この愚か者めが!

歴史・戦史


これは104回目。こんな言葉があります。「経済こそが重要なのだ。この愚か者めが!」原文はこうです。「It’s the economy, stupid!」1992年、大統領選挙戦中のビル・クリントン候補陣営で、選挙参謀がつくりだした、大変有名な、歴史的なといってもいいくらいの標語の傑作です。

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当時、ジョージ・ブッシュ(父親のほう)大統領は、前年1991年3月に第一次湾岸戦争を始めており、その勝利によって、世論調査では米国人の90%がブッシュ政権を支持した。

ところが、その一方で景気は後退していたのだ。翌年の8月には、逆に64%の米国人が支持しないという世論調査になっていたのである。アキレス腱は言うまでもなく景気後退だった。

クリントン陣営では、勝利を背景にしたブッシュ政権の圧倒的な人気を相手に、とても大統領選は戦えないと考えた。そこで、ブッシュ政権がまったくなおざりにしていた、内政、とくに経済政策に論点を集約しようとしたのである。

この作戦は図に当たった。「経済こそが重要なのだ。この愚か者めが!」というスローガンは、アメリカ中に溢れ、クリントン候補は圧勝し、その後2期にわたり、戦後にあっては1950年代以来という、アメリカ独走の「黄金時代」を実現することになる。(黄金の90年代である)

実際には、その種はすでにそれ以前から芽生えていたのだ。インターネットの勃興である。1986年に軍の独占的な情報通信システムだったインターネットが、民間に開放されていた。同時に誕生(上場が86年。創設年ではない。)したのが、マイクロソフトだった。

90年代初め、わたしは香港にいたが、奉職していた証券会社のNYアメリカ支店から、ハイテク・アナリスト(インド系)を招いて、台湾やフィリピンの個人投資家の間をつれて歩き、伸び盛りのまだ若いアメリカのインターネット銘柄を買うように一生懸命勧めたのだ。下手な英語や中国語で、なんとか通訳したのだ。台湾はそこへいくと、年配者はみなわたしより下手をすると日本語がうまかったので助かった。

といっても、かくいうわたしはまったくインターネットというものがわからなかった。当初は、「マイクロソフトはOSというソフトウェアをつくっている会社で・・・」と、ボブ・グランディ(そのアナリストである)に説明されても、「なんだい、そのソフトウェアって? タッパウェアみたいなものか?」とマジ顔で聴いて、呆れられたくらいである。無理もない。誰もその世界を見たことがなかったからだ。

クリントン政権下で、その後マイクロソフトはウィンドウズ95を発表し、アメリカは一気に景気後退から成長軌道へと独走態勢に入っていった。銀行の窓口業務を行っていたそれまでのスタイルは、ATMにとって代わり、さらにそれがネットでの決済へと急速に移行し始めた。この分のコスト削減は、実に1000分の1という驚異的な効果だった。

同じものをつくれば、絶対に日本品のほうが安いという時代が、音を立てて崩れていったのだ。94-95年には、当時日本市場を席巻していたNECの98シリーズのパソコンの半値で、コンパックやデルがパソコンを売り出した。日本人は、目が点になった。一体、なにが起こっているのか、わからなかったのだ。

当時もっともその恩恵を最初に受けたのは米金融業界だったが、次第に病院、学校、一般企業、物流部門へとどんどん普及していくにつれて、アメリカの筋力はかつてないほどの強化されていったのである。

日本は90年の暴落ショックからまだ醒めやらぬころだったが、まだ幾分かはバブルの残照がここかしこに見られ、日本人の多くが、日本はすでにアメリカを追い抜いた、という確信は揺らいではいなかった時分だ。

それが、だんだん93年ごろから、それまでついぞ聞いたこともない「不良債権」という言葉に困惑し、住専問題を皮切りに確信が揺らぎ始め、95年には年初から阪神大震災が発生。サリン事件も起こるなど、日本中になんともいえない、その後の恐ろしいほど長く続く、暗いデフレ経済への予兆となっていった。そこに、日本品の半値の、「アメリカ製」のパソコンという黒船が襲来してきたのだ。

