南京のまぼろし~一体ほんとうのところ、なにがあったのか、なかったのか

歴史・戦史

これは44回目。お隣の中国とは、1986年の文化大革命終了以降、ことあるごとに歴史問題でもめ事が絶えません。「南京大虐殺」もその一つです。ぎょっとする話ですし、あまり触れたくない気もしますが、それでは済まされないでしょう。はっきりしている事実とデータだけを、並べてみましょう。

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「南京大虐殺」とは、1937年12月13日から6週間~3カ月にわたって行なわれたとされる、日本軍による大虐殺である。
もともと、極東軍事裁判でいきなり登場してきた事件である。訴状内容のすべてが「証言」と「伝聞」によるものだ。
しかも、最終判決で、日本のA級戦犯(南京戦の最高司令官・松井石根陸軍大将)の死刑判決の罪状は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」いずれも適用されておらず、南京大虐殺とはまったく関係のない「通常の戦争犯罪(本来、これはB級戦犯の要件)」の訴因第55項一つだけが有罪で絞首刑となっている。判決には、南京大虐殺そのものが削除されている。この事実はなにを意味するのだろうか。

ちなみに、松井大将は、戦前、日本留学時代の蒋介石とも親交があった。日本での下宿の世話をしたのも、松井だ。蒋が政治的に苦境に陥ったときに、田中義一首相との会談を取り持って救ったのも松井である。軍規に厳しい人物で、1928年の柳条湖事件の際、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した首謀者、河本大作の厳罰を強く要求している。

辛亥(しんがい)革命のころから蒋介石始め、多くの中国革命の志士を支援し、交友関係を持っていた。当時としては非常に珍しい、言わば親中派の軍人である。日中戦争必至という情勢の中、松井は中国に渡り、蒋介石や何応欽(かおうきん)、張群(ちょうぐん)、李宗仁(りそうじん)ら軍の要人と相次いで交渉して和平合意を取り付け、広田弘毅首相を説得したのも松井である。残念ながら、この直後、当の蒋介石が西安事件によって、翻意せざるを得なくなり、国共合作による抗日戦の火ブタが切って落とされてしまった。

この松井は、巣鴨プリズンで多くの欧米記者のインタビューを受けている。なにしろ英仏独語が堪能で、西欧文学の造詣も深く、知的かつ温厚なインテリだけに海外記者団は誰もが、「本当にこの人が組織的な大虐殺の張本人なのか。とても信じられない」と異口同音に感想を述べている。実際、戦地でも中国兵戦死者の墓を、律儀に作らせていたような人物だ。死刑判決に際しても、対日断罪派のジョセフ・キーナン検事でさえ、「なんという馬鹿げた判決だ。せいぜい終身刑だろう!」と判決に罵声を浴びせている。

松井自身は周囲に、「どうも俺は長く生きすぎたよ」と言っていたそうだが、南京攻略時、彼の部下には皇族の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)がいたため、昭和天皇の免訴問題とからんで、松井が身代わりになったという指摘がある。ジャーナリストの田原総一郎氏などはその意見のようだ。

戦後、日本の訪台団が蒋介石と面談した折、たまたま昔話で松井に話題が及んだ。そのとき、蒋介石は目に涙を浮かべて、「松井さんには、本当に気の毒なことをした」と語ったそうだ。

さてこの「南京大虐殺」だが、日本陸軍が進攻した当時、中華民国(中国)の首都であった南京市は、国際都市でもあった。欧米列強の公使館や各国の通信社までがあり、日本兵が中国人を殴っただけでも日本の大使館に抗議が来る時代だった。

南京市内には、当時日本を敵視していたアメリカ・イギリス・ドイツ(三国同盟にもかかわらず、ヒトラーは中国に軍事顧問団を送っていた。だからわたしは、ドイツという国が信用できないと言うのだ) の代表者15カ国からなる 「南京安全区国際委員会」が安全区 (難民区) を作り、全市民を避難させ、南京市民を戦禍から保護する活動を行なっていた。欧米各国・メディアの完全な監視体制下で、日本軍の南京突入が行なわれたのである。

そんな真っ只中で、人口統計20万人を遥かに超える大虐殺(中国政府は30万人から60万人近い虐殺犠牲者数を主張している)が行なわれたのに、どの外電も公文書もそのことを報告していない。

中国政府が公開しているほとんどが中国人の伝聞、捏造・合成写真、多数の死体を見た、といったものばかりだが、こうした虐殺を目撃した証人が、多数居住していた外国人に一人もいない。

