エース

歴史・戦史

これは187回目。エースのお話です。エース・パイロットのことです。日本語に訳せば、「撃墜王」とでもなるでしょうか。軍隊の中でもっとも花形であり、ヒーローでした。世界の空戦史上、最強の撃墜王は、第二次大戦におけるドイツ空軍のハルトマン( 352機)、次いでバルクホルン( 301機)であるといいます。300機以上撃墜させた者は、この二人しか存在しません。とはいえ、二人とも優秀なメッサーシュミットを駆って、粗悪なソ連空軍機を相手に東部戦線で出した記録がほとんどでしたから、果たして実力的にどうであったかは、はなはだ疑問です。しかし、日本にも米空軍を震え上がらせたエースがいました。

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戦闘機のパイロットというのは、最低1000時間の飛行訓練が必要で、しかもそこから実戦で経験を積む必要がある。その間に戦死者も出るから、熟練のエースを育てあげるのは、容易なことではない。戦闘機は1週間で速成できるが、パイロットの養成には大変な手間と時間がかかるのだ。

第二次大戦で、アメリカと事を構えた日本は当初、戦史では前代未聞の、航空機動部隊のみによる先制攻撃という、奇跡的な戦法で世界中を驚倒させた(真珠湾奇襲)。だが、はたしてどこまで航空兵力や、戦闘機搭乗員の重要性というものを認識していたのか、その後の戦争の経緯を見ていくとこれまた疑問に思う。人材軽視は、日本軍にとって致命的な欠陥として、その後の作戦に影を落としていった。

岩本徹三というゼロ戦の撃墜王がいた。通算202機撃墜。撃墜するごとに、桜花のマークを機体に描いたので、60、70と増えるにつれ、遠目からみても、岩本のゼロ戦はピンク色に輝いて目を惹いたという。小柄( 150cm)で細身の青びょうたん。明るく、軽妙な人物だったようだ。普段は汚い服をきて、若いのに「田舎のじいさん」のようにしか見えなかったという。ところが、空戦になれば、「ラバウルの魔王」と敵から異名を取った。ピンクのゼロ戦に米軍機は群がったが、ことごとく返り討ちにされた。

ラバウルは南方最前線の航空隊基地だった。陸海混成である。岬と湾の形状から、米軍が「ドラゴン・ジョーズ(龍のあご)」と呼び、近づけば必ずやられると恐れられた。熟練のエースが集中配備されていたのだ。岩本もラバウルにいた。ニミッツ米海軍提督は、一週間に1000機の空爆を敢行してラバウルを叩いたことがあったが、岩本らはわずか20~30機で抵抗。地上員からも、またたくまに米軍50機を撃墜した様子が確認された日があったくらいだから、相当のつわものであろう。米軍は、あまりにラバウルが頑強であるため、日本軍は1000機を常備していると見誤ったくらいだ。

岩本らラバウル航空隊では、特殊な戦法を用いていた。アメリカの重爆撃機の編隊に対して、1000~2000メートル上空から敵の進行方向と正対して飛行。緩降下して、直線距離が3000~5000メートル程度になったときに背面飛行に入る。射撃角度を調整しながら急降下。距離が150メートル以内に近づくと、20ミリ機関砲と7.7ミリ機銃で、直上からコックピットを狙って1~2秒間発射し、高速で下方向に離脱する。そこから再度上昇して反復攻撃するのだ。一撃離脱法の繰り返しである。

この戦法は、さらに機銃掃射ではなく、三号爆弾の投下という神業にも応用された。背面で機銃攻撃に入る代わりに爆弾を投下し、降下速度を利用してその後方に抜けるのだ。戦後の回想録および複数の目撃証言で、その詳細が明らかにされた。一発の三号爆弾で、B29爆撃機が14機から17機、最多では一度に26機の編隊がまとめて撃墜された。三号爆弾は投下してから3秒後に爆発するので、B29の直上で爆破させるには、1秒の何分の1という誤差しか許されない。