96-97年には、第一次銀行恐慌が発生し、日本はもはやアメリカの背中が見えなくなる。そのくらい、アメリカはターボチャージャーをフル稼働させたように、わたしたちの眼前を疾走していった。

この頃には、わたしは東京本社に帰任していたが(株式本部外国株式部)、支店の営業から頼まれて、日本中を行脚してアメリカのインターネット関連銘柄への投資を勧めたが、社内ですらそれに理解を示してくれた人は、ほとんどいなかった。

わたしが、「そのうち、パソコンではなくて、携帯でインターネットができるようになって、どこからでも自分の家のあらゆる機能をコントロールできるようになるんですよ。」と言っても、まったく現実感が無かったのである。それはそうだろう、携帯電話などまだ日本人の間では普及していたとは言えない状況だったのだ。それどころか、パソコンをやっている人間すら、少数派だったのだ。わかるわけもない。

先の96-97年の銀行恐慌の際には、全支店への一斉ファックスで「日本株をすべて売れ。アメリカ株を買え。インターネットがわからなければ、ディズニーでも何でもいいからアメリカを買え。」と檄を飛ばしたところ、役員会議から「反逆罪」に問われ、お白州のゴザに座らされて、吊るしあげられた。

それはそうだろう。証券会社は、債券や株の発行体である日本企業がお客さんであり、相場が下がるとわかっていながら、これらを個人投資家に押し込んでいたわけで、それをわたしが全部売れなどといったら、反逆罪である。

実際、クビ寸前だったが、幸いなことに全支店の営業マンたちが、連名で夥しいファックスを本社に送り付けて弁護・支援してくれた。おかげで、クビがつながった。今でこそ、笑い話だが、当時は実際冷や汗ものだったのだ。人間というのは、結局みんなに助けられているということを、つくづく痛感したのはこのときだ。亡父もよく言っていた。「自分一人でえらくなったと勘違いするな。お前がえらいんじゃない。周りがお前を押し上げたのだ。」それは、まだわたしが二十代のころに、毎日のように彼が言い続けた言葉でもあった。

やっと、謹慎蟄居の身を解放された98年初頭には、すでに日本人には、アメリカの背中どころか、アメリカがどこにいるのかさえ見えなくなっていた。アジア通貨危機による暴落である。米国株は史上最高値更新であった。

あの黄金の90年代を生んだクリントン政権は、民主党である。したがって、本来、社会保障など国内に厚い予算を構築しがちで、財政赤字が膨らむのが常だった。それがアメリカ経済をともすると疲弊させる結果となることが多かった。

しかし、クリントンは違った。無能なのか、作為なのか、およそ民主党らしからぬ政権だった。彼は、実際、モニカ・ルインスキーと大統領執務室でよろしくやっていただけで、大統領としての仕事はほとんど「なにもしなかった」のである。まるで、共和党のおかぶを奪ったような「自由放任主義」そのものの政権だったのである。

それもそのはず、政治の力ではなく、すでに民間の経済力が、先述のインターネットを中心に、どんどん成長を始めていたのである。米国政府は、なにもする必要が無かったのだ。80年代初頭のレーガン政権時代に行われた規制緩和の絶大な効果が、それを現実のものにしていたのだ。インターネットは、その象徴的な「事件」だったのである。

経済というものは、そういうものだ。政治は非常に重要だが、一番重要な点は、「邪魔をしない」ということなのだ。このクリントン政権時代、アメリカは後にも先にも珍しい、単年度ベースでは財政黒字の状態へと復活していたのである。三つ子の赤字で塗炭の苦しみに喘いでいたはずのアメリカは、成長を取り戻し、あっという間に歴史上稀な「単年度黒字」を実現したのだ。

しかし、アメリカが黒字ということは、要するにアメリカに言わば「たかって」食っている日本など諸外国は、すべて赤字ということである。アメリカ一人勝ちだったということだ。それほど、アメリカがダントツの強国へとのし上がったのが、この黄金の90年代だったのだ。

