KAMIKAZE
これは145回目。KAMIKAZEという言葉は、海外でも右から左まで、およそさまざまな受けとめかたがあるようです。日本でもそうでしょう。以前、米戦艦ミズーリに特攻した零戦搭乗員がいました。長らくそれが誰だったのか不明でしたが、最終的には二人に絞られたようでした。そのお話です。
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神風(特別攻撃)は、海外で多数の本が出版されているが、総じて好意的である。しかし、当然ながら、かなりの外人たちの間で、やはり「理解不能」であったり、「ナンセンス」といった受け止め方はある。
日本人に多い批判というのは、紳士づらして、「彼らは被害者だ。哀れでならない。」というものだ。こういうのを、当事者の立場になってものを考えたことのない、似非(えせ)ヒューマニストと、わたしは呼ぶ。思考不能なのである。
神風が、まともな戦術ではないことは、言うまでもない。しかし、その立場に置かれた人間は、騙されていると疑念を持ちながら、どれだけの貢献度と成功率があるのかと疑問を抱きながら、そしてあまりにも健康的な人生の真っ只中で自らをそれを終わらせるという苦悶にもだえながら、せめて自分の死というものに、意味を持たせようともがいたのだ。その死は、成否、事の理非曲直を問わず、少なくとも自分以外の人たちのために自ら選択するというたった一つの結論に帰結した。
人のために犠牲打となって死ぬ人間を、「哀れだ」というほど、人間性に対する冒涜もない。彼らはみな不快に思うことだろう。馬鹿にするなと。わたしは、さも客観的な立場で、そういうものがわかったように、「哀れだ、彼らは戦争の被害者だ」という人間を、心から軽蔑する。
神風という特別攻撃は、海軍中将(最終階級)・大西瀧治郎の発案である。わたしは正直この人物がよくわからない。陸軍の辻正信と同じくらいわからない。ただ、辻正信が、常に責任を回避して生き続けたのに対し、大西は終戦翌日、自決している点で、まだ理解ができそうな気がする。しかも大西という人物は、たとえ日本があの戦争で勝ったとしても、間違いなく勝利の日に、自決したはずだ。そういう人物である。
本人自ら、特攻は「作戦の外道(げどう)」であると言いながら、最後まで固執し、パイロットたちを死地に赴かせたその思考回路は、それでもやはり釈然としないものがある。
終戦二日前に、大西は政府関係者(東郷外相)に直談判している。ポツダム宣言受諾に動きつつあった政府に対し、「なんとか、戦争を続ける方法はありませんか。あと2000万。2000万人の日本男児を特攻に送り込めば、勝てます。」と言い切ったのである。
これを理解しろと言われても、さすがにわたしには理解できない。しかも、本来この「作戦の外道」は、最終防衛ラインをフィリピンに置き、これを守り切るためにのみ、承認された特殊ケースのはずだった。それが、終戦まで結局ずるずると行われ続けたのである。
これに批判的な海軍軍人は多かったのだが、どういうわけか「声の大きい人間の言うこと」が通ってしまう、日本の異様な「末期の組織」の悪弊がよく出ているような気がする。
大西がいかに特攻に「賭けていた」かを知る彼自身の言葉がある。一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を説明したときの言葉だ。大西は軍需局の要職にいたため日本の戦力を知り尽くしていた。限界が実はよくわかっていた人物である。
「重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状、一刻も早くしなければならない。それには、一撃、レイテ(フィリピン)で反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろう。」
そのレイテ戦が失敗し、なぜか「最初で最後」のはずの特攻に、大西は固執する。ここが、わからないというところだ。
