UFOとの交戦記録

UFO

これは372回目。
UFOの話は、なにが嘘でなにが本物か、これまたよくわからない話です。したがって、「公式記録」を追っていくのが一番です。とくに軍、とりわけ米軍の公式記録がなにより真実に一番近いはずでしょう。
今年(2020年) 4月28日、米国防総省は海軍機パイロットが不審な飛行物体を撮影した映像3本を公開した。過去にメディアに流出し、未確認飛行物体(UFO)の可能性があると波紋を広げていた映像だが、同省が公式に開示したのは初めてだ。

(一部、以前書いた【国家機密としてのUFO】と重複しています)

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2008年11月14日、バチカン。ローマ教皇庁のトップに君臨する法王ベネディクト16世は、「神はアダムとイブと共に、地球外生命体を創造された」という声明を発表した。これは、国家として、地球外生命体の実在を認めた、最初の公文書として記録された。

そして、2010年6月7日、午前4時(現地時間)、バチカンの上空にUFOが出現。この映像は、大々的に報じられた。Youtubeでも観ることができる。

サンピエトロ大聖堂の上空90m付近を、三機のUFOが発光しながら、デルタフォーメーション(三角編隊)で高速飛行してきた。その物体の挙動は航空機や戦闘機、流星とは明らかに違った。やがてUFOは、大聖堂上空にぴたりと停止。ときおり消えたり現れたりし、そして最後は消えたまま二度と現れなかった。

それにしても、なぜ、バチカンは今、地球外生命体を唐突に認める声明を発表したのか。なにかが起こることに対し、事前に伏線を引いたということであろうか。それは声明から2年後の、このUFO出現事件を予知していたということにすぎないのか。それとも、もっと重大なことがこれから、地球上に起ころうとしているということなのだろうか。

少なくとも、「神と地球外生命体」という二つの概念が共存することは、バチカン(宗教や信仰)にとって重大な問題にはならない、と判断したということだろう。これに対して、アカデミズムのほうが、はるかに頑迷固陋(ころう)である。

かつて、ダーウィンが「進化論」を発表したとき、世界中がこれに拒否反応を示した。とくに学界と宗教界がである。長い年月の後、ようやく進化論が浸透し、定説となった。今度はその矛盾や問題点に対してあらたな仮説が出てくると、またしても学界が拒否反応を起こす。ダーウィン自身が、「進化論が最も当てはまらないのは、人間である」と匙(さじ)を投げていたにもかかわらず、である。

国際政治の舞台で、実在を断定こそしていないが、明確に「地球外生命体」という言葉が公式記録として登場したのは、もっと早く1980年代である。

1985年ジュネーブで開かれた米・レーガン大統領とソ連・ゴルバチョフ書記長の首脳会談は、SDI(宇宙防衛戦略構想)いわゆる「スターウォーズ構想」について議論されたものだ。

そして、その直後、同年12月4日、メリーランド州フォールトンで、レーガン大統領は、「もし宇宙人の種族がこの地球にやってきて、我々に脅威を及ぼすような事態が起こったら、我々は一致協力してこれに当たらなければならない。」と演説している。

さらに1987年9月21日第42回国連総会でも、レーガン大統領は、「地球外生命体による脅威に直面したら、世界中の国々でのいろいろな行き違いは直ちに消滅してしまうだろう。」と同じ趣旨の演説をしている。

また、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長も、1987年2月16日、クレムリンのソ連共産党中央委員会で全く同じ演説をした。

「ジュネーブでのレーガン大統領との首脳会談で、レーガン大統領は、『もし宇宙人による侵略があったら、米国とソ連はお互いの戦力を結集してこの侵略に立ち向かわなければならない』と言った。私は時期尚早だと思うが、今から準備をしておくことが大切だと思う。」

世界の二大軍事強国のトップが、直接地球外生命体のことを議論し、このことを公表しているのである。この二人の発言の延長上に、最も教義上抵抗感を持っているはずのバチカンが、21世紀にはいってようやく、「実在」を認める発表をしたわけだ。