今、安倍政権は、歴史的に日本社会や経済の足かせとなっていた、さまざまな「邪魔(既得権益や、あるいは「前例」という名の思考停止状態)」を排除しようとしているが、動かないのは頑迷な官僚であり、企業経営者たちであり、国民そのものだ。

日本国内では、まだ旧態依然とした価値観でしか物事が動かないのに業を煮やした安倍政権は、発足と同時に黒田日銀総裁を起用して、前代未聞の非伝統的金融政策を断行したものの、行政ではさまざまな既得権者や、アナクロニズムの官僚という大きな壁をいまだに破壊できずにいる。規制緩和一つ、牛の歩みである。

財務官僚は、二言目には「財政規律が重要だ」「財政健全化を優先すべきだ」といって、安倍政権がやろうとするさまざまな「投資」が必要なプロジェクトを潰そうとする。学界や野党も、そして無知蒙昧なメディアも、口をそろえて国の借金増大反対と大合唱である。

彼らの口癖は、財政赤字拡大は将来国民にそのツケを回すことになる、という理屈だ。なんと古い発想だろうか。そうではない。財政規律を重んじて、金を使うべきところを使わず、増税で財政健全化する試みは、この四半世紀ことごとく失敗してきたではないか。その失敗を、まったく無かったかのように「財政は健全化すべきだ」という主張は、ほとんど議論としてはめちゃくちゃといっていい。

そもそも、事実ではない。「嘘」といってもいい。国民経済計算に依れば、2015年末で国の総資産は1325兆円。これに対して、総負債は1262兆円。差し引き純資産は63兆円である。次世代に負の資産を残していくということも、ツケを回しているということも、すべてでたらめである。

確かに負債の額は大きい。しかし、伝統的なそうした発想ではなく、成長を誘発することを優先して、まず利益を拡大することが先決なのだ。そうすれば、自然税収も増える。資産効果も出てくる。シムズ理論ではないが、インフレ期待で借金を事実上棒引きにしてしまおう、といっているのだ。

そんなことは、誇大妄想であり、できない、と反対論者は口から泡を飛ばす。しかし、90年代の無為無策のクリントン政権にさえできたことが、そして2008年のサブプライム暴落から、いち早く抜け出したバーナンキ連銀議長の非伝統的金融政策にできたことが、なぜ日本にできないのか。

すると、彼らは、「アメリカと日本は違う」などとまったく議論にもならない論点に話をすりかえるのだ。

彼らは、それをしたくないのである。したくない最大の理由は、「先例がないから」であり(つまり自信がないからであり)、もう一つは既得権益が崩されることが多いからにほかならない。

規制緩和するだけで、とんでもない経済効果が表れることは明らかなのに、それを嫌がる。なぜなら、規制緩和によって、既得権益を失うものがでてくるからである。彼ら自身がそうだからだ。

こういう理屈に負けそうになると、彼らは異口同音に言うのは、「そんなことをして赤字増大を許していたら、国債が暴落するじゃないか。」と、これまた普段市場などまったく見てもいない素人の分際で、市場の心配をして見せる。浅はかというしかない。

では、聞く。実に彼らが「天文学的な規模の債務」という赤字状態になっている日本経済にもかかわらず、なぜ、一度も破綻せずに、国民生活は苦しいとはいえ、曲がりなりにも恐慌状態に陥ることなく、四半世紀も正常な国家・経済運営を維持できたのか。

「国債が暴落する」と彼らが言い続けて四半世紀である。この間、ただの一度も暴落するどころか、国債がゼロ金利、いやマイナス金利になるまで買われ続けてきた事実をどう説明するのか。四半世紀で、国債価格は50%以上も上昇しているのである。どこで暴落したというのだ。こういった事実に、「財政健全化至上主義者」たちは、納得のいく説明をしするべきである。その説明ができないのなら(財政健全化主義にはできるはずがない。矛盾だからだ。)、彼らの言うことは、すべてでたらめである。

