東京人などいない

文学・芸術

これは51回目。よく地方出身者が「東京の人間は・・・」と言うのを聞きます。たいてい、あまり良くない評価を口にするときです。さて、東京人とは?

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よく「東京の人間は・・・」と言う。100%地方出身者が使う言葉だ。皮肉や批判、揶揄(やゆ)がこめられた内容を言う場合に、この「東京の人間は・・・」という言葉が使われる。そこでいう東京の人間というのは、誰のことを指しているのだろう、とそのたびに疑問に思う。東京の人口のいまやほとんどを占めているのは、地方出身者とその家族だ。

昔から東京で生まれ育った、いわゆる伝統的な東京人というものがあるとしたら、とどのつまりは江戸っ子ということになるのだろう。だが、彼らはおよそ現在は少数派であり、まったく目立たない。地方出身者でかためられた大東京の人々が、「東京の人間は・・・」と眉をしかめて言うとき、本物の江戸っ子はそれを聞いても、実際自分のことだとは思っていないはずだ。

そういう意味で、東京は東京であっても、東京ではない。大阪は、大阪だろう。福岡も、福岡だろう。地の文化というのものが、そこに住む大多数の人々の間に根付いている。しかし、東京は、ほとんどそれが失われた世界なのだ。地方にくらべたらはるかに不幸で、惨めなほど本来の姿を失った世界なのだ。だから、東京人などという、伝統的な地の文化は、ほとんど根絶やしにされている。

下町のお祭りにいくと、まだその少数派の江戸っ子というものが、いる。面白いもので、飲み物、食べ物に関して、素材の良さをことさら愛でる性格がある。「この料理はおいしいね」ではない。「この水は、うまい」。「いいお茶だわ」。「この醤油、いい味出してるねえ」。「この塩は、甘みがあって味わい深い」「この蕎麦はコシがあってうまいねえ」。このへんに、江戸っ子の素材への異常なほどのこだわりが見え隠れする。徳川幕藩体制以降、長い歴史の間、この町は基本的には軍都であった。だから関西の諸都市と違い、地元の料理ということでは、これといった十八番がない。それだけに江戸っ子は素材に執着するのかもしれない。

江戸しぐさ、というものもある。もともと江戸は、歩行者は左側通行だった。侍の時代、刀を腰にさすが、たいていは右利きだから鞘は左に飛び出す。右側を歩行したら、侍同士、刀の鞘が接触し、悶着の種になる。だから、逆に左側を歩くようになった。道の狭い江戸市中ならではの智恵、だった。

こんなものはもはや残っていないことだが、いまだに残る江戸しぐさというのは、雨の日のすれ違いざまの「傘かしげ」。相手に足を踏まれても「いや、申し訳ない」とこちらから謝ってみせる「うかつあやまり」。これなどは、その場の雰囲気や身の安全を維持するための智恵だが、おなじような発想のものに、たとえば敢えて借りをつくる、というのもある。満座の席で振る舞いたい人がいたら顔を立て、敢えてその人に借りをつくるのだ。意地になって、いや私は自分の分は払います、などというのは無粋というもの。あとで借りを返す機会をくれたと思って感謝しろ、だから借りは受けろという智恵である。

「七三の道」は、自分が歩く幅は道の3分にとどめ、残りは緊急事態のために残して歩け、というもの。「逆らいしぐさ」は、主に年長者に対して、「しかし」とか「でも」とか、口答えしないというもの。「手刀」もそうだ。人前を横切るときに、「すみません」といいながら、手刀を切る。今、こうした江戸しぐさをまともに守っている人が、どれだけ東京人の中にいるだろうか。その意味で、本来の東京人などというものは、もはや化石に近い。

できるだけ衝突を避けて、円滑な人間関係を維持しようとするのだ。人口密度が高く、世界的にもロンドンとならんで最大の百万都市であった江戸ならではの智恵だ。下町の古い人間には、わずかにこうした智恵が残っているところはある。が、それは例外的だ。

かくいう私は、横浜の出身である。地方に行ってどこの出身かと聞かれると、昔は律儀に横浜です、と答えていたが、地方によっては、東京と横浜の違いがけっこう不分明だったりすることがあった。面倒くさいので、以来、東京です、ということにしている。

横浜の人間はケン高く、すましているということもよく聞いた。おそらくこれも当たっていない。ハイカラでおしゃれな町というイメージからきているのだろうが、私のように横浜で生まれ育った人間には、そんな気負いはない。

横浜がいまのようなハイカラでおしゃれな町になったのは、90年代以降のことだ。それまで横浜駅などといったら、東京に比べて発展が遅れ、有楽町のガード下のようなうらぶれた風情が、あたりに充満しているようなところだった。

桜木町など、いまでこそ「港みらい」などといってお洒落なデートスポットになっているが、当時は国鉄の引込み線があり、馬車道から関内、元町にいたるまで、なんとも斜陽の雰囲気が漂う落ちぶれた町という風情だった。物騒ですらあり、それは京浜急行の日の出町、黄金町あたりまで広がっていた。

東京にくらべて、横浜の発展の遅れの甚だしさに嫌気がさしたものだった。ところが、ここ十数年の変貌ぶりを見るにつけ、「これは横浜ではない」とむしろ奇妙な抵抗感すら覚える。横浜人であることに対する高い自意識など、毛頭ない。東京とおなじく、横浜もいまや圧倒的に地方出身者で占められている。かつての横浜は影をひそめ、生粋の横浜人などというものは、どこにいるのかわからないような状態だ。

東京人にしろ、横浜人にしろ、もとからの土着の人というのは、自分の町を意外に知らないものだ。東京のどこそこにおいしいレストランがある。横浜のどこそこには、こんなお洒落なものを売っている。そういうことを驚くほど詳しく知っているのは、得てして地方出身者であり、彼らこそ東京や横浜という町の凄さというものを最大限に活用している人たちだろう。六本木ヒルズが出来たといって殺到したのは、まず県外ナンバーの車であり、東京ナンバーがぽつぽつと訪れるようになったのは、ずっと後になってからという事実もある。

私が子供のころ、銀座にはまだ路面電車が走っていた。鉄路のサビで、路面はセピア色に染まっていた。その私も、八重洲口駅前から数寄屋橋まで、いわゆる外濠の運河が、ずっと続いていた風景を知らない。水の都、東京は私が生まれたときにはなくなっていた。果たして今の東京は、かつての江戸のDNAを受け継いでいるのだろうか。

東京でも、当時の名残が見られるのは、川沿いの、たいていは橋のたもとにある公衆トイレくらいのものだろうか。その多くは江戸時代から、そこに公衆トイレがあった場所である。歴史がいまだに息づいた、実は貴重な場所だといえる。文字通り「かわや」なのだ。そんなことを知っている東京人も、今は残り少ないはずだ。ボックスに入って、ふと200年前も誰かがここで用をたしたのか、と思うと思わず笑いがこみあげる。

いまや東京や横浜は、新しい流入者たちがつくりあげている大都会になった。個々の出身地の文化が整合性なく混在して、やがて新しい文化性が生まれる。それでいいのだ。慨嘆したところで、かつての東京や横浜が戻ってくるわけでもなく、戻っていいものでもない。新しい人たちによって、新しい時代が開かれるのだから。

 



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