さて今回は、軍隊が関与したケースを取り上げてみようと思う。おそらくこの地球上で、もっともUFOと対峙し、もっともその事実を隠蔽してきた最大の主体であると考えられるからだ。

アメリカでは、情報公開法の成立以来、おびただしいUFOに関する極秘文書が公開されている。重要な部分は、黒ベタで塗りつぶしてあるものの、それでも書かれている事実は驚くべきものばかりである。なにより貴重なのは、音声や録画も含めて公開されているということである。

最も古く、そして最も大規模なUFOと米軍との交戦記録は、1942年2月25日のロサンジェルスにおいてだった。

日本軍の真珠湾攻撃の3か月後である。米国は当時、日本軍の米国本土攻撃を視野に入れており、歴史始まって以来の西海岸の防衛体制を急いでいた。防衛拠点付近で光と照明弾が目撃されたため、2月24日午後7時18分から4時間にわたって警戒体制が発令された。

翌25日の午前2時15分、レーダーが194km沖に未確認の物体を捕らえたため、2時25分からロサンゼルス市に空襲のサイレンが鳴らされ、灯火管制が敷かれた。当然、日本軍の航空隊による空襲という認識だったのである。

午前3時16分、海上から侵入してくる未確認飛行物体に向けていく筋もの探照灯が照らされ、対空砲による砲撃を開始された。

飛行物体の種類は少なくとも2種類。赤か銀色をした小さな物体。高い高度から編隊を組んで侵入し、最大時速29,000kmの猛スピードでジグザグに飛んでいた。

レーダーに捉えられた物体は地上から見ると発光しているように見え、しばらく停止した後、内陸部に向かって移動し、カルヴァー・シティー上空で探照灯に捕捉されて写真を撮られている。対空砲火にはびくともしない様子だった。

物体は、やがて時速75kmのかなりゆっくりした速度でサンタモニカの海岸まで進み、そこから南のロングビーチへ向かったところで見えなくなった。

対空砲火は午前4時14分までの間の58分間に1,430発の砲が撃ち込まれたが、一機のUFOをも撃墜することはできなかった。UFOから爆撃などの攻撃は一切なかったが、高射砲弾の破片で建物に被害が出て、3人がパニックによる心臓麻痺で亡くなった。

事件二日前の2月23日には日本海軍の潜水艦が、サンタバーバラ北にあるエルウッドの町の沖合2.3kmに浮上し、燃料タンクに向けて20分間砲撃を加えるという事件があったため、心理的なストレスによって、気球その他をUFOと誤認して、集団的なパニック状態になったのだ、と政府や科学者たちは話を収めた。

実際、事件翌日にはフランク・ノックス海軍長官が、「当夜戦闘機は一機も飛来せず、戦時下で神経過敏になっていたことによる、何かの見誤りであった」という政府見解を発表をした。

しかし、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長はルーズヴェルト大統領に宛てた文書の中で、自分の見解を以下のように述べている。(この覚え書きは長い間国防総省から存在を否定されていたが、後日情報公開法によって公開されたものだ)

・未確認の飛行機複数がロサンゼルス上空にあり、対空部隊の射撃をした。

・15機にのぼる飛行機がいたと思われ、飛行速度は非常に遅いものから時速200マイルまで様々な報告がある。

・高度は9,000から18,000フィートの間。

・投下された爆弾はなく、味方部隊の被害もない。撃墜された飛行機はない。

・アメリカ陸軍機も海軍機も飛行していなかった。調査は続行中である。

・UFOの飛行速度や高度の報告がまちまちなのは、実際にそうした様々な速度で飛んでいたというより、まともに計測ができなかったためだと考えられている、等々。

続行中とされた調査の続報は見つかっていない。おそらくこれ以上のことがわからなかったためであろう。米軍にしてみれば、相手を撃墜もできなければ、正体もわからないままであったのだから、大失態である。もし何も飛んでいなかったのにあれだけ砲撃したのであればなおさらの失態だ。一度出した政府見解をすぐに引っ込め、その後事件をうやむやにしてしまったのもそんな事情があると推察される。

