わたしたちは止まらない

雑話

これは371回目。

わたしたちは止まらない。

われわれ日本人ほど、「日本人論」が大好きな民族もいない。
ちょうど韓国人ほど、「日本人はダメ」論が大好きな民族もいないのと対象的だ。

日本人と韓国人は、ことほとさようにいがみあっているように見える。
というより、韓国人が自意識過剰なのか、やたら日本人に対抗意識を覚えるようだ。
それを見て、日本人は不快に思うのである。
自分たちは、それほど韓国や韓国人を意識していないだけに。

たとえば、日本では客にふつうお茶を出す。
(まあ、最近はコーヒーかもしれないが)
韓国では、昔から茶を飲む習慣そのものがない。

これはどちらが良い悪い、優れている劣っているという話では、まったく無いのだ。
しかし、どういうわけか両民族はいがみ合うものだから、それを自分に都合よく解釈しては、また喧嘩の種になる。
愚かな話だ。

さて、そんな話題はともかくとして、韓国人でも、中国人でも、またそのほかの世界のさまざまな民族でも、なかなかこの日本人の感覚というものは理解されないだろうという点がいくつかある。

その一つが、「不完全なものへの憧憬(あこがれ)」と言ったらいいだろうか。
あるいは、「未完成なものへの美意識」とでも言ったらいいのか。

満月は美しいが、おそらく古来、日本では満月より、十三夜、十六夜(いざよい)、三日月、半月など、欠けた月にある種の美しさを感じてきた。

完璧な存在というものには魅力がないのだ。
しょせん、それはもう「後が無い」からにほかならない。
つまらない、ということだ。

花もそうだ。
桜の満開は美しい。
誰もそれは否定しない。

が、日本では古来、それが散っていく様に哀感を覚える。
逆に蕾(つぼみ)を見出したときには、満開を見たときより遥かに心が踊る。
それが、日本的感覚である。

ここに日本人の好みの独特の特徴がある。
たぶん、世界的にみても、珍しいほうだろう。
これも良い悪いの話ではない。
精神文化の特性なのだ。

それはわたしたちの肉体に宿る命と同じだ。
躍動性ということかもしれない。
動きがあるということだ。
時間という概念がそこにはあるのだ。

過去から、現在、そして未来へとつながっていく流れを予覚させるものが、日本人は好きなのかもしれない。

十よりも、八や九を好むと誰かが言ったと思うが、そういうことなのだろう。
どこかで読んだ気がした。

心は、止まってはいけないのだ。
命が止まってはならないように。
それは、私達自身も、社会も、止まってはならない。

一見、静的に見え、いっかな変わらない日本社会のように思いがちだが、実はわたしたちの精神文化はそうではない。

今、わたしたちの国はどうだろうか。

八木重吉にこんな詩がある。

・・・
わたしみずからの なかでもいい
わたしの外の  世界でもいい
どこにか「ほんとうに美しいもの」は ないのか
それが  敵であっても  かまわない
及びがたくても  よい
ただ 在るということが  分かりさえすれば
ああ  ひさしくも  これを追うに  つかれたこころ

・・・

バブルが弾けてから三十年。
さすがに、疲れてきたか?

八木重吉は、その一方で、こんな詩も遺している。

・・・
ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ
ながれ ゆくものよ
さあ それならば ゆくがいい
「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく
まぼろしを 追ふて かぎりなく
こころときめいて かけりゆけよ



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