのだろう。わたしはこんな風に、文学というものを考えている。

そういう区分について、非常にわかりやすいのが、芥川龍之介の多くの短編小説だ。全作品を通じて、短編として、早い段階からきわめて完成度の高い作品群が多い。小説というものの持ち味である、「面白さ」という要素では、比類のないほど優れたものばかりだ。

初期のものは、人間性の醜さ、エゴイズムを露わにさせるものが多い。「羅生門」はその代表作である。そこでは、酷薄な人間という現実を、まざまざと露わにしているだけだ。後味が良いように、ハッピーエンドで終わらせているパターンでは、「杜子春」がそうである。児童向けに書かれた「蜘蛛の糸」なども、典型だろう。

ご存知の通り、「蜘蛛の糸」では、お釈迦様はカンダタが生前、蜘蛛を殺さなかったというたった一つの善行を大事にし、悪逆非道なカンダタに地獄から抜け出すチャンスをやろうと、蜘蛛の糸を垂らす。

ところが、カンダタは自分だけが助かろうとして(大勢がそれと気づいて、蜘蛛の糸に群がったのだ。糸が切れてしまう、とカンダタは恐れた。)、その結果、糸が切れ、カンダタは地獄に舞い戻りとなる。糸を切ったのは、釈迦ではない。カンダタの醜いエゴイズムに、糸が耐えられなかったのだ。

そのまんまの、話である。児童向けだからわかりやすいということではなく、万事この調子なのである。もちろん、その中にも、いかにも芥川らしい、問いかけ、あるいは謎は伏線としてひそませてはある。そこが、芥川をして、文豪たらしめている部分だろう。

たとえば、この「蜘蛛の糸」であれば、カンダタの生前の唯一の善行とされる、「蜘蛛を助けた一事」だが、よく読んでみるとおかしな善行であることがわかる。カンダタは、その時蜘蛛を「偶然」見かけたわけだが、いきなり「えい、殺してしまえ」と踏みつぶそうとするのだ。その瞬間、待て待て、こんな小さなやつでも一生懸命に生きているのだからな、と思い直して踏みつぶすのをやめた、というのである。

おかしくないだろうか。普通、蜘蛛を見かけたからといって、殺してやれと思うだろうか。それも自分にとくに害のない、屋外での話だ。蜘蛛をみて、まずとっさに発露された感情が殺意であるとしたら、これはほとんど人間としては救いようのない魔性に毒されている。また、それを止めようと思いとどまったことが、果たして善行に値するような行為であろうか。

そこに意味はないのだ。ただ、殺したいという欲求や感情が、沸き起こったのだとすると、カンダタという人間の罪深さというものは、実際救いようのないものだ。この辺に、芥川が終生悩み続ける、究極のエゴ、本能としてのエゴというものを、垣間見ることができるかもしれない。

中期には、彼自身のおそらく本質であろうが、芸術至上主義が全面に押し出されているものが多い。「地獄変」がそうである。この作品では、エゴをかなり悪魔的な領域まで突き詰めて見せるのだが、その魔性に真正面から対峙できる精神の強靭さや、冷徹さは、芥川には無い。

前回もこの小説のことは引き合いに出した。一人娘が、殿様に奉公することになった。殿様は、娘を手籠めにしようとするが、娘の抵抗が激しくうまくいかない。一方、父親の絵師は、殿様の意向に沿った、鬼気迫る地獄変の絵をなかなか描くことができない。「目で見たものしか描けない」と絵師は言う。

そこで、殿様は一考を案じる。自分を袖にしている娘を、腹いせに焼き殺し、その「現場」を絵師に見せつける。絵師は動揺するが、(ここがポイントだ)一瞬、その悲劇的な情景に絵師は恍惚とするのである。そしてそれをスケッチして完成した作品は、感動的な傑作になった。殿様にしてみれば、娘には逆恨みを晴らし、絵師には傑作を描かせる。まさに一石二鳥の名案だ。