しかし、この事件は政府や軍が隠蔽しようにも、目撃者が多すぎたのである。数十人、数百人ではない。数千人、下手をすると(統計が無いのでわからないが)数万人の規模で、対空砲火と空中を飛行するUFOが長時間にわたって目撃された、劇的な事例である。

この第二次大戦中には、欧州大陸上空の空爆や空中戦において、謎の火の玉に、米軍機やドイツ軍機が、敵味方を問わず長時間にわたって追い回される現象が、頻繁に起こり、報告されている。

次は、朝鮮戦争当時の米軍の公式記録。

朝鮮戦争でも、UFOと米軍の遭遇事件が多発している。米軍戦闘機がUFOと、「頻繁」に交戦状態に入っていたのだ。米軍の方針が、UFOを視認したら撃墜せよというものだったからだ。それによって、多くのパイロットが危険にさらされた。被害者も出ている。

1951年9月、仁川(インチョン)港付近。軍事境界線から南に150キロ。敵(北朝鮮軍)のトラックの隊列を発見した米軍は、海上の空母から戦闘機3機を発進した。

パイロットのほか、狙撃手も同乗していた。三機は、陸上のターゲットを確認、爆撃行動をしようとしたとき、北西から巨大なUFOが二機、接近してきたのだ。

パイロットたちは、目を疑った。なにしろ、UFOの直径が少なくとも200メートルはあったからだ。速度は、時速2000キロと推定された。

後部座席の狙撃手が発砲しようとするが、銃器はどうして作動しなかったという。救援を要請しようにも、無線も機能停止状態となった。しかも、3機同時に、同じトラブルに見舞われているのだ。

パニックになったパイロットたちは、このうち2機が母艦への帰還を始めた。すると、UFO二機は残った一機を追尾し始めた。

まるで、米機をうかがうように、UFOは米機の周囲を旋回しながら飛行していたという。やがて、UFOはたちまち消え去った。一機は攻撃されずに済んだ。生きて帰ってこれたのは、武器を発砲できなかったためかもしれない。あるいは、UFOが、米軍機の機能を制御することで、米軍が先制攻撃できないようにしていたのかもしれない。

いずれにしろ、おびただしい公開文書の記録では、UFOから先制攻撃をしているケースは、ほぼゼロである。常に、米軍の先制攻撃に対して、UFOが対応しているのである。

当時、1952年の報道では、ペンタゴン(国防総省)は1950年から始まった朝鮮戦争で、(このとき2年弱が経過した時点)少なくとも20件のUFO遭遇事件があったとしている。軍や政府が、事態を隠蔽できないほど大ごとになっていたようである。

命令を受けて攻撃をしかけたパイロットは、ほとんど戻ってこなかった。1952年から1958年にかけて、米空軍は甚大な被害を被っている。実際、1953年2月、米空軍・航空総隊司令部のベンジャミン・チドロー大将は、「空飛ぶ円盤に関する報告が山積みしている我々は、事態を真剣に受け止めなければならない。円盤を迎撃すべく努力した結果、我々は、多くのパイロットと戦闘機を失っている。」と証言している。

もちろん、地上戦でもUFOとの交戦記録がある。その一つが、「鉄の三角地帯事件」だ。

これは、上記の事件の前年、1951年4月、南北朝鮮の軍事境界線にまたがる山岳部、「鉄の三角地帯」でのことだ。義勇軍と称して中国人民解放軍が、朝鮮戦争に軍事介入していた。米軍は、この「鉄の三角地帯」で人民解放軍と戦闘状態にあった。

その日、米陸軍第25師団第2大隊E中隊が「鉄の三角地帯」に投入されていた。フランシス・ウォールという一等兵らがチョルゴンの丘上に配置された。眼下の村(人民解放軍が進駐していた)を砲撃する予定であった。

