月の巡りがほんとの区切り

雑話

これは396回目。

常生活の区切りのお話です。毎月の月末の事を「晦日(みそか)」と言います。年末のその日だけを、「大晦日」と呼ぶのです。別の呼び方では、「つごもり」と呼び、大晦日は「おおつもごり」とも言われます。

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さて、大晦日には「年越し蕎麦」を食すが、これは江戸時代からの風習。江戸時代の金細工職人が、仕事で飛び散った金粉を集めるのに、そば粉で作った団子を使用していたので、大晦日にそばを食べると、金運に恵まれると言う言い伝えが有る。

つまり、最初は、そばではなかったのだ。蕎麦を使った団子だったことになる。実際、団子から、次第にそば切りを食べるようにと変わっていったらしい。

年越し蕎麦と、切っても切れないのが、除夜の鐘だが、108あると言われている人間の煩悩を打ち消すために、全国津々浦々のお寺でつかれる。31日に107回打ち、歳が明けて、最後の1回を打つならわしが有るようだが、年越し蕎麦は、日が変わる前に食べ終わらなければならない。持越しではいけないものらしい。

ところで、大晦日には、徹夜をする人が多い。戦後は、テレビ番組を見る場合がほとんどなのだろうが、実は、昔から大晦日には、徹夜をするしきたりが有った。なぜ徹夜をしなければいけないかと言えば、これには、とても大切な意味が込められている。

大晦日は、古い年から新しい年に変わる、一年の境に当たる日なので、色々な物を、次の年に引き継がなければいけない。中でも、生活の必需品である「火」を絶やすわけにはいかないので、徹夜で火の番をしていたわけだ。もう一つはご先祖様が正月にお帰りになられるのに、寝ていたら失礼だと言う説も有る。

この正月だが、欠かせないのが、お供えする鏡餅だ。この語源は形が平たい円形で当時の手鏡に似ていることから名づけられたもので、12月28日の末広がりで幸福を意味する「八」の字の付く日にお供えされ、通常1月11日にこれを雑煮や汁粉にして食べる(鏡開き)。もともとは、この鏡餅は、魂を意味したと言われる。歳神がやってきて宿る大切な寄り代だ。そして、それを食うことで、生気を新たにするわけだ。

お年玉はどうやら、中国では唐の時代(712年から750年ごろ)に宮廷で始まり、その後庶民化した圧歳銭(ヤースイチェン)という習慣があった。これは今の日本のお年玉と同じような習慣なので、おそらく間違いなくこれが起源だろう。現在中国では、お年玉は「紅包(hong bao)と呼ぶが、ちゃんとある。韓国にも似たような風習があるらしい。

ただ、日本のお年玉と、中国のそれとは決定的に違う点がある。それは先の鏡餅との関連だ。中国の紅包は、文字通り、お小遣いの意味だ。年齢にも関係がなく、ご祝儀的な意味合いが強い。日本のそれはもっと奥が深い。

日本で「おとしだま」と呼ぶ、この「たま」とは、魂、つまり霊魂のことである。そもそも、このお供えの精神は、各家家の先祖霊や歳神を迎えるための、「御魂祭(みたままつり)」に由来している。鏡餅を、切り割りして、家族みんなで分けて食するのだ。それがいつのまにか、現金にすりかわってしまったのだが、本来の意味は、きわめて宗教的な儀式に関係した言葉だということがわかる。

さて、ここで鏡餅とお年玉の話が融合する。もし、餅が魂なら(実際、由来はそうなのだ)間違いなく、鏡とは、魂を映す鏡という意味のはずだ。どこの神社でも、鏡が祀られているのをご存知だろう。鏡が御神体の場合もあるが、ふつうそうではない。神の霊(先祖の霊)を映しだしてくれるものが、鏡である。だから、鏡を祀るのだ。それによって寄ってきたものが、餅に宿る。そのパワーを食して、一年の振り出しとしたのだ。

こっちは、まったく気にかけていなくとも、「彼ら」はちゃんと来ているものだ。墓参りも大事かもしれないが、なにより彼らのことを忘れない、ということと、感謝するということに尽きるようだ。

大晦日・お正月などという一年の区切りがどうしても大きいわけだが、実は人間の生活は月単位だ。命日も月命日があるくらいだ。当然生きてる側にも、月の巡りが基本の人間のサイクルなのだ。

わたしの年齢になってくると、焦りを覚えるほど、あっという間に時が過ぎるようになる。二十代の頃には、永遠と思えた時間が、限りあるものだと思い知るこの頃だ。気がつくと「もう月末じゃないの」ということがザラ。過ちもある。失敗もある。それでいい。

アメリカの有名なプロボクシングチャンピオンに、記者がこう問いかけた。
「なぜ、あなたはそんなに強いのか?」
「さんざん負けたからさ。」

2020年はまだまだ序盤。ただ悔いの無い一年を過ごせたらと思う。皆様にも、そのような充実した一年となりますように。



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