戦争にはつきものの、暴行や掠奪が何もなかったとはいいがたい。しかし、言われているような大虐殺はあったのか、なかったのか。多くの「証拠写真」がことごとく合成と、まったく別の土地で、まったく悲惨な状況とは無縁のものなどによる捏造だということは、ほぼ立証されている。
通州事件で大量虐殺された日本人居留民の死体(385名中223名が虐殺された)の写真を、中国は南京大虐殺の証拠写真だとしていたことがすでに明らかになっている。

上海から南京まで、日本軍に追撃された中国軍に従軍していたNYタイムズのティルマン・ダーディン通信員は 、1989年10月号の『文芸春秋』で、「従軍中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことはない。当時、 虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともない」と断言。

日本軍が南京に入城後、南京市民の世話をした外国人からなる「南京国際安全区委員会」が 1939年に刊行した活動記録によると、日本軍が南京入城直前の人口20万人(南京城内)が一カ月後には25万人になったことと、日本軍の非行、殺人が26件あったとある。但し、目撃されたのは1件で合法殺人と注記されている。

アメリカの駐南京大使館の報告を確認してみよう。

南京アメリカ大使館通信――エスピー報告(1938年Vol.14 1938年1月25日 南京)。以下は、その抜粋。

・12月  事件10日後の南京の状況 :
南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ5分の4が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京の防衛は、わずか5万の兵士に任されていた。 (つまり、南京には中国市民は大部分残っていなかったということになる)

・『南京事件資料集』アメリカ関係資料編(239頁)
南京戦には、内外合わせて170人前後の従軍記者がいたが、誰一人として南京で虐殺があったとの記事を書いた者はいない。後になっても南京で虐殺があったとも言っていない。外国人の記者は70人程度いたが、やはり誰一人として、後ですら虐殺があったと言っている者はいない。毎日・朝日とも南京陥落時に各社7~8人の記者が南京市内に入ったが、誰一人として虐殺を見ていない。

当時南京にいて、さかんに日本軍の虐殺を主張していたラーベ(ナチス南京副支部長)は、虐殺が行なわれていたとされる間、頻繁に外出しているが、日本軍による不法殺人を見たと述べていない。にもかかわらずラーベは、1938年1月14日、ドイツ大使館にあてた手紙に被害者数千人と記している。ところが、 その二週間後、イギリス大使館にあてた手紙には被害者数百人と記している 。ラーベたち安全区委員会が記録した日本軍の暴行の報告書には殺人事件「25件」、 被害者「49人」としか記されていない。

では、当時の中国側のメディア(新聞)の報道を追ってみよう。

・『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938年2月発行…日本軍による 掠奪・強姦・破壊の記述。殺戮の記述無し。

・『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938年4月発行…金と掠奪品と女を物色する日本兵の記述。殺戮の記述無し。

・『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938年/夏季号…日本軍による恐怖の支配の記述。殺戮の記述無し。

・『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…南京大虐殺の記述無し。

最も注目すべきは、南京戦の直後、中国国民党蒋介石総統は漢口において、しきりに対日抗戦の声明文を発表していたが、「虐殺事件」には一言も触れていない。何応欽(かおうきん)軍司令官の「軍事報告書」にも、一行も書かれていない。
大虐殺であれば、反日宣伝活動に大いに利用できるにもかかわらず、国民党はもちろん、合作していた共産党軍の資料にも、「南京大虐殺」の記述は一言もない。

はっきりしている南京虐殺前後の事実とデータはこういったものである。虐殺が「あった」「なかった」という二つの議論は、このほかにも多くの「証拠」や「反証」を掲げるが、たいていは推測・推定、伝聞でしかない。

ただ、試算という事実の分析というのもある。たとえば、中国政府が主張している30万人という虐殺が本当だったとしたら、南京城内は一体どういう状態になっていたかという試算だ。

具体的に計算してみればよい。人間の表面積は、全部で1.62平方メートル。半分として0.8平方メートルだ。 30万人殺したというのであれば、ぴったり死体を並べていったとして(できるわけがないのだが)、24万平方メートルということになる。

南京城内の面積は、3万5000平方メートルでしかない。つまり、山手線内の面積の3分の2である。30万人の死体を並べたとしたら、城内一杯にぴったり敷き詰めたとしても、なんと8段重ねという死体の山になる。これはぴったりと、寸分の隙もなく敷き詰めることが可能だとしての計算である。当然、乱戦と虐殺であるから、もう手当たり次第にに死体が積み上がっているはずで、とても高さ8メートルですむはずがない。

その膨大な死体の山を目撃したという人は、一人でもいるのだろうか。

さて、いったいあの日、南京で何があったのか、なかったのか。その答えは、あなたが出すしかない。事実は一つしかないが、真実は人の数だけあるのだ。



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