学問はギャンブルだ~アフリカに散った明治人

歴史・戦史


これは82回目。野口英世のことです。とてもではありませんが、野口は子供向けの偉人伝に描かれているような聖人君子でもなんでもありません。どころか、逆といってもいいでしょう。だからこそ、偉大な業績を残したとも言えます。聖人などに、病原体と血みどろの死闘を演じることなどできやしないからです。

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よく知られているように、野口英世は福島・猪苗代の生まれ。明治9年1876年。済生学舎(現在の日本医科大学)を経て、ペンシルベニア大医学部、ロックフェラー医学研究所を転戦。

アメリカでは、NYの酒場で意気投合したロックフェラー医学研究所のメアリ・ロレッタ・ダージスと結婚している。メアリが求婚したらしい。

梅毒や黄熱病の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度も名前が挙がったが、これがメアリの献身的な支援ゆえであることは間違いない。最後は、黄熱病の研究中に自身が罹患。1928年5月21日、アフリカはガーナのアクラで死んだ。享年51歳。メアリとの間には、子供はなかった。メアリは、最後まで野口夫人として過ごし、終戦二年後に病没している。

その研究方法というものは、膨大な実験を繰り返すことから得られるデータを重視した実践派だ。考えうるあらゆる実験パターンをすべて完璧に遂行し、しかもその作業スピードは驚異的なピッチであり、しかも正確だった。

この、まさに腕力で病原体に迫ろうとする気迫は、当時の米国医学界でも驚異を以て見られていたようだ。本人も気にしていたようで、「自分のような古いスタイルの研究者は、いらなくなる時代がもうすぐ来るだろう。」と同僚に語っていたという。

最初の研究となったガラガラ蛇の毒は、蛇毒によって起こる溶血性変化を究明。後の、血清の基礎研究に道を開く。続く梅毒スピロヘータでは、原体を発見。

さらにツエツエ蝿(バエ)によって媒介されて発症するぺルー疣(ゆう、いぼ)を研究。オロヤ熱がこれと同一の病原体であることは、ペルーの医学生カリオンがすでに仮説を立てていたが、米ハーバード大学では否定されていた。野口は南米エクアドルに飛び、猿の実験によってカリオン報告を証明。ハーバード大学と大論争の末、これを撃破した。

しかし、数でいえば、失敗のほうが多い。急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病発現体、黄熱病病原体などの発見や特定化の業績は、その後、ウィルスが病原体であることが判明しており、現在は否定されている。

不運だったとも言われる。すでに野口が研究に没頭していた細菌の世界は、コッホやパストゥールといった、天才たちが乱獲し、あらかた渉猟されつくしていたのだ。時代は細菌研究から、当時まだ存在しなかった電子顕微鏡でなければ発見できないウィルスの世界へと移り変わろうとしていたのだ。

野口は、とにかく自己顕示欲が強く、女色に溺れ、借りた金(渡航費)、それも大金を、横浜の遊郭で使い果たすなど、この種の逸話は枚挙に暇がない。しかも、女に使ってしまったので、渡航費用をまた工面してくれと無心する。・・・要するに、修身や教科書に載るような模範的人物ではない、ということだ。

その野口が、梅毒スピロヘータの研究に異論や批判が出て、名誉失墜がかかったと感じ、黄熱病の発生が報告されたアフリカへ飛んだ。名誉挽回を期した一戦である。

(下は、ゴールドコーストへハシケで上陸する野口。船尾から3人目の帽子を被った白いジャケットが野口)


1927年秋、アクラに着くや、500-600匹の猿を入手、彼独特の大掛かりな実験が始まった。ところが翌年元旦から嘔吐と悪寒を訴えはじめてしまった。これは数日で治癒した。黄疸を起こし、黒い血を吐いて死ぬ黄熱病は、一度治癒すると免疫化する。彼は自身に黄熱病の免疫ができたと信じた。

1月9日には、再びベッドから起きて、研究に没頭した。そして3月9日深夜、ついに、野口は黄熱病の病原体を発見した。と、信じた。かつて、梅毒スピロヘータを脳内から発見したときと同じように、ちょうどアクラ研究所に来ていたヤング所長をたたき起こし、狂喜した。

野口はその菌を培養し、NYでさらに研究を続けようと準備したが、5月10日から、再び倒れた。今度は明らかに黄熱病であった。見舞いに来たヤングに、「どうも僕にはわからない」と言い、これが最後の言葉になった。

一度かかったはずの黄熱病に、どうして二度かかったのか、わからないという意味だったようだ。後で判明したことだが、健康な猿と、黄熱病に罹患した猿の名札をアフリカの少年がつけ間違えるようなミスがあったらしい。野口は、けっきょく20日意識不明となり、21日正午ごろ、絶命した。

ヤングは、その日のうちに、野口の遺体を解剖し、まさしく黄熱病であったことが確認された。そのヤングも、27日に、黄熱病の症状を起こし、29日に死亡した。昭和3年のことだ。

野口が発見したと信じた黄熱病の病原体は、実際ただの細菌だった。真の病原体は、やはり当時は特定できるはずもないウィルスだったのだ。野口の焦りが、結果的に悲劇を呼び起こしてしまったようだ。

しかし、どんなにその研究の多くに、勘違いや思い込み、誤断や失敗があっても、野口の医学おける業績は、輝きを失うことはない。学者として、誰もが脱帽する偉業であったことを、誰も否定しないだろう。

人類と細菌との戦いの歴史の最後のページを飾ったのが野口英世だったのだ。「学問は一種のギャンブルだ」と言い切り、「偉ぐなるのが敵討(がたきう)ちだ。」と口癖のように言っていた野口は、左手が不自由というハンディを乗り越え、不屈の闘志で細菌(と彼が信じたもの)と戦い続けた。

今から90年ほど前、アフリカに散った一人の明治人の最期は、医学者として歴史に燦然と輝く壮烈な名誉の戦死だった。

ひたすら前だけを向いて歩き続ける。そして目の前に立ちはだかる敵を、自身が倒れるまで倒し続ける。効率性ではなく、勘と問答無用の立証によって力づくで結果に迫ろうとする。粗削りで単細胞な、しかし後悔する暇もない、なりふり構わぬ生き様、死にざまは、ときにわたしたちの心を深く揺り動かす。

・・・人間はいつか滅ぼされるかもしれない。しかし、決して負けはしないんだ。(ヘミングウェー『老人と海』)・・・



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