ここで言う、芸術至上主義とは、こういうことだ。殿様の治世も、絵師の名も長い年月のうちには忘れられてしまうだろう。しかし、何百年たっても、その感動的な絵の傑作は残るのだ。

ところが、芥川はそこで絵師を、最後に自殺させるのである。自分の娘の断末魔の姿に、一瞬でも恍惚とした自分自身というものに、ふと気づく。良心の呵責から、ふと我に返り、自分という人間の恐ろしさに立ち尽くし、死を選ぶのである。こういう勧善懲悪的な結末に落としどころをつけざるをえなかったところに、芥川の「弱さ」が露呈している。

人間の悪を凝視して、読者にこれはどうだ、と投げつける凄みが無い。だから、晩年は自らも死を模索するような羽目に陥ったともいえる。すんでのところで、三島流に言えば、「一流」ではなく、「二流」の作品に落としてしまったことになる。

ドストエフスキーなら、「罪と罰」のラスコーリニコフを自殺させない。最後まで、理性に忠実に、正常に狂ったままで終わらせる。「悪霊」の中のスタヴローギンを自殺させたのは、ただ「退屈しのぎ」のためだけだった。絶望して死ぬということは、無いのである。

芥川の晩年の作品は、上述のように、芥川の「弱さ」がそのまま思考の混乱を生んでいる。が、燭光は見えていたのだ。わたしはそれが「河童」だと思っている。

「河童」の国に迷い込んだ主人公を通じて、すべてが人間社会とはあべこべの世界観を見せつけることばかりが、論評の対象になってきる嫌いがあるこの作品だ。しかし、おそらくそこにこの作品の、焦点はない。

河童は、自らその国を選ぶのである。しかし人間は、気がついたら人間社会に生れ落ちている。主人公は最後に、人間社会に戻る選択をするのだが、初めてそこで彼は、自分の意思を発動して世界に道を開こうとするのである。

これは、夏目漱石の「それから」の最後の場面、労働というものを忌み嫌い、超然として生きていた代助(主人公)が、職探しに飛び出していくところを彷彿とさせる。

「それから」の代助は、近代的なエゴを嫌っていた。自分の中のエゴも嫌っていた。だから、親友と三角関係に陥った女性を、親友に譲るのだ。ところが、しばらくして再会してみると、女性も親友も幸せな結婚生活ではない現実を見せつけられる。自分がエゴを抑えたことで、二人はかえって不幸になっている現実がそこにあった。

代助は、そこで親友から、敢えてエゴを発動し、彼女を奪い取り、親友と絶交する。エゴの象徴のようなものであった労働(金もうけ)を、代助は選択しようとする。生きるためである。彼女との生活を支えるためにである。それは、エゴがなければ生きられない人間というものが、果たして予定調和することが可能だろうかという問題を提起している。

そこに、愛という回答が見え隠れするのだが、それは一体、具体的にどういうことなのだろうか。漱石は、代助に敢えてエゴの世界を選択させて終わる。以後の漱石の作品は、その続編である。「門」がまさに「それから」の続きに相当するが、(主人公たちの名前は変わっている)二人はその選択にもかかわらず、幸せにはなれなかった、というところから始まっていくのだ。一体、解決策であったはずの「愛」は、どこへいってしまったのだろう。さらにその先に「こころ」がある。作中の先生とその奥さんは、前作までのあの二人のことである。

しかも先生は自殺してしまい、「こころ」という作品に登場する新たな主人公は、その先生の死というものの正体を探ろうとしていく・・・いずれにしろ、「それから」がすべての始まりだったのである。漱石は、先生(代助の後身)を自殺させるが、それを凝視する新たな登場人物「わたし」をちゃんと立ち尽くさせている。

