鉄の馬~人間には二種類ある・・・

雑話

これは15回目。バイク乗りはよく言いました。「人間には二種類ある。バイクに乗る奴と、乗らない奴だ。」あなたは、バイク派? それとも車派?

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いつの頃だろう。高校時代か、大学の頃だろうか(つまり70年代である)。新聞の広告で、とんでもないものを見た。一枚の大きな写真広告だ。カメラの視点は、地面すれすれ。どうやら高校のグラウンドのようだった。ちょうどカメラマンが、地面に腹ばいになって撮ったアングルのようだった。

遠方に、サッカーゴール周辺で、高校生たちがボールを追っているのが見える。この辺、記憶があやふやなのだ。確かサッカーゴールだったと思うのだが、もしかしたら野球のホームべースあたりだったのかもしれない。

一方、カメラのすぐ前には、サイドスタンドで休ませているバイクと、たしかそのステップにブーツを履いた片足が乗っていた。写真の右半分がこのバイクとステップに足をかけているブーツで占められている。(ブーツじゃなかっただろうか。スニーカーだったかもしれない)

遠くには、ボールに群がる高校生たち。遠近の距離の違いが、なにものか、対照的なものを示そうとしている。

キャッチコピーは、「先生、ボールを追いかけているのだけが、青春じゃないんだよ。」・・・確か、そんな文言であったと思う。

記憶に間違いがなければ、ヤマハのバイクの広告だったと思うのだ。当時、メーカーは、暴走族などに配慮して、中型以上、あるいは限定解除のバイクについては、積極的なメディア広告を打たなかったようだ。それが、業界の不文律だったのか、業界自粛なのか、とにかくそういうものがあったようだ。煽らない、ということなんだろう。

そんな中で、この新聞広告は、意表を突くほど「過激」であった印象がある。健康的な青春像に対する、アンチテーゼのような、いわば「反逆的な」スピリットが炸裂するような広告だった。

Bike(バイク)というと、英語では普通Bicycle(自転車)の意味だ。Motorcycleが日本語でいうバイク、いわゆるオートバイの意味として通じる。

これは、実際に乗ったことのある人でなければ、とてもわからない感覚だろう。まるで自動車とは別物である。高速であればあるほど、車体が安定するのだ。二輪であることの特性だろう。

その魅力にとり憑かれると、もうとにかく走っていなければ気がすまない。走っていることそのものが、快感なのである。自動車ではそういう感覚はない。

自動車はどこへいっても、自分の世界が箱の中に存在し続ける。安心感は確かにあるが、刺激はきわめて少ない。ところが、オートバイは、生身で走っているようなものだから、まかり間違って、「当たれば」必ず負ける。死の確率も高い。だから、バイクに乗る人間は、その運転のスタンスは、きわめて「防衛的」「防御的」になる。神経が、四方八方に向けて、常に研ぎ澄まされている。接近してくる異音、風圧、振動、すべて五感で掴みとろうとする精神状況になっている。

F1でもなんでも、二輪出身のレーサーは、四輪でも成功する確率が高いそうだ。なにしろ、スピードというものを、皮膚感覚で覚えることができる。車だけ運転をしていると、気がついたら140キロ出てた、などということがよくあるだろう。バイクでは、そういうことは絶対にない。100キロを越えてくると、自然に体が緊張しはじめる。

街を抜け、山野を通り、再び街が近づくと、まず気温がぐっと上がってくるのがわかる。そして、野生の匂いから、人間のさまざまな生活の匂いへと変わっていくのがわかる。なにも、峠のコーナーを攻めるとかいうのではないのだ。わたしがとり憑かれたのは、スピードではない。なんといってもロングツーリングだった。

たとえば、テントを積んで、横浜をスタート。東北、北関東、信州、伊豆と一泊で足を伸ばせるところは、どこにでも走っていった。ほとんどソロ走行だった。

夏の場合は、雨がまた良かった。とにかく痛いのだ。いてもたってもいられないくらい痛い。冬は、なぜこの寒い中を好き好んで凍えながら走っているのか、正直自分でも意味不明であった。

一番遠い距離を走ったのは、東京から九州までの往復。往路は、東海道と山陽道。復路は、山陰道と中山道を使った。最後に台風につかまり、甲府で余計な足止めを食らって往生したが。すべてテント泊だ。

ツーリングの最中、当然、その土地の人たちとの邂逅はある。が、別にそれを目的としていたわけではない。「人との触れ合い」などという御伽噺(おとぎばなし)など、眼中にない。ただ、走りたかったのだ。

バイクというのは、たぶんそういう乗りものだ。目的などというものは、バイクには最初から無いのだ。あまりにも自己完結的なモノ、それがバイクだ。だから、言いようによっては、高価で贅沢なおもちゃだ。

人によって、もちろん好みの違いはある。多くは、スムーズな四気筒エンジンを好むだろう。わたしの場合は、ひたすら振動と、シリンダーの爆発音が大きい二気筒、あるいはビッグシングル(単気筒)が好きだった。

たぶん、山といっしょで、バイクというのも、「つるんで」行くものではないのだろう。徹頭徹尾、単独行が筋の乗り物なのだ。群れるには、目的が必要になる。しかし、一人なら、目的などいらない。バイクとは、自体そういう乗物なのだ。

熱いわ、寒いわ、埃塗れになるわ、危ないわ、およそいいことなど何も無いバイクだが、たまにはいいこともある。夜、横浜の山下公園近辺の路地を抜けていくときのことだ。今で言う、ヤンキーのような連中が、大勢路上にたむろしていた。酒が入っていたようだ。わたしの前には、メルセデスが徐行していた。中には若い男女が仲良くしていた。わたしは低速で、その後ろについていた。

ヤンキーたちが、メルセデスを見て、絡みはじめたのだ。ボンネットや、窓ガラスを手でばんばん叩いては、中の二人をやじったり、罵倒したりし始めたのだ。正直「やばい」と思った。前の二人はいい。なにをされても箱の中だ。ドアロックさえしていれば、なんともない。いざとなれば、いきなり加速して、振り落とし、逃げ切れる。しかし、わたしは、なにしろ「生身」なのだ。タコ殴りの上、バイクも壊されかねない。

メルセデスは、アクセルを踏み込む勇気もなかったのだろう。低速のまま、さんざんにいびられまくって、ようやくその群れを脱して、慌てて走り去った。次はわたしの番だ。万事休すだ。

すると、連中は、どうしたことか「おい、バイクだ、バイクだ。早く道開けろよ。」といいながら、いっせいに、路上から歩道に上がって、わたしのバイクを通してくれたのだ。バイクだけは、特別扱いだ。「バイク乗りに、悪い奴はいない」 そういう神話が頭をよぎった。

また別の機会に、ロードサイドのドライブインに入った。腹が減っていたのだ。食事が終わって駐車場に戻ると、わたしのバイクの周りに、これまた5-6人のヤンキーたちが座りこんでいたのだ。怖い。

逃げるわけにもいかない。手刀を切りながら、「すんません。すんません。」と言い、バイクに近寄ると、彼らは一斉に立ち上がった。「うわっ、どーしよ。」と思ったところ、一人が「あにきィ、いいバイクっすね。」と言った。

バイクというのは、不思議な乗物だ。車でも、バイクでも、人間は強烈に自己主張をする。そういう性(さが)なのだろう。ところが、バイクの場合、どういうわけか、その割に奇妙な連帯感のようなものがあるらしい。バイクに乗っている、それだけで仲間だという認識が生まれる、不思議な魔力があるらしい。

バイクに乗っていると、確かにたまにはいいことがあるのだ。といっても、このていどの話なのだが。



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