カメラ・アイ~そして彼らは伝説となった

歴史・戦史

これは46回目。戦場カメラマンの話です。彼らはなぜ、命の危険がある戦場に身を置くのでしょうか。平和のためでしょうか。真実を世界に知らしめたいためでしょうか。どうもそうではないようです。それではなんのためだったのでしょうか。

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ロバート・キャパという戦場カメラマンがいた。ハンガリー系のユダヤ人だが、スペイン内戦に従軍した際の、「崩れ落ちる兵士」の写真で有名だ。この写真は、1936年7月12日号のLIFE誌に掲載された別名「死の瞬間の人民戦線兵士」のことである。ところが、実は、ロバート・キャパなどという人間はいなかったのだ。

ロバート・キャパはそもそも本名ではなく、アンドレ・フリードマンが本当の名前である。しかもキャパは、もう一人いた。弟のコーネル・キャパだ。コルネール・フリードマンといった。兄弟でキャパを名乗ったから、ややこしい。さらに言えば、キャパが撮った写真と言われているもののうち、初期のものは恋人のゲルダ・タロー(本名ゲルダ・ポホリレ、ポーランド系ユダヤ人)との共同作業であったから、どこからどこまでがキャパ本人(兄のアンドレ・フリードマン)の写真なのかは不明である。

戦争カメラマンとしてあまりにも有名なロバート・キャパは、実は三人の作品が混在していることになる。ある程度は分別されているようだが、初期のものはどうにも区別ができないようだ。とくにゲルダ・タローと暮らした時期のものは、まったく区別がつかないらしい。

「崩れ落ちる兵士」によって一躍、ロバート・キャパの名前は世界に知られることになった。ところが、この写真は偶然、足が滑って転ぶ兵士を前から撮っただけ、なのだという。さらに、撮ったのはロバート・キャパではなく、恋人のゲルダ・タローだったというのだから、二度驚く。このことは、NHKの特番(沢木耕太郎推理ドキュメント)などによって、詳細に検証されている。

そもそも、「ロバート・キャパ」なる架空の人物を作り上げようとフリードマンをそそのかしたのは、ゲルダ・タローだった。ちなみに、このゲルダ、なぜこのような名前を名乗っていたのかというと、戦前パリで岡本太郎と交友があり、TAROという東洋的なその発音に魅せられてタローと名乗ったのだそうだ。

ゲルダはスペイン内戦のとき、混乱するブルネテの戦線において負傷者をトラックに運んでいる最中、暴走してきた共和国軍の戦車と衝突。重症を負い、野戦病院で死亡している。当時、フランコの反乱軍(ファシスト)は、ブルネテが自分たちの支配下にあると世界に主張していたが、真実はゲルダが残した多くの写真に残されていた。ブルネテはまだ共和国軍が制圧したままだということが、写真で明らかになったのだ。その中には、彼女自身が遺体として野戦病院の台の上に横たわっている写真も含まれていた。1937年没。享年27。

ともあれ、二重の「うそ」をついていたロバート・キャパは、自分を一躍有名にした写真について、生涯ほとんど語ることはなかった。後ろめたかったのだろうか。無理はない。ただ、その後のキャパの仕事は、戦場カメラマンとしてはまさに「偉業」と言えるものだった。

スペイン内戦( 1936~1937年)、日中戦争( 1938年)に始まり、第二次大戦( 1941~1945年)を経て、1954年5月25日、インドシナ戦争の最中のベトナムで、仏軍の地雷除去作業に同行。このとき、安全を確認したはずのエリアで地雷を踏み、絶命した。左足は吹き飛び、胸はえぐれていた。まだしばらく息はしていたらしい。コンタックスは左手に握ったままだったが、右手で持っていたニコンは行方知れずになった。最後に撮った写真が、カメラに収められていたが、それは稲田に沿って地雷を探知しながら歩いていく仏軍兵士たちの後ろ姿を写したものだ。この1枚の直後に、キャパは地雷を踏んだ。享年41。

キャパは死ぬまでに、伝説的な写真を世の中に送り続けた。その中に、「最後の一人、Last man to die.」という写真がある。(後になってみれば)ドイツ降伏まであと20日というときだった。場所はドイツ領ライプツィヒ(ゲルダが育った町)。二人の米兵が、アパートの二階のバルコニーに重機関銃を設置し、ドイツ兵残党のスナイパー(狙撃兵)から、友軍の渡河行軍を援護しようとしていた。

米兵の一人が撃たれ、バルコニーから部屋の中に仰向けに倒れこんだ。キャパは駆け上がって、その兵士を撮った。すでに絶命していたが、おびただしい血が生き物のように床に広がっていく、不気味にして悲惨な一枚だ。ドイツ軍のスナイパーが、最後の抵抗を必死でしようとしていたのか、それとも恐怖にかられ、ただ流し撃ちをしたら、たまたま当たってしまっただけなのか。はっきりしていることがある。その米兵一人が死ななくとも、ドイツの無条件降伏は不可避だった。なにしろヒトラーが自決するまで、あと20日だったのだ。

そのような局面で、米兵の死はあまりにも無益な死であるとも言える。が、戦争とは、しょせんすべてが無益な死の集積なのだろう。キャパの一枚は、その冷徹な事実を見事に訴えている。

かつて、ワーテルローの会戦(1815年)でウェリントン将軍は、からくもナポレオンを撃破して英雄となった(後に英国首相にもなった)。会戦直後に、凄惨な戦場をつぶさに視察しながら吐き捨てた言葉が有名である。「戦争に勝者も敗者もない。みんな負けるんだ」。