夜、E中隊が砲撃を開始すると、頭上に不思議な物体が飛来した。ウォール一等兵たちは、丘の右側を光る円盤が飛んでいるのを発見した。動きは早く、明らかに射程内にあるにもかかわらず、撃っても銃弾はかすりもしなかったという。

ウォール一等兵の証言によると、円盤は彼らの真上に来て、静止したという。ただあまりに明るい光で、実際の大きさは確認できなかったという。

再び中隊長から、円盤への発砲命令が下された。ウォール一等兵らは一斉に銃撃したところ、円盤はこれに反応した。小刻みに不規則に振動し、エンジンを高回転で吹かすような音がしたと思うと、激しい光を照射した。

E中隊の兵士らが受けた現象は、今から推測すれば、ちょうどレーザービームのようなものだ。兵士たちは、皮膚が焼けるような熱さを感じ、光が当たっている部位は、まるでレントゲン写真のように、骨が透けて見えたと証言している。

中隊長は、全員地下の塹壕に退避させたが、その後も一向に円盤は上空にとどまったまま動かなかった。E中隊はふもとの人民解放軍と、頭上のUFOの間にはさまれて、身動きが取れなくなってしまった。

長時間、塹壕に引きこもっているうちに、もちろん恐怖感もあったろうが、兵士たちはみな非常に甚だしい身体的不調を訴え始めた。しびれ、頭痛、極度の耳鳴りなどでだれも立ち上がれなくなり、中には嘔吐するものも出始めた。

やがて、円盤は45度角で、空の彼方へ突然飛び去った。援軍が到着したのは、3日後である。E中隊はみな、歩くのもやっとの状態で、配置部隊は入れ替えとなった。この3日間、人民解放軍からの攻撃が無かったのは、不幸中の幸いである。あえてしなかったのか、それとも彼らもUFOの出現を確認していて、手出し無用と決め込んだか、これは不明である。

護送されたウォール一等兵たちは、医療検査を受けたのだが、みな一様に、通常では考えられないほど、白血球が増加していることが確認された。

87年になって、ウォールが取材記者たちに述べているところによると、頭痛や倦怠感、感覚のズレなどの体調不良は、現在までずっと続いているとしている。一種の被爆のような状態に近いのだろうか。

この朝鮮戦争中は、なにも戦場にだけUFOが出現したわけではない。米国本土、それも首都ワシントン上空に出現しているのだ。

1952年7月19日から27日にわたって、首都ワシントンD.C.上空に68機ものUFOが現れ、大勢の市民の目の前で飛び回るという事件が起きた。

UFOがナショナル空港に着陸する旅客機を追跡したり、迎撃に上がったアメリカ空軍のロッキードF-94B戦闘機を取り囲んでいるという報告がなされ、レーダーにも確認されている。民間航空機の複数の乗員は、上下左右に不規則に動き、速度を変化させたり静止したりする「異様な光体」を目撃している。

空軍が調査のために戦闘機を発進させ、光体に接近すると光体は消滅した。その後、光体は様々な場所に現れ、いずれも戦闘機が到着するとすぐに消滅し、空軍と光体のイタチごっこが続くこととなった。

深夜になると、光体はアンドリュース無線塔の上空に出現し、「オレンジ色に輝く巨大な球体」を通信員たちが目撃した。またバージニア州ニューポートニュースの人々は「互い違いに色を発して回転し、まぶしく光る物体」の目撃を報告した。この時期、ワシントン周辺は、多くのUFOが飛来しては、あたかも威嚇するかのような行動をとっており、全米が震撼したのである。

このように、第二次大戦中の西海岸、朝鮮戦争中の東海岸の、それぞれ大都市上空で、膨大な数の目撃者のもと、UFOが出現した事実がある。このため、アメリカではこうしたUFOというものの実在性に関して、非常に免疫性の高い社会体質になっている。頭からこの話題を否定する傾向は、他の国に比べて非常に少ない。