芥川も、「河童」でようやく、この漱石の境地にたどり着いたのだ。漱石もけっして強靭な精神を持ち合わせた人間ではなかったが、かろうじて病魔と闘いながら、自殺することは免れている。芥川は、漱石ほどの強靭さも持ち合わせておらず、残念ながら、錯乱した挙句、折れた。

芥川の全作品を読んでいるわけではないので、なんとも言えないが、わたしが知る限りでは、めずらしく彼が読者に、これはどうだ、と崖っぷちに追い詰めて、突き放す作品としては、「南京(ナンキン)の基督(キリスト)」がある。

世界中の悪徳と腐敗と汚辱のはきだめと称された、革命前の中国。南京が舞台である。15歳の金花は家族を養うために売春婦をしている。敬虔なキリスト教徒である。ほどなく金花は客から梅毒をうつされ、気立ての良い彼女は客にうつしては申し訳が立たないと客を取るのを止める。次第に生活は困窮して行く。

見かねた仲間のひとりから「他の客にうつすと治る」とすすめられるが、そのような振る舞いはキリストの教えに反するといって、拒否。一段と困窮する。ある晩、見知らぬ酔った外国人がやってきて、彼女を買おうと交渉するのだが、金花は相変わらず首を縦には振らなかった。

その時突然壁から十字架が床に転げ落ち、拾った際にキリスト像の顔を見ると、それが目の前の酔客と瓜二つであった。金花は奇蹟が起きたのだと歓喜し、いまだかつて感じたことがない神秘的な「恋」に身をゆだねるのだった。神と一体になったのである。

目覚めるとそこはいつものみすぼらしい彼女の部屋の中、外国人も消えていた。お金も支払われていない。しかし彼女の病気は治っていた。

その後、彼女の客となった日本人旅行者が、彼女からその夜の奇跡を聞かされる。

しかしその日本人は、顔見知りの男が、あの夜、支那人の少女を金も払わずに、もてあそんだ、とこれ見よがしに吹聴しているのを思い出した。その男は、やがて梅毒を発病し、発狂している。日本人はその事実を金花に伝えるべきか、伏せておくべきか、悩むのだった。・・・ざっとこんな筋書きだ。

あの時代、梅毒に感染したら、とくに困窮した娼婦であったら、まず死んでいったはずである。しかも、当時梅毒は治らなかった。その日本人客も、感染した可能性がある。それだけに、金花に彼は事実を伝えるべきか、悩んだのであろう。

つまり、金花は治ったと思い込んでいるだけなのだ。しかし、どういう結果になろうと、金花は彼女にとっての奇蹟を経験したのである。娼婦ではない、まともな仕事についている、とされる一般人たちは、金花が味わった奇蹟と感動を、生涯のうちに一度でも経験することがあるのだろうか。

果たして、人間の幸せとはいったいなんであろうか。真実を知るということは、それほど重要なことなのだろうか。それとも無知蒙昧を開き、真実に向き合うことが、それがどんなにつらいことでも、正しい人間の生き方なのだろうか。

たとえば、卑近な例を借りれば、末期の癌患者に、医者もそして家族も、癌だと告知するべきか否かで一様に苦悩の淵に立たされる。患者の人となりや経験、精神力、さまざまなことを勘案して、それでも答えが出てこないのだ。

芥川は、珍しいことにこの「南京の基督」で、酷薄な人間の現実や運命というものを、幸せと天秤にかけて、読者の前につきつけ、崖っぷちに立ち尽くさせ、そこで放り出しているのである。この区分で言えば、芥川の作品群の中では、この「南京の基督」は、かなり一流の部類に入るだろう。

一流の文学には、「答え」が無いという読み方は、こんな具合にわたしは受け止めている。文学とはなにか、文学をどう読めばいいのか、ということには、いろいろな考え方があるだろう。これが最高だなどとはわたし自身、微塵も思っていないが、江藤淳と三島由紀夫が鋭く切り出して見せてくれた二つの視点は、少なくともわたしにはとっても役に立っている。



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