トラック島電信員、加藤茂の回想では、「丁度、敵機が真上をすぎたときである。レシーバーから、 何やら訳の分からない英語の叫び声が防空壕電信室一杯に響き渡った。あまりの近距離と、敵機の電信機の出力が大きいせいであろう。その時叫び声が泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声がつんざいた」。岩本機が投下した3号爆弾が、米爆撃機を粉砕した瞬間の傍受であった。加藤が壕から出て空を見ると、数条の白煙を吐いた米軍爆撃機が、まさに夏島の山かげに消えて行くところだった。

岩本はときに、裏ワザも使った。空戦になると、まず圏外に離れて傍観する。あまりにも敵が多すぎると、どうにもならないということだろう。戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙うのだ。米軍機は、生還できるという安心感から、脱力しきっている。そこを急降下して片っ端から叩き落とすのである。これには、米軍も戦慄した。いわば「送り狼」である。同じく撃墜王として、撃墜数80機とも120機とも言われた西沢広義からは、「岩本さん、そりゃずるいよ」と笑われたが、岩本は戦争にルールもへったくれもない、と思っていたようだ。「だってさ、俺がやらなきゃ、連中また味方を叩きにくるじゃないか」とうそぶいた。

真珠湾に始まり、珊瑚海、トラックと転戦し、いったん内地で戦闘機搭乗員の指導にも携わった。特攻隊員募集の通知を受けても、「俺はいやだね」と拒否。しかし、彼が育てた搭乗員の多くは特攻作戦に投入され、岩本は心を痛めた。「訓練しては前線に送り、たった一度の特攻で全滅させて、またもや訓練の繰り返しだ。さっきまで一緒に馬鹿話をしていたやつが、今はもういない。全身の毛が寒気立ったままおさまらないんだ」と葛藤を述べている。そのため常軌を逸した命令をする上官とは、臆することなく衝突した。特攻が行なわれた洋上では、彼らを見送った岩本の直援機(特攻機突入までの護衛機)が、何度も何度も上空を旋回している姿が目撃されている。

ラバウルで勇名を轟かせた岩本は、戦争末期に沖縄戦にも投入される。沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、慶良間諸島に上陸作戦中の米軍艦艇を発見。岩本は偵察任務から逸脱して単機でこれを銃撃し、大損害を与えている。日本軍守備隊があっけなく壊滅し、島民が悲劇的な自決を選ぶ最中、日本の戦闘機がたった1機で米軍に挑む姿が、今なお記憶に留められている(慶良間海洋文化館の記録)。

開戦直前、「その訓練」は鹿児島湾で行なわれた。魚雷の沈度を12メートル以内に抑え、なおかつ標的まで500メートルまで接近して確実な雷撃をするのだ。高度50メートルで甲突川(こうつきがわ)の峡谷をうねりながら抜け、高度40メートルで鹿児島市街の上空を飛び、海岸線から500メートル沖のブイに魚雷を発射する。このとき高度20メートル。搭乗員たちは朝から晩まで、同じコースを何度も飛びつづけた。

搭乗員たちは、実際に真珠湾へ行ったときに気づく。鹿児島市街はフォード島南岸の米海軍工廠、沖のブイはもちろん米太平洋艦隊だった。昭和16年11月16日、艦上爆撃機や戦闘機の搭乗員たちは各母艦に収容され、集結地である択捉島(エトロフ)の単冠(ヒトカップ)湾へ向かった。そして12月8日、プロジェクト“パールハーバー(真珠湾)”が最後の段階を迎えたとき、艦載機合計770名の搭乗員がそれに参加した。みな、中国での空戦を経験した熟練者を中心に、エースというエースが投入された。岩本もその1人だ。3年半後に終戦を迎えたとき、生存者は岩本を含め148名にすぎなかった。死亡率は80.8%に達する。単冠湾に向かった搭乗員たちは、その当時、もちろんそれを知るよしもなかった。



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