次はベトナム戦争中の交戦記録。

朝鮮戦争後、今度はベトナム戦争が始まる。そこで、米軍とUFOの交戦事件は、ますます激化していった。

1968年6月15日、ベトナム戦争たけなわの頃のことだ。「軍事境界線事件」がある。南北ベトナムの軍事境界線付近(クア・ヴィエト)で、ピート・スナイダー中尉らは、哨戒艇(PCF12)で海岸から河口の潮間帯(ジャングルによくある、海と河との中間水域)を、夜間の水上巡回していた。

午前零時半、スナイダー中尉の一隊は、別の哨戒艇(デイヴィス中尉らの、PCF15)から緊急連絡を受けた。連絡は切迫した内容だった。デイヴィス中尉らの哨戒艇が、敵(北ベトナム)のヘリコプターらしき未確認飛行物体から攻撃されており、甚大な被害が出ているので、至急来援請うというものだった。

しかし、当時北ベトナム軍には、ヘリコプターは無かった。この「敵のヘリコプター」とは、当時の軍において、UFOを指す隠語である。

スナイダー中尉らは、現地に急行。すると、PCF15の上に、不思議な光を放つ二機の空飛ぶ円盤が空中停止しており、上部には、透明なドームがついており、中に二人の操縦士と思しき影が確認された。

すると、円盤から眩しい光がPCF15に照射され、次の瞬間PCF15は爆発して、吹き飛んだ。円盤は、たちまちジャングルを超えて海のほうへ飛び去った。スナイダー中尉らは、PCF15のクルーの救助を行ったが、生存していたのは2人だけだった。

この生存者から、PCF15が、何キロも円盤に追跡されていたという話を聞いたスナイダー隊は、今にも円盤が戻ってくるのではないか、と警戒態勢を敷いた。

すると突然、PCF12は通信機能が停止してしまった。同時にエンジンを担当していたジェフ・ステフェスが、哨戒艇の両側に二機の円盤が空中停止しているのを発見。

そこで二機は哨戒艇に接近を始めた。スナイダー中尉は、クルーを全員甲板に集合させ、攻撃命令を下した。しかし、発砲しても、まったく二機にはダメージが無いように見えた。それどころか、逆に二機から銃弾の雨を浴びたのである。

PCF12は、被弾を避けるため、高速で現場を離脱。蛇行しながら逃走を試みた。その間も、クルーはひっきりなしに追いすがる二機に発砲を続けていたが、銃弾を撃ち返してくる二機には、どうも兵器らしいものは見当たらなかったと証言している。(つまり、円盤のどこの部位から銃撃してきているのか、わからない。)

スナイダー中尉は、PCF12を河口から南シナ海沖に脱出、沖へ向かって脱兎のごとく逃走。米海軍艦隊が終結している海域を目指したのだ。円盤二機は、哨戒艇の速度に合わせて、あとから追尾し続けていた。PCF12の銃弾は早くも、底を尽き始めていた。

スナイダー中尉は、司令部に状況の通信連絡を試みるが、ブツブツバチバチと通信機が誤作動し、なかなかうまく伝達できなかった。

PCF12の断続的な通信連絡を受けた司令部では、「敵」の実体が不透明なまま、救援行動に出た。午前3時20分、近くのダナン要塞からファントムF4戦闘機二機をスクランブル発進させ、救援に向かわせた。ファントムがPCF12を視認する距離まで到着すると、円盤二機はあっという間に、海上を飛翔して消えた。

この同時刻、南シナ海を巡回していた、友軍の国連軍(オーストラリア海軍)の軽巡洋艦ホバートでは、夜の海上に、30機の光る円盤が上空旋回するのを確認している。

この状況を艦長が司令部に連絡していると、二機の円盤が接近してきた。艦長はそのことも、その時点で報告している。おそらくこの二機が、先刻、スナイダー中尉らのPCF12を襲った二機と同じものだと推測される。

一方、PCF12の救援に向かったファントム二機は、消えた円盤を索敵しながら、海上を飛行していた。そして、南シナ海上で、豪艦ホバートに接近する円盤二機を発見し、ただちにミサイル攻撃を行った。このミサイル発射で、突然円盤はまた消えてしまった。