キャパが、「最後の一人」にこめた思いは、誰にも分からない。あの写真が与えるさまざまな解釈や受け止め方に、キャパは興味があったのだろうか。おそらく(勝手な想像だが)、彼はただ、戦争を撮りたかっただけなのだ。事実をフィルムに収めたかっただけなのだ。

あるプロの従軍カメラマンから話を聞いたことがある。なぜ戦場へ行くのか。中には人道主義者や平和主義者もいるだろうが、ほとんどはその最大の動機が、世界をあっと言わせるような1ショットを撮りたい、その一心にある。とにかく、世界に自分の名を轟(とどろ)かせたいという、野心だという。そうだろう。でなければ、尋常の神経ではつとまらない。

彼が言うには、戦場に立てば当然怖いという。体中に震えがくるそうだ。ところが、いったんファインダーを覗くと、どういうわけかその恐怖心が消える。撮らなければという思いが猛然と湧き上がるというよりは、ほとんど機械的にシャッターを押しまくるらしい。その間、自分に弾が当たるなどとは考えもしないのだそうだ。不思議な仕事である。

強烈な1ショット、それだけを彼らは欲している。キャパも生前、自分が撮った写真をアートだとは思っていなかった。なぜなら、アートは時間とは無縁の世界だからだ。アートは無限、永遠の世界である。しかし、キャパは、その瞬間にこだわった。

日本で、戦争カメラマンとして有名なのは、沢田教一だろう。青森出身の沢田は、UPIの支局員となって、香港を根城にインドシナ戦線に赴いた。上司は「不必要なチャンスに賭けるな」と、日ごろから口をすっぱくして諭していたようだが、けっきょく沢田は1970年10月28日に、カンボジアの国道2号線でクメール・ルージュ(カンボジアの赤いクメール)に狙撃され死んだ。享年34。

沢田の写真では、銃弾の中、河を渡って逃げてくる母親と子供たちを撮った「安全への逃避」が、ピュリッツァー賞を取った。しかし、私はアメリカ軍のM113装甲兵員輸送車が、ベトコンの死体を引きずっている写真「泥まみれの死」に何より衝撃を受けた。沢田に、ベトナム反戦のイデオロギーがあったかといえば、否である。しゃにむに、ライカで最高の1ショットに迫ったのだ。

戦場カメラマン。これほど人間の矛盾で成り立っている仕事も珍しい。恐らく、戦争という極限の世界の一断面を、写真という技術によって切り取ってくるためには、ヒューマニズムや平和主義といったイデオロギーは邪魔なのだ。理屈ではそう思っていても、現実に銃弾や砲弾が飛び交う中に身を置くには、もっと原始的な本能、もっと直接的なエゴがなければ、「最高の1ショット」はきっと撮れない。

1960年代後半から1970年代にかけて、インドシナ半島で行なわれた戦争に日本は直接参戦をしていない。にも関わらず、従軍記者の死者数はアメリカに次いで2番目に多かった。なぜだろうか。それには時代背景というものもありそうだ。

最前線の戦場に赴く場合、新聞社の社員である記者やカメラマンが赴くことは少ない。死亡したときなどに発生する費用や社会的リスク(批判)を会社が負担しなければならないからだ。その点、フリーランスで活動している記者やカメラマンたちは、メディアの依頼で危険地域に取材に出ることが多い。その分、死ぬリスクも高くなる。安定した収入が保証されているわけでもなく、死んだときの保険もないから、一段と1ショットに賭ける意気込みは違ってくる。こういう従軍記者やカメラマンを、「ストリンガー」と呼ぶ。

日本のストリンガーで有名なのは佐賀出身の一ノ瀬泰造だろうか。やはりインドシナ戦線に赴いたが、戦火はベトナムからカンボジアに飛び火。クメールルージュの支配下にあったアンコールワットが、一体戦火でどうなってしまっているのか、世界中の注目を浴びていたころだ。そこで一ノ瀬は、単独でのアンコールワット潜入を試みた。1973年11月のことだ。友人宛ての手紙には、後に有名になった言葉が書かれていた。「うまく地雷を踏んだらサヨウナラ!」。一之瀬はそのまま、消息を絶った。

9年後の1982年、一ノ瀬が棲(ひそ)んでいたシュムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部で遺体が発見された。生き残っていた村人の話では、クメールルージュに捕らえられ、しばらく村で軟禁状態となっていたらしい。昼間は比較的自由だったようだが、夜は鎖でつながれていた。自分の分身ともいえるニコンのカメラを奪われたことに猛抗議し、それが反抗的だということで、けっきょく11月22日か23日に処刑された。享年26。

当時の日本は学園紛争が終り、反戦運動も下火になった「シラケ」の時代に入りつつあった。そのような時代の流れに我慢がならなかった一ノ瀬は、少数派の道を選んだ。

ヒューマニズムのためにカメラマンになったのではない。どの時代にでもいるある種の若者と同じように、爆発しそうなエネルギーの燃焼を、ただインドシナに求めただけなのだ。死の直前、母親に宛てた手紙には、「アンコールワットが撮れなくてもいい」と書き残しているようだから、なにか彼の心の中に、それまでと違った微妙な変化が生まれていたのかもしれない。

一ノ瀬が撮ったアンコールワットの1ショットは、果たしてあったのか、なかったのか。その事実は永遠に歴史の中に謎として埋もれてしまった。そして、志半ばで逝った若者の多くと同じように、彼は伝説となった。その生きざまに憧れる若者たちの神にもなった。彼がそれを望んでいたかどうかは、誰も知らない。



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