自決したのは、先述通り、1945年8月16日渋谷南平台町の官舎においてだ。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見、軍人や知人たちが駆けつけたが、虫の息の中で、介錯も断り、「俺は苦しんで死ななければならない。けして生きるようにはしてくれるな。」と言ったとされる。墓は西芦田共同墓地と鶴見総持寺にある。辞世の一つがある。
「これでよし 百万年の 仮寝かな」
大西という、非常に理解が難しい(直線的だけに難しい)人物のことはさておき、特攻隊員のことを書こう。
昔、ドキュメンタリーがあった。「2000分の1の航跡」と言うタイトルでテレビ放映されたものだ。今は、アーカイブがyourtubeで動画として見ることができる。
戦艦ミズーリという米艦があった。終戦の際に、日本政府代表団が上艦し、甲板上で降伏文書に調印した写真は、あまりにも有名だ。そのミズーリだ。
(ミズーリ艦上における日本の降伏調印式)
戦艦ミズーリは、米海軍にあっては、その後最後の戦艦となったが、現在ハワイの真珠湾の一角に保存されており、われわれ日本人も見物することができる。降伏文書に重光外務大臣らが調印した場所には、プレートが埋め込まれている。
そのミズーリは、終戦直前、沖縄戦線にいた。そこで、一機のゼロ戦の特攻を受け、右舷甲板がやられた。そのときの湾曲した舷側を、今でも確認することができる。1945年昭和20年4月11日のことである。その衝撃的な一葉の写真は、あまりにも有名なものだから、ご存知の方も多いだろう。
(ミズーリに突入する寸前の特攻機)
この写真を見てもなかなかわかりにくいところだが、実は写真手前に写っている高角砲と機銃座の米兵たちの視線からは、この瞬間、誰も零戦を見ていないらしいのだ。つまり、米兵はみな突入してくる零戦に気がついていない。実際写真を撮ったレン・シュミット上等水兵も、特攻機を意識して撮影したのではないという。たまたま偶然のワンショットだったのである。突入してくる零戦の速度は時速500キロ以上、至近距離における人間の視覚の限界を超えていた。
「2000分の1の航跡」は、この一機に搭乗していた隊員は一体誰だったのか、というドキュメントだ。日本で、また米国で、双方からこの人物を特定しようという動きが重なり、双方の協力で、二人にまでは絞ることができている。
当日の出撃記録、エンジン不良で不時着した機、ミズーリの高射砲に突き刺さった零戦の機銃の形式(写真が残っている)、特攻機から基地への無線記録、米艦隊のレーダー記録など、あらゆるデータから二人まで絞れたのだ。
このとき、米軍の沖縄本島上陸作戦が開始されており、沖縄周辺海域には18万2千名の兵員と約1300隻の艦船が集結していた。
この米海軍機動部隊に対し、4月11日には、海軍の特攻隊7隊76機が鹿屋基地、国分基地、宮崎基地から出撃、陸軍の特攻隊5隊9機が、喜界島基地、徳之島基地、知覧基地から出撃している。
4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、この内の1機、ゼロ戦52型が戦艦ミズーリの右舷艦尾に突入した。機体は僅かに左に傾斜した態勢で右舷後方からの突入であったことからすると、最初に突入機の左翼が舷側にぶつかり、そこを軸として90度程回転しながら、エンジン部分が甲板の高さまで持ち上がった状態で機体が爆発したのではないかと推察される。特攻機の残存燃料に引火したことに依って、司令塔の下の部分まで火の海となったという。
この特攻機は船体に対して、直角で突入した訳ではないので、弾頭信管が着弾の衝撃を感知しなかったのであろう、零戦が爆装していた爆弾は炸裂しなかった。結局、戦艦ミズーリは甲板に火災が発生した程度のダメージしか受けず、犠牲者は一人も出なかったという。
結局、特攻は成功したものの、ミズーリに痛打を与えるには至らなかったわけだ。搭乗員は、激突の衝撃で、甲板上に投げ出されていた。下半身は失われていたという。
