なぜ今カミュを読むのか

文学・芸術, 雑話

これは424回目。以前ここでもカミュの「異邦人」を取り上げたことがあります。最近の日経新聞によると、カミュの「ペスト」がベストセラーになっているそうです。いま世界で猖獗を極めているウイルスからの連想で、こういう小説が「いきなり」読まれているのでしょう。

:::

おかしな話だ。

カミュの「ペスト」はもっとずっとロングセラーで読まれていなければならないのに、ここへきて新型コロナ・ウイルスの問題で「おかど違いに」読まれているような気がしてならない。いつも思うのだが、こういう「流行」という意味不明の社会心理が、わたしにはまったく理解不能だ。

カミュがペストを題材に取り上げたのは、ペストが問題なのではもちろんない。世界を支配する不条理に対して、人間はほとんど無力であるとすら言うカミュの非情さがポイントなのだ。

「ペスト」は1947年にフランスで発表。ペスト感染の拡大防止のため封鎖されたアルジェリアの港町で闘う医師らを描く。

記事によると、新潮文庫版は69年刊行。最近は毎年5千部ほど増刷していたが、今年は国内に感染が広がった2月以降に計7回、15万4千部を増刷し、累計約104万部となった。

イタリアやフランス、英国でも売れており、同社は「災厄や困難に直面した人間がどのように振る舞い、いかに生きるべきかを問い掛けているからではないか」とみている。

読めば一見、そう読める。が、それは筋(プロット)なのだ。

あくまで不条理に顔をそむけず立ち向かう人間としての「反抗」、それが個人のみならず他者や集団にまで思いが及んだ時、「連帯」を生むというカミュの見方は、しかし根底には「なにも変わらない」という非情さがあるのだ。

「ペスト」の登場人物たちの結末をみればわかる。

ペストは突然潮が退いたように終息する。人々は元の生活にごく自然に戻ってゆく。新聞記者のランベールは妻と再会するし、密輸業者コタールは警察に逮捕される。

ペスト流行は人間の罪だ、悔い改めろと叫ぶパヌルー神父はそのペストで死んだ。

当のペストは終息してからも、よそ者のタルーは病気で死んでしまう。献身的な活動をした医者のリウーは、町の外で療養中だったはずの妻は死んでしまった。

ペストがあろうがなかろうが、不条理は静かに進行し、人間はその不条理に踏みにじられていく。ペストはまるで嵐のように個々の人間の不条理性、集団が直面する不条理性を際立たせるが、実はそれはペストが巻き起こしたものではなく、人間が存在する以上、原罪のようにはじめから「あった」のだ。

「ペスト」を、「新型コロナウイルス」の連想から読み始めた人たちは、そこでなにを見出すのだろう。わたしは興味がある。皮肉な言い方をすれば、今「ペスト」に飛びついた人たちというのは、トイレットペーパーやティッシュを買いに殺到した人たちと同じ動機のようにしか思えない。

そうした人が読んだ「ペスト」は、やがて本棚に捨て置かれ、結局ブックオフに大量に流れることになるのだろう。

そういう人たちをこそ、カミュは憎んだはずなのだが。

カミュは自分を実存主義だと言われるのを嫌った。そしてあらゆるイデオロギーを拒否した。それは人間のために生み出されながら、結局人間を支配することになるからだ、だから、共産主義者のサルトルとも絶交。

サルトルは一切の政治的暴力を斥けるカミュの「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した。

確かに、曖昧にならざるをえない。アルジェリア独立戦争においても、カミュは連帯を主張し、両者の共同体を訴えたが、それは独立を渇望するアルジェリアからも、あくまでフランス領だとするフランスナショナリズムからも、どちらの側からも「曖昧だ」とみなされ、糾弾された。「おまえはただの評論家でしかない。」と非難された。

カミュは、この白黒はっきりさせるイデオロギーというものそのものの不条理性を嫌ったのだが、現実の問題の解決にはあまりにも距離が遠かった。未成熟な哲学であり、サルトルに言わせれば「ただの美徳の暴力」にすぎない、と言われても仕方がない。

ただカミュは言いたかったのだ。人間のモラルにとって、暴力はいらないと。それが、どんな形であれ、人が人を支配することになるものは、赦せなかったのだ。

人が理不尽な環境に、最後の一線で踏みとどまる「反抗」の姿勢が、その他の人々にもあると気づくとき、「連帯」が生まれる。

これが人間に必要なモラルだとカミュは信じた。その正当化に宗教を持ってきたり、なんらかのイデオロギーを持ってきたりしなかったから、傍からみれば、どうしても迫力が無く、「弱い」とみなされてしまうのだろう。

しかし、「反抗」や「連帯」ができれば、それで万事うまくいくとは思っていなかったところに、もっと無残なカミュの悲劇があり、一段の「曖昧さ」を残す要因にもなったのだろう。

ペストがあろうがなかろうが、しょせん人間は不条理に弄ばれている。そして、ペストが終われば不条理も終わったと誤解する人間が、また見えない不条理に弄ばれつづけるのだ。それに気づいていないだけに、問題はもっと深刻だ。

トイレットペーパーを買いに殺到した人々は、新型コロナ・ウイルス終息後に、別の形で現れるトイレットペーパーを買い漁り続けるのだ。小説「ペスト」を買い求めたように。そういう人間の情動からは、カミュが期待した「連帯」が生まれることは、けっしてない。カミュはたぶんそれを知っていた。そうした情動は、エゴにほかならないからだ。

ちなみに、タレントのセイン・カミュさんはカミュの兄の孫なんだそうだ。どうでもいいが。



文学・芸術, 雑話