豪艦ホバートや、ファントム、PCF12は危機を脱したかに見えた。ファントムは、ダナン要塞へ帰還し、軍事境界線は再びいつものように静まり返った。しかし、話はこれで済まなかった。

米海軍は、その直後に被害の分析を行っている。奇妙なことに、スナイダー中尉らの哨戒艇に打ち込まれた円盤の銃弾とは、PCF12自体が発砲した銃弾であった。しかし、周囲にはPCF12一艇しかなく、デイヴィス中尉らのPCF15はすでに爆破・沈没していたはずである。
友軍の銃弾ということは、ありえない。

自分たちが撃った銃弾が、跳ね返されたかのように、自分たちを襲っていたのである。理解不能である。

翌日夜、豪鑑ホバートはいつも通り、南シナ海上を哨戒していた。中国・海南島付近である。海も空も、不気味なほど静かな夜だったという。明け方、突然何の前触れもなく、右舷に、ミサイルが撃ち込まれ大破した。乗員(電気技師)一人が死亡。二人が負傷。

乗員は総出で戦闘準備に入った。円盤がいた。右舷側であった。乗員たちは、全員このとき円盤を目撃している。すると、円盤はまたたくまに消えた。

その6日後、豪艦ホバートが攻撃された海域から南に8キロの地点で、やはり円盤が確認された。この目撃回数は、スナイダー中尉の遭遇した日以降、合計6回を数えた。

米豪軍は合同で調査に乗り出した。豪艦ホバートが攻撃されたのが、海南島付近であったことから、中国軍による攻撃という可能性も否定できなかったからである。

ところが、驚愕の事実が判明した。ホバートに打ち込まれたミサイルの破片から、ミサイルのシリアル・ナンバー(製品番号)が見つかったのである。なんと、それは、前夜、ダナン要塞から発信したファントム4が円盤に向けて撃ったミサイルのシリアル・ナンバーと同じだったのである。

情報公開された極秘ファイルや、生存者の目撃証言などからは、上記のような事実が判明しているが、当時の正式な事件調査報告書には、米軍による誤爆ということで、ホバート被弾の一件は処理されている。

公開されている極秘文書では、1973年のものに、ベトナム戦争中、軍高官たちはUFOの存在を認めていたという内容が確認されている。

ジョージ・ブラウン海軍大将自身、73年10月の記者会見で、実際、UFOに悩まされていると発言している。「敵のヘリコプター」という隠語も、そこで紹介されている。

1968年から1978年まで(つまり、「軍事境界線事件」発生のころ)ブラウン大将付きの連絡兵だったジョージ・ファイラーは、毎朝、現地からの連絡情報を、ブラウン大将に届けていた。その当時、ブラウン大将は彼に、「どうも空飛ぶ円盤は、特殊な磁場で守られていて、銃弾を跳ね返すことができるようだ」と語ったと証言しているから、この事件と話も時期も符号する。そのほかにも頻繁に、UFO関係の情報は、ブラウン大将のもとに届いていたと述べている。

そして、このブラウン大将は、先述の豪艦ホバートが被弾した一件にしても、「当日、ホバートの周囲には友軍も敵軍も存在しなかった」と、ずっと後年になって証言している。

この「軍事境界線事件」では、UFOは、米軍の持つ武器を利用して、米軍を攻撃したことになる。それが、もしUFO自体の兵器で攻撃をされたとしたら、もはや米軍にはなすすべもないと容易に推測できる。

そしてこの事件以降、米軍は全軍に対して、UFOと遭遇した場合に、一切の攻撃を禁じ、退避行動をとるよう命じ、それまでの攻撃スタンスを真逆に変更している。先述のジョージ・ファイラーも、当時、航空管制官たちとずいぶん話をしたが、彼らはレーダーでUFOを確認したら、現場近くの米軍艦船・戦闘機に対して、「退避せよ」と指示を出し続けている、と言っていたそうだ。

