運命は変えられるか?

雑話

これは34回目。運命ってありますかね。変えられるんでしょうか。どうも、変えることはできるらしいですよ。立命と言うんだそうです。

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運命ということを信じるだろうか。偶然と必然の境界は微妙だ。それが運命となると、もっと話は飛躍する。

こんな経験がある。大学時代、友人たち数人と別の大学祭に行くときだった。みなで電車に乗ろうとしたとき、一人が「妙に気持ちが悪い。この電車に乗りたくない」と言った。顔面蒼白だった。この男、ときどきそういう気味の悪いことを言う。俗にいう、「霊感がある」というやつだった。まず、彼がそう言うときには、ろくなことがなかったのだ。そこで、一本見送ることにした。
電車は私たちを残してホームを出た。そして、すぐその先に見える踏切で人を撥(は)ねた。こんどは、私たちが蒼くなった。

虫の知らせとも、第六感ともいう。もし、運命があるのだとしたら、将来何が起こるのか、シナリオが用意されていることになる。その証明は難しい。仮に予知ということが本当にあるなら、それは運命の存在を証明することになるだろう。運命がなければ、予知もありえないからだ。オカルト好きな私は、ついまじめに考えてしまう。

中国は明代の書物で、陰隲録(いんしつろく)というのがある。袁了凡(えんりょうぼん)がその体験を書き綴ったものだ。もともと彼は運命論者だったが、雲谷禅師(うんこくぜんじ)に出会い、自ら運命を切り開いていくようになった。

袁了凡が地方長官になっていたころ、禅宗の棲霞寺(せいかじ)にひょいと思いついて座禅を組みにいった。三日間続けたところ、そこの雲谷禅師が話しかけてきた。

なにしろ、素人とは思えないほど見事な座禅だったそうだ。そこで雲谷禅師は、座禅の心得がおありなさるかと聞いたのだ。凡了はズブの素人だった。「それにしてはまったく邪念がない。とても素人ではこうはいかぬ」と禅師は感嘆することしきり。

了凡はふと気がつき、それは恐らく、子供のころ一生の吉凶を占ってもらったことがあり、いつの科挙の試験に何番目で合格するとか、何歳でどういう地位につくとか、いつ四川省の長官になるとか、帰郷するのはいつでとか、すべてを占ってもらったというのだ。

そしてその通りに人生を送ってきており、占いによれば、53歳のとき、8月14日丑の刻に一生を終えるはずだ、という。子供は無い、と言われた由。

そんなわけで、自分はもう迷いがないんでしょう、と凡了はさらりと言った。

それを聞いた禅師は、大笑いして言った。「なんと。大変な人物かと思ったが、私の目も節穴だったようだ。つまらぬ人ですな」。

禅師は、そこで了凡に語って聞かせた。運命を選択するのは本人の意思なのだと。それを「立命」という。

了凡は目が覚めたようになり、人生の見方も変わったようだ。確かに運命はあるのかもしれないが、それは一つではなさそうだ。結局、どの運命を選択するかは本人の意思に委ねられている。

それ以来、占いの結果とは違う人生が進行し始めた。彼は四川省の長官を辞した後も、83歳まで生きた。そのことを、息子に書き残したのが、先の書物・陰隲録(いんしつろく)である。

とかく禅宗と言うのは、仏教宗派の中でもとりわけ痛快無比、破天荒で個性的な僧が出てくる。

こんな話もある。江戸時代、祈祷で有名な禅僧が鎌倉にいたそうだ。江戸の大店(おおだな)の主人は、娘が病に倒れ、医者からも見放されたため、すがる思いでこの禅僧に祈祷を頼んだ。禅僧は、多額の報酬を要求した。法外ともいうべき金額だった。それでも娘の命には代えられないと、大店の主人は了解した。

禅僧は江戸にやってきた。そして病臥する娘の部屋に一人で入っていった。ところが、禅僧はすぐに出てきた。お経を唱える声も聞こえず、あっという間だった。

主人は心配そうな顔で、「あの、ご祈祷は・・」と聞くと、禅僧はこう言った。「ありゃもう駄目だ。だから娘にこう言っておいた。お前はもうすぐ死ぬ。あきらめろ。だがな、お前は死ぬ前に本当にいいことをしたぞ。お前のおやじが、うちの寺にこれだけの金を送ってきた。おかげでどれだけ貧しい人が死なずにすむことか。お前は大変な人助けをしたのだ。だから、もう安心して、この世に思い残すことなく死ね、とな」。

それを聞いた主人は激怒し、「インチキだ。金を返せ」と騒いだが、禅僧は「もらったものは返せぬわ」といってさっさと帰っていった。

数日後、娘は奇跡的に全快した。娘が禅僧に言われて、激怒し、「なにを死んでなるものか。あのくそ坊主め」と思ったかどうかは知らない。ただ、禅僧に突き放された娘が、生き返ったのは事実だ。これが有名な「死の説法」である。

禅僧ならではの、当意即妙、意表を突くウルトラCだ。「病は気から」というが、気力を一気に復活させた好例かもしれない。おそらく、禅僧の一言で娘の肉体の何十兆個もの細胞が猛然と動き出し、免疫力を高めたのだろう。

妖(あやかし)が出たら、日蓮宗なら南無妙法蓮華経を、浄土系なら南無阿弥陀仏を、密教なら各種の真言(マントラ)を唱えたりするだろう。禅宗にもそうした場合の法や次第、というものはある。しかし、たいていの場合、現場において彼らは気合一発で勝負する。喝(かつ)! 問答無用だ。烈迫の勢いで調伏させてしまう。段取りも作法も無視だ。

「仏に会えば、仏を殺せ」と禅の公案集「無門関(むもんかん)」には書かれているが、何ものにもとらわれない自由さが、禅宗の魅力ではある。

立命というのも、いかにも禅宗らしい発想である。決して否定はしない。しかし、それをはるかに超える道を示すのだ。

もっとも、運命は変えられるとしても、変えることができないものもあるらしい。それを、宿命と言うそうだ。こうなると最後はわたしたち一人ひとりの、覚悟のほどが試されるということになりそうだ。



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