法という面妖な世界

歴史・戦史


これは140回目。法というのは、本当にわたしにはわかりません。なにを言っているのか、いくら読んでもわからないということが、あまりにも多すぎるのです。とても日本語には読めません。しかも、法を守るとみなさん仰いますが、法って正しいんでしょうか。また、条文そのものを守ることが大事なんでしょうか、それとも解釈でどうにでもなるんでしょうか? わたしには、デタラメな世界にしか思えないのです。

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憲法第96条を巡って議論がずっとくすぶり続け、錯綜(さくそう)している。憲法改正ができるハードルを下げようという動きと、高いハードルを維持しておこうという動きが衝突しているのだ。戦後できた日本国憲法は、一度も改正されたことのない、世界でも類まれな硬性憲法だ。硬性憲法とは、改正するとき通常の法律の立法手続きよりも厳格な手続きを必要とする憲法のことである。

アメリカは17回、フランスは24回、ドイツは17回。年月にもよるが、それなりに改正されてきている。が、日本はただの一度もない。現状に合わせて、どんどん憲法も変わるべきなのか。それとも、憲法なのだから、そう簡単に変えるべきではないものなのか。

もちろん、第9条の改正をしようとする向きと、阻止しようとする向きとの前哨戦が、この第96条を巡る議論だ。結果はどうあれ、国民が自分たちの国家を命をかけて守るかどうかという、究極の問題の行き着く先が交戦権であり、もっと突き詰めれば徴兵制まで試されることになる。この問題を避けて通ってきたこと自体、この国が異常な状況にあったことの証左でもあろう。ちなみに、第9条の改正というのは、その第2項を削除してしまえば、自動的に交戦権を維持する憲法に変わってしまう。

おかたい話は横に置いておき、ちょっと法律で遊んでみよう。大学の法学部に入ると、まず必ずといっていいほど聞かされる判例がある。その有名な一つに、「カルネアデスの板」というのがある。

海で舟が難破したのだ。二人が洋上に漂っていた。そこに板が一枚浮いていた。しかし、板は一人分の浮力しかなかった。当然、二人はその板を巡って海の上でとっくみあいの争いになった。一人が板を独占し、もう一人は死んだ。生き残った人物は有罪か、無罪か、というものだ。

答えは、無罪。法学部で試験の問題になるのは、その理由だ。無罪といっても正当防衛なのか、それとも緊急避難なのか、ということが問われる。これは緊急避難である。正当防衛といえば、もう一人を死に至らしめる行為は正当だが、緊急避難ではあくまでそれは正当ではなく、違法なのだ。ただ、人間は究極の選択を迫られた場合、他者より自分を救う権利がある。このため、違法な行為だけれども、致し方のない選択だったということで罪には問わないとなる。

ギリシャ時代のこの逸話は、近代になって実際の有名な事件でよみがえる。「ホームズ船長事件」である。客船がアフリカ沖で難破した。海に投げ出された乗客乗員はたった一艘のボートを争った。それを独裁的に収めたのは、ほかならぬ船長のホームズだった。彼だけが拳銃を所持していたからだ。

ホームズは、まず老人・女子供だけをボートに乗せ、男はみな海に放り出した。男たちはボートにみんなしがみついた。ところが、老人・女子供ではいくら漕いでも船が頻繁に往来する航路に戻れない。このままでは潮に流されていってしまう。そこでホームズは逆にした。老人・女子供を海に放り出し、屈強な男だけをボートに乗せた。その結果、航路に戻ることができ、外国船に発見・救助されることとなった。すでに多くの人命が海の藻屑(もくず)と消えていた。救出後、ホームズ船長は遺族たちから殺人の容疑で起訴されたが、判決は無罪。もちろん、その理由は緊急避難だった。

何やら、やたらと法律というのはややこしい。条文の問題というよりも、法の世界は解釈の問題だということが分かってくる。かくいう私は、大学時代に法学部に在籍していたが、成績はABCのうち軒並み「C」だった。何しろ水が合わない。いったい何をやっているのか、ばかばかしくなるような思いがした4年間だった。法律が好きだという人間の気が知れない。

卒論のゼミでは、売春防止法をやった。テーマが面白かったからだ。日本では売春行為そのものが違法だと思っている人が少なくない。が、事実は違う。「防止」という言葉に、そのザル法的な部分が暗示されている。「禁止法」ではない。売春防止法によって禁止されているのは、それと分かるように公然と勧誘することや、それが行なわれると分かっていながら場所を提供すること、それを行わせるため女性に、いわば軟禁状態を強いるようなことなどを禁止している。