おまけに、日本における交戦記録といこう。

実は、日本の自衛隊でも数々のUFOとの遭遇事件、撃墜しようとして撃墜された事件などが、漏れ伝わっている。しかし、アメリカと違って、一定の情報公開すらないので、いくらここで書いたところで、読者からは信憑性が疑われてしまう。

たとえば、こんな事件があったと「されている」のだ。1974年6月9日の夜に 茨城県の航空自衛隊百里基地所属の中村登志雄(当時42歳)2等空佐の操縦するF-4EJファントム戦闘機<17-8307>とUFOが交戦し、中村空佐が 死亡した。

この事件が初めて明るみに出て情報公開されたのは米国通信社のR.リチャード・ドレイバー記者が、死亡した中村空佐の機に同乗して生還した、自衛官・久保田四朗(当時40歳)
3等空佐から得た証言が「UFO Report 1978」3月号に掲載され、真相が国際的に知られる
ことになったからだ。

その夜 スクランブル発進命令が下され2機の戦闘機(その後1機は故障したため基地に帰還)が、「国籍不明機を確認せよ」との命令だった。

ところが、その後「UFOを追跡せよ」と変更になり 中村・久保田両氏が F-4EJファントム1機で 夜の東京空域に出現したUFOを追跡した。

中村空佐は よく晴れた東京空域の夜空で、数キロ前方に丸い形をしたUFO(直径:約10m)を確認。追跡を開始し接近すると まもなく UFOは 高度を下げて旋回し 次の瞬間 ファントム機をめがけて攻撃をしてきた(どういう攻撃であったか、具体的には不明。ただ突っ込んできただけかもしれない。)。ついに4回目のドッグファイトで、UFOと衝突した。中村空佐がキャノン砲をUFOにロックオンした瞬間、UFOはあっという間に突っ込んできてF-4EJは大破した。

激しい衝突の衝撃が 体全体に伝わり中村空佐の悲鳴と同時に久保田空佐の体が、座席と一緒に フアントム機の外へ飛び出した。パラシュートは開いたが、久保田空佐はがたがたと震えが止まらなかったという。

右の方には 中村空佐のパラシュートも開いていたが、そのパラシュートは戦闘機の爆破が引火したらしく、燃え上がった。中村空佐は死亡した。

この事件に対して 防衛庁・航空自衛隊は 厳しい緘口令(かんこうれい)と隠蔽工作をし、一切日本国内では 報道されなかった。

かろうじて生還した久保田空佐は さっそく事件の真相を自衛隊幹部に対し詳細に報告した。

しかし その後 防衛庁は この事件を3年間もカバーアップ(秘匿)したため、呆れた久保田空佐は 4年後に航空自衛隊を退職した。

人命や真相解明よりも 事件の隠蔽工作を優先する防衛庁の体質に対し、久保田氏は我慢がならなかったようだ。そこで米国報道機関に告発証言することになったと証言している。

久保田氏は 次のように証言している。

「UFOを追跡して思ったことは、非常に高度に発達した知性と文明をもつ生物が 操縦し
ていると確信した。当初ソ連機の侵入を阻止するためのスクランブルだったが まもなく 明るく輝くUFOの実態を確認・調査・報告する命令に変更された。UFOは 赤やオレンジ色に輝くディスク状の機体で急接近等を何度も繰り返し、とても危険な状態であったため やむなく中村空佐は、激しい降下や旋回をおこなった。その後 間もなくしてUFOが ジェット機に体当たりして破壊され脱出した。亡くなった中村空佐と 遺族のことを思うと、絶対に無駄死にさせてはならない。この事件を闇に葬っては ならないと思い 外国の報道機関に真実を語ることにした。」

米誌によって事件が報道されると、防衛庁は 事件発生日にスクランブルをしたことを認めたが それ以外は完全否定した。

向井裕という人物がいる。旧帝国陸軍で、陸軍情報部少佐だった人物である。彼が、日本で最初のUFO裁判を提起している。

向井氏は、自民党議員や防衛庁(旧)関係者等の証言・関係資料の調査・分析の結果から、1974年の「中村空佐死亡事件」は 久保田氏が証言したように確実に存在し、航空自衛隊・防衛庁により隠蔽された日本史上に残る重大なUFO事件だと証言している。