彼らの言うことが正しければ、四半世紀である。とっくに日本国債は暴落していよさそうなものだが、一度も無いではないか。むしろ買われ続けたのだ。それをどう、説明するのか。さもなければ、彼らの言う「財政は健全化しなければ、国家が破綻する」という理屈には、納得できない。まったく歴史も無視しており、そもそも現実味がないからだ。

どうだ、何も言えまい。ではこちらから言ってやろう。日本は、経常収支では黒字国である。それも世界有数の黒字国なのだ。しかも債権国である。外貨準備は世界第二位である。

その結果、国債(国の借金)の消化は、94%が国内人によってあがなわれている。よその国ではその国債は、海外勢の買いで「持っているようなもの」だから、売り出されれば確かに暴落の危険性はあるが、日本では売る者がいないのである。

日本は完全な変動相場制の下で、このように強固な対外バランスを保っており、国内金融政策の自由度は非常に大きい。さらにハイパーインフレになるような懸念は、ゼロに等しい。

ちなみに、この文章は、2002年、当時の財務官・黒田東彦氏(現在の日銀総裁)が書いたものだ。海外格付け機関に対して、財務省として発した主張の一文である。つまり、日本国家の公式な見解なのだ。だから、財務省内にはびこる頑迷な財政健全化至上主義の不満分子たちは、まずこの黒田総裁に面と向かって反論してみよ。できっこないであろうが。

財務省官僚は、執拗に、「日本は1000兆円の借金がある」と恐怖感を国民やメディアに植え付けることに汲々とし、ひたすら増税によって財政健全化の必要を説く。しかし、けっして彼らは、その反対側に、日本国が保有する、負債を上回る総資産のことには一言も触れない(先に書いた通りだ)。

ましてや、日銀が460兆円に及ぶ日本国債の最大保有者であるということにも言及しない。実際に問題になるのは、おそらく特別国債の分、300-400兆円くらいのものであろう。実質、心配しなければならないのは、この分だけだということを、絶対に彼らは言わない。

しかも対外債権純資産は349兆円もある。世界最大の債権国なのである。この資産は、次世代に受け継がれていくのに、そのことも一言も触れない。欺瞞と言わずして、何と言おう。

財政というものが、企業のバランスシートと同じく、負債があれば、必ずそれに見合う資産があること、そして日本国は債務超過に陥っているわけでもなく、また陥る危険性があるわけでもないことを、財務官僚は口が裂けても言わないのだ。借金による国の破綻という恐怖感を植え付け、そのためには増税が必要だと思い込ませるためである。その口車に乗って、メディアや学者たちは「1000兆円の深刻な借金」などと喧伝して歩く。学者やメディアというのは、一体財務省の回し者であろうか。口だけ番長の左翼野党などは論外である。

彼らは、自分の財務管理の世界だけを考えており、生きたダイナミックな経済をまったく見ようとしていないのだ。一般の企業を見てみよ。財務管理にばかりご執心の企業で、生き残ったものがいくつあると思うのか。利益を生むことのほうが先決だということは、馬鹿でもわかる話だ。利益あっての財務なのだ。

しかも、銀行は平成の30年間というもの、破綻を免れるために100兆円の公的資金を注入してもらったはずだ。国民の血税である。その上、本来では国民が得べかりし預金利子は、ゼロにまで強いられ、長年我慢してきた。おまけに消費税の相次ぐ増税である。

すべては銀行を救うはずのためだった。それがいまやどうだ? 銀行など大手企業は総額400兆円という史上最高の現金保有にまで至っている。この30年間、我慢に我慢を強いられてきた国民にこの中から還元されたのはいくらだと思うか。賃金増加に当てられたのは、たったの4兆円にすぎない。冗談だろう? 

財務より、経済政策が圧倒的な優先課題なのだという常識が、彼らにはわからないのである。ということで、冒頭の歴史的なクリントン政権の標語をちょっと変えて、わからずやの人たちににそのまま投げかけよう。

成長こそが重要なのだ、この愚か者め!



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