つまり、その場所に“通勤”しているのであれば、罪に問われないのである。たいてい、罪を問われるのは(違法行為を問われるのは)、女性ではなく雇っている側である。要するに、外濠を埋めているだけのことだ。いわゆるかつての置屋制度を厳しく禁止しただけであり、売春行為そのものは禁止されていないのだ。だから、そういう仕事をしている女性は逮捕されない。保護されるのである。

近年「買春」を罪に問うべきだという動きになってきたが、これも買った側が標的であって、売った女性本人は、対象にはならない。不思議といえば不思議な世界だ。ちなみに、ドイツ、オランダ、オーストリアでは、売春は「合法」である。しかも、登録制ときたものだ。

かくかくしかじか、法というのは、倫理とオーバーラップしていながら、決して倫理とは同じではない。オーバーラップしていない部分では、法と倫理はむしろ真っ向から衝突しているようなケースすらある。

今、大きく揺れているのが大麻である。大麻は他の麻薬やたばこ酒と違い依存性が低いことから、一部の国で合法化している。

とくに欧州が多いわけだが、オランダでは解禁となっている以外にも、アメリカの春の時点では14州ほどが解禁となっていたはずだ。スペイン、ポルトガル、イギリスなどの西ヨーロッパに加え、南米のほとんどでも麻薬の所持、使用は犯罪ではなくなりつつある。

この「大麻の非犯罪化」というのは、自治体として合法、条件付きで合法、不起訴対象、という風に、全てを含めて遠回しに合法と行っているという意味だ。

フランスは結構厳しく取り締まる方らしいが、実際のところは発見されたところで厳重注意で終わることもあるらしい。

いずれにしろ、欧米ではあのオバマ元大統領も「昔はよく吸っていた」と公言していたほど大麻は市民権を得ている。

こうした欧米の流れ(それが正しいと言っているわけではない)と、「薬やめますか。それとも人間やめますか。」という標語で象徴されるような、麻薬厳禁国家と、一体どちらが妥当な判断をしているのだろうか。(東南アジアなどでは、死刑だ。)

マネタリストとして経済学者のフリードマンという偉い人がいた。リーマンショックで恐慌に陥るといわれた米国経済と金融市場を救ったバーナンキ元連銀議長は、1929年の大恐慌の専門家だったが、私淑していたのはこのフリードマンだった。

安倍首相も2012年の総選挙における演説では、盛んにフリードマン主義というものを口にしていた。自民党が圧勝して安倍内閣が成立してすぐにやったことは、黒田日銀の誕生である。フリードマン、バーナンキという流れのいわゆる「非伝統的金融政策」に踏み切るためだった。安倍政権にはいろいろ批判はあるだろうが(批判というものが無い政権のほうが恐ろしい)、少なくとも誰もできなかった景気の浮揚と株価の上昇を実現した以上、一定の効果があったと認めざるを得ないだろう。

そのおおもとの教祖がフリードマンである。彼は、麻薬の完全自由放任主義者であった。「やりたいやつは好きなようにやらせて、勝手に死んでいけばいいのだ。それが淘汰であり、調和なのだ。国家が介入すべきではない。行き過ぎれば社会というものは、自然と振り子のように揺り戻すのだ。」・・・フリードマンの考え方は極端だが、そういうものだった。

ところで、世界には変わった法律というのがたくさんあるらしい。どこまで本当か、いずれにしろ、その一部をざっと並べてみよう。とくにおかしなものは、けっこう米国に多い。

インディアナ州では、「道路を渡るとき、迷ってうろうろしてはいけない」。テネシー州では、「物乞いには、10ドル払わなければならない」。ワシントン州では、「犯罪を行なおうとする者は州境で停車し、警察署長に電話しなければならない」。フロリダ州では、なんと「鳥を目がけてミサイルを撃ってはならない」・・・といった法があるそうだ。どこまで本当でどこから都市伝説か知らないが。

笑ってしまうのは、スペインだ。木曜日の夜、男は夜9時から深夜2時まで外出してはならない、という法律が実際「あった」そうだ。トレド市のことらしい。あまりにも夫が家事をしないのでこのような法律ができたが、さすがにすぐに廃止されたそうだ。いやはや、法律というのは、私にはとてもついていけない世界である。

いっそのこと、条文の存在を前提とした成文法主義など、止めてしまったらどうだろう。不文法主義(判例法)でいったほうが、遥かに現実に柔軟な社会の変化についていけるんじゃないだろうか。

社会は間違っている、とよく言うが、社会は正しくなければいけないのだろうか。正しくないときも社会ではないのか。民意が常に正しいなど、ありえない。ましてや国家が民意より絶対正しいなど、逆立ちしても言えないではないか。

フリードマンではないけれど、間違ったとして、ひどい惨状が世の中に満ちたとして、それはおのずと不都合になってくれば、修正しようとする動きになってくる。それが「民主主義」社会のはずではなかったのか。そんな風にも思ったりする。



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