いずれにしろ、この日本における確認できる最初の戦闘機パイロット死亡事件の後も、自衛隊では数々のUFO遭遇事件が起こっている。

航空自衛隊で、当時戦闘機パイロットとして最長飛行時間記録保持者であった佐藤守(空将)が、その後退役してから、パイロットたちのUFO遭遇事件を調査し、本人の実名・写真入りで事実の公表に踏み切っている。

たとえば、1983年6月8日に、宮城県金華山上空で、訓練飛行中の自衛隊戦闘機が、同じものと思われる葉巻型の巨大なUFOに遭遇しており、このときには、UFOがその大きさにも関わらず、あっちとみれば、こっちと瞬間移動したという。停止していて、加速無しに一気に移動するということは、現状の飛行技術ではありえない。

この83年の事例では、直後に訓練機の電子機器が異常作動を起こしている。コントロールが効かなくなり、操縦不能となった。UFOが消えると、機体は正常に戻り、訓練機は無事帰還している。

ほかの例では1985年6月、名古屋上空を飛行中の自衛隊輸送機が、2-300メートルもの長大な葉巻型(円筒形)のUFOに遭遇している。

疑えばキリが無いのだが、冒頭で紹介した米ソのスターウォーズ計画スタートや、レーガン大統領の国連での驚くべき発言内容は、1985年からである。

この1985年というのは、8月12日に御巣鷹山に墜落した日航機123便の事件が起こっている。レーガン・ゴルバチョフのジュネーブ会談は同年11月である。1974年の中村空佐死亡事件からおよそ10年経過するまでに、実は日本の航空自衛隊には多くのUFO遭遇事件が発生しており、挙句の果てが日航機123便墜落事件だったとすると、話は単に国内の誤爆事件といったようなレベルでは済まないことになってくる。

御巣鷹山の悲劇が、自衛隊のミサイル迎撃訓練演習時の誤爆なのか、それともUFOからの攻撃あるいは偶発的衝突だったのか、まったく真相は不明だが、レーガンやゴルバチョフらの発現が、この直後であったといい、時期的関係はあまりにも不気味ではないか。

御巣鷹山における自衛隊や政府の「異常な行動」というものも、その隠蔽体質からすれば、納得のいくものとなってくる。もちろん御巣鷹山における事故は、あくまで人為的なものであったという主張さえ、表向きには「トンデモ説」にされてしまっている。ましてや、UFOなどといえば、話がぶっとんでしまうと、一笑に付されてしまうだろうが

長々と、軍とUFOとの交戦記録をいくつか羅列してきたが、これはほんの一部にすぎない。さらに圧倒的に飛行頻度の高い民間航空機に至っては、毎日のようにUFOとの遭遇が起こっていると思っても不思議ではない。

米国では、年間6000件ものUFO出現件数がある。世界のどの国より突出して多い。

2008年1月8日、テキサス州スティーブンビルで、UFOが確認された。多くの住民がこれを目撃している(一般人、警官、空軍所属のパイロットなどが含まれている)。光る巨大な球体は音一つ立てなかった。連邦航空局のレーダーがこれを確認しており、その航行軌跡データも公開されている。

連邦航空局は、通信を試みたが、反応は無かった。UFOはテキサス上空を100キロあまり、2時間かけて飛行した。興味深いことに、すぐ近くを米空軍の戦闘機が飛行していたにもかかわらず、まったく行動を起こさなかった。これもレーダーの記録から判明している。

政府は、当初、珍しい光学現象だとして隠蔽したが、かつてと違い、米軍はUFOの飛行を黙認しているということが、これがはっきりわかる。

この問題の闇は深い。しかし、やがて、闇は明らかになる。光の中に無いものは、闇の中にもないからだ。



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