托鉢のお話
3回目は、『托鉢(たくはつ)』のお話。近頃は、托鉢僧というものを、めっきり見なくなりました。地方ではどうなのでしょうか。・・・
托鉢僧。わたしが子供の頃は、そうしょっちゅうではないものの、それなりにまだちょくちょく見かけたものだ。禅宗で使う応用器のような鉢を片手に延べ、辻に立っては経を念誦する。通りがかる人は、食べ物やお金を鉢に入れていくのだ。
明治になって禁令が出たが、戦後は自由に戻った。ただ、アルバイト稼ぎのようにする不心得者もいたりするので(乞食を一度やったらやめられないそうだ)、宗派によっては托鉢に出るものには、通し番号をつけて、外部から疑義の問い合わせがあった場合に、対応できるようにしているそうだ。
托鉢に出会った人は、こんな光景を見たことがあるだろうか。交差点などに托鉢僧が立っている。彼は経を低誦している。笠に隠れて僧侶の顔はわからない。鉢の中には、なにもまだ入っていない。
あなたがお金にしろ、食べ物にしろ、彼の鉢の中に入れたとしよう。僧侶は、微動だにせず、ずっとそのままの姿勢で、経を低誦しつづけている。なんとなく、衆目の中でバツの悪くなったあなたは、逃げるようにそそくさとそこを立ち去る。
得てしてありがちな光景である。そのとき、僧侶はけして、会釈もしないし、ありがとうという言葉など一切発しない。
それは僧侶が感謝の気持ちを示してしまったら、あなたの功徳を台無しにしてしまうからだ。
托鉢というのは、寺院や神社(維新以前は、寺と社は一体であった)の修築・建築のための資金集めでもあり、あるいはまた僧侶本人が信仰を深める修行でもあった。つまり、自分は、自分一人の力で生きているのではなく、すべてのものに生かされているのだという自覚を新たにする、と言えば、平たい表現だがわかりやすい。
しかし、大事なことがある。市井の人々に信仰心を起こさせる布教なのだという点である。
ふだん、そういう世界観からは無縁の一般人に、「施しを与える」という行為を促すのだ。それが功徳である。托鉢僧は、善良な行為をさせるという起爆剤になっているといってもいい。
「施し」は、礼を言われたり、感謝されたりすることを目的にしたら、もはや「施し」ではない。なんの見返りもない善良な行為が、「施し」である。だから、托鉢僧は、決してあなたの施しに、「反応」しない。
むしろ彼らの思いは、「良いことをしましたね。あなたは施しをしたことで、大きな功徳をいただいたはずですよ」である。お礼を言うどころか、さも当然、という感じだろうか。
万一、僧侶がお礼など言った日には、あなたの功徳はあなたから逃げていってしまう。だから、こういう功徳のことを、「隠徳」と呼ぶ。尊いのは、人から褒められる行為ではなく、誰にも知られず、誰からも感謝されることのない、隠れた功徳のことなのだ。
「隠徳」を積んだからといって、本人になにかがあるわけではない。「隠徳」の源泉は、信心にある。
この「隠徳」を積む方法というのは、なにも托鉢僧に施しを与えることだけではない。もっと自分自身の心の中で、いくらでもできるのだ。信心というのは、そういうことである。
たとえば、人間の一生というものは、畢竟(ひっきょう)、大事なことに一つ気づくことなのである。気づきがすべてだといっていい。
その気づきとは、たとえば、「ありがたい、と感謝すること」ではなく、「感謝することができるという幸せに気づくこと」である。当たり前のことを、当たり前に出来るという幸せに気づくことである。
さまざまな場面で、こういう気づきに出くわすことができる人は、幸いだ。漫然と生きていては、なかなかその気づきができない。
そこには、コツがある。一番簡単なコツとは、自分を守ってくれている神仏(あるいは、先祖縁者の霊)に、恥ずかしい思いをさせまいという姿勢だ。
気づいたところで、信心を得たところで、また隠徳をいくら積んだところで、あなたには何もない。その見返りは、ゼロである。
にもかかわらず、あなたが動じなくなったとき、想像もしないあなた自身がそこに生まれている。
近年、まったく見ることが稀有になってしまった托鉢だが、ということは日本仏教はもはや布教を放棄したということかもしれない。布教とは、ありがたい説法をすることなどではない。わたしたちをして、自発的に動こうとさせることである。その典型的な布教活動こそ、托鉢なのだ。
そうした日本宗教の原風景ともいえる托鉢が、とんと見られなくなったということは、一体どういうことだろう。この国の精神文化も、落ちるところまで落ちたということだろうか。
さて新しい年が始まった。わたしたちは一体なにをしてきたのだろうか。なにがわたしたちに残ったのだろう。見える価値、見えない価値。どちらにしても、うたかたの幻だ。
わたしたちがこうして同時代に生き、出会えた奇蹟というものは、数多くの疑問や謎をわたしたちに投げかける。その答えは、幻の先にすでに用意されているようだ。
今、その答えを知る必要もなければ、知ることもできない。ただ、そこに答えがある、ということだけ知っていればよいのだろう。