現場の米兵たちは、その遺体をゴミのように廃棄しようとしていたらしいが、艦長のウィリアム・キャラハン大佐はそれを制し、命令を発し、艦内放送で乗組員全員に周知徹底した。
「この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。彼は、任務を忠実に遂行し、激しい対空砲火をかいくぐってここまで接近してきたのだ。彼の勇気と技量は、同じ軍人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付す。」
翌日、艦長以下、ミズーリ艦上の全米兵が敬礼を以て、特攻隊員の水葬が行われた。信号旗担当が徹夜をして、布の切れ端を縫い合わせて作った旭日軍艦旗で遺体は包まれ、礼砲五発、全乗組員の敬礼、戦場における最大の敬意が払われて、手厚く海に葬られた。
真の武人のみが、神風の心を知る。
(ミズーリ艦上における、特攻隊員の水葬)
現在ミズーリにいくと、甲板に「足跡のマーク」がしるされている。この水葬が行われた場所を示している。
(水葬が行われた場所の足跡マーク)
艦長の実兄ダニエル・キャラハン少将は、第3次ソロモン海戦(昭和17、1942年11月12~15日)で日本軍と戦って戦死している。巡洋艦サンフランシスコの艦長だったが、被弾、戦死したのだ。
ミズーリのキャラハン艦長は、大変信仰深い人物だったらしいが、正直頭が下がる。戦死した特攻隊員も本望であったはずだ。これを「哀れ」と言う人間の神経のほうが、よほどどうかしていよう。
ちなみに、水葬が行われた直後、ミズーリは再び特攻機の襲来を受けている。海軍9隊、陸軍14隊、計500機の特攻機が投入されており、米海軍側の記録では、この日151機の特攻機を撃墜したとされている。
このミズーリに突入した特攻機は一体だれであったのか。その後の調査では、鹿児島県大隅半島の鹿屋基地から出撃した第五建武隊(隊長矢口重寿中尉)16機の内の1機、石野節雄二等飛行兵曹( 19歳・岡山県和気出身)四班第4番機であると判定されている。
但し、石井兼吉二等飛行兵曹( 22歳、千葉県松戸出身)四班第3番機である可能性もゼロではないようだ。「2000分の1の航跡」では、確定していなかったように思う。
通常、特攻は4機で編隊を組み、右翼の二機が1番機、2番機。そして、左翼の二機が、3番機、4番機である。二人はその、3番機、4番機であった。
当初この2機は、索敵に失敗している。レーダーに捕捉されないよう、海面すれすれの超低空飛行を続けていたために、米艦隊を発見できなかったのである。そこで、二機はいったん基地に帰ることにして、反転。そこで、米艦隊に遭遇し、基地に無線を送っている。無線から、20分間に相次いで突入したようだ。
ちなみに、このミズーリは退役したのは、なんと1992年である。1991年1月の湾岸戦争にも参加しているのだ。
そしてミズーリにおいて行われた海軍葬は、この日本の特攻隊員の為に行われた1回だけである。つまり退役するまで、一人も戦死者を出さなかった戦艦ということになる。
くだんのキャラハン艦長は、21世紀に入って、90歳を超える高齢で亡くなっている。戦艦ミズーリの初代艦長であった彼は生前、一度も家族や友人たちに、この1945年4月11日の水葬のことを話していない。
内外で、神風を、中東の自爆テロなどと同一視する向きがかなり多い。残念なことである。では両者はどこが違うのか。
自爆テロは、攻撃対象が無差別である。しかし、神風はターゲットを敵軍だけに絞っている。そして自爆テロは、民間人に偽装して接近し、攻撃する。しかし神風は、明確に国際法に則って、一見して戦闘員であると認識できる軍装をし、平たく言えば「正々堂々」と攻撃する。自爆テロは、ゲリラと同じであるから、正規軍ではない。国際法上、人間としての権利は与えられていない。法的には犯罪である。しかし、神風は違う。キャラハン艦長が行った水葬がそれを雄弁に語っている。
蛇足だが、現在、ハワイの真珠湾記念館には、「日本は軍国主義であった」という言葉は、一つも刻まれていない。