言葉から魂が消える。

歴史・戦史

これは55回目。「今どきの若い連中は・・・」。この言葉は、おそらく人間が言葉を持って以来、ずっと言われ続けてきた言葉でしょう。私も同じことを言われた。父親も間違いなく、若い頃に同じ言葉をその親から投げつけられたはず。ずっとそうだっんでしょう。今に始まった話ではありませんね。

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この「今どきの若い連中は」というのは、実に使い古された言葉だが、しかし、と思う。それでも、今の若い人たちは、「かつての若い人たち」と明らかに違う。宇宙人といったら非難の集中砲火を浴びそうだが、そんなイメージすら覚える。それくらい、かつて「今の若いものは」と言われた内容と、あまりにも次元が違うような気がするのだ。

その一番大きな違いというのは、世界の経済成長を一度も経験していないという不幸だ。すべてはそれが原因だとは言わないが、やはりこの経済的停滞が20年以上続いているというダメージは無視できないだろう。十年一昔というが、その2倍の時間、日本は明るい明日を予感することがない日々が続いたのだ。

時代が閉塞感に包まれていただけに、彼らがこの「箱庭」の中で、「盆栽」のように要領よく、できるだけ無駄をせず効率的に、私的な幸福感だけに満足しているのだとしたら、もったいない話だ。彼らをそういうスタンスに追い込んでいるほとんどの責任は、それ以前の世代が負っているはずだ。私たちは、彼らの世代に一体何を用意してきただろうか。不甲斐ないのは、自分たちかもしれない。

小さなことなのだが、気になることを書いてみる。本当に、活字をまともに読む人が少なくなっているという事実だ。読んだあとに書くということもなくなっている。まずは本の扱い方だ。とにかく本を綺麗に扱い、読了した段階でも、買いたてのようにしか見えない。このような人が結構多い。ましてや、電子書籍の普及で、本そのものが不要になろうとしている。両方とも活字なんだから同じじゃないか、と思うかもしれないが、違うのだ。

学生時代から、本は私にとってノートの一種だった。感に打たれた箇所、覚えておきたい箇所、考えさせられた箇所、そこに惜しげもなく赤線や書き込みをする。だから、すぐにまた「あれ、なんだったかな?」と思っても、本を手にとれば、すぐにその場所にたどり着く。面白いことに、自分の意見や疑問を、ずっとあとになってふと見直してみたとき、ぷっと笑ってしまうことも結構あるのだ。ちょっと以前の自分がいかに幼稚だったか、一目瞭然だ。結果、その本はボロボロになる。それで、かえって愛着がわく。

人それぞれだから、なんとも言えないし、昔から本を綺麗に扱う人たちはいくらでもいただろう。しかし、本から何かを得たいと思うなら、この方法が一番いいと思っている。行間を読めとよく言うが、私に言わせれば、自分が行間を埋めるのだ。私はそれが、「思考を練り上げる」ことだ、と思っている。このやり方は教えてもらったわけではないが、若いころ、自分の周囲には、そうした本の読み方をしている人が多かった。本に直接書き込まず、別にノートをつくって、そこに抜き書きしていったような人も知っている。あるいは、昔はみなよく日記をつけていたものだ。読んだ本のこともそこで書かれる。いずれにしろ、「書く」という作業が、「読む」という作業とセットになっていた。

かつて高校時代に、林尹夫(はやしこれお)の『我がいのち月明に燃ゆ』を読んだ。旧制高校(三高)から京都帝大にすすみ、第2次大戦中に学徒出陣で出征した戦没学徒の遺稿集だ。長年書き続けた日記である。レーニンの『国家と革命』などの本は発禁であったから、読んでは破って便所に捨てたり、飲み込んでいたりしていたようだ。林は文学部で西洋史専門だったから、理系より「優先的」に徴用されたのだろう。

海軍航空隊に入り、昭和20年7月28日夜半(終戦まであと19日だった)、レーダーを装備した一式陸上攻撃機を駆って四国沖に夜間哨戒任務についていた。米軍からは、「ワンショットライター」と呼ばれたほど、弾丸一発食らえば炎上するという脆弱な戦闘機である。米機動部隊の索敵に成功したが、午前2時20分、林中尉は撃墜され戦死した。くだんの本(日記)は戦死の2週間前まで書き綴られたものだ。

とにかく、林の読書量と筆力には、驚愕させられた。旧制高校時代から、英仏独語の本を原書で読破しているのだ。辞書を片手にまさに読み破ったという感がある。日記の中には、外国語で書いた部分すらある。戦時下、極端に制約された時間と環境の中で、これほどの知的欲求を爆発させた例は、ほかに知らない。大学の恩師は、あまりの優秀さに舌を巻いたというが、そんな人間が23年の生涯で文字通り燃え尽きた。これを思い出すたびに、怠惰な日々を過ごす自分がなんともいたたまれなかった。

今、ネットの普及によって、本までが電子化されつつある。ますます、この読む、書く、という作業はなくなっていくだろう。これは若い人たちのせいではない。しかし、若い人たちが失っていくものは、伝達技術の進歩によって得たものと同じくらい大きい。後の世代をこんな結果を導くために、私たちはこの世界を先代から引き継いだのだろうか。言葉がただの伝達機能としてのみ残るのだとしたら、そんな言葉のどこが美しいと感じられるだろうか。読み破り、書き殴る作業を経ていない言葉に、魂など宿らないとかたくなに信じているのだが、いささか古い人間だろうか。



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