カルタゴが遺したもの

歴史・戦史

これは391回目。

紀元前146年、地中海でも(ということは、当時にあっては世界的にも)トップに数えられた富裕な国家、カルタゴが滅亡しました。昔話ではありません。「歴史に学ぶ」とはこういうことなのでしょう。とくにわたしたち日本人が。

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小数が多数を包囲して勝利する戦争は、歴史的にも非常に稀なケースだ。しかし、どの国の陸軍士官学校でも必ず学んでいる「カンネの戦い(紀元前216年8月2日)」は、最も完成度の高い、“芸術品”とさえ呼ばれる。少数が多数を完全包囲した包囲殲滅戦だったからだ。ハンニバル率いるカルタゴ傭兵軍が、1.6倍もの兵力のローマ正規軍を壊滅させたのである。

ハンニバル・バルカ(バルカは電光石火の意味)は、第二ポエニ戦争で、カルタゴ(現在のチュニジア)のローマ遠征軍を率いていた。世に名高い、アルプス超えだ。ハンニバルは、現在のスペインからフランス(当時はガリアと呼んだ)を経由し、意表を突いてアルプスの冬山を登攀。イタリア北部になだれ込んだ。ローマは、カルタゴ軍の遠征を知っていたが、アルプス・ルートで来ることは予期していなかった。

カルタゴは、商業貿易国家である。それまで地中海の制海権を牛耳り、その富を謳歌していた。国民はまったく軍事には無関心で、将校を除けば、軍団構成員はすべて傭兵によってまかなわれていた。しかし、着々とローマは打倒カルタゴを画策していた。第一次ポエニ戦争で、カルタゴ打倒に失敗したローマは、執拗に機会をうかがっていた。平和ボケしたカルタゴ市民は、この情勢のたどり着く先について、とんと興味を示さなかった。

カルタゴの将軍、ハンニバルはローマの動きを憂慮・警戒し、先手を打って第二ポエニ戦争を起こした。先制攻撃を行なったのだ。まず、ハンニバルはアルプス超えの後、迎撃してきたローマ軍をトレビアで、さらにトラシメヌス河畔で撃破。さらに、ローマを孤立させるために、イタリア南部へ侵攻して、諸都市国家のローマ離反を促進した。

このハンニバルの快進撃に恐れをなしたローマは、総力戦に打って出た。カンネでハンニバルとの決戦に及んだのである。この戦いには、400人の元老院議員のうち80人が参加しており、そのほとんどが死亡するという大惨事に発展する。

カンネでは、ハンニバルのカルタゴ傭兵軍が、数的には圧倒的に劣勢であった。しかし、騎兵に関しては、逆にハンニバルが数的に優勢だったのである。ハンニバルは、その唯一の優位点を最大限に活用した。

ハンニバルが考案した作戦は、まず中央に弱体なガリア歩兵を弓なりに突出するように配置。中央に張り出した半円形の布陣である。その両翼に、カルタゴ歩兵を配置して押さえにしたのだ。右翼には優秀なヌミビア騎兵、左翼にはスペイン・カルタゴ騎兵を配置した。

ローマ軍も、基本的には中央に重装歩兵の密集体形を築き、両翼を騎兵で固めた。ポイントは、中央だった。ハンニバルのガリア歩兵が突出しているために、ローマ軍は、この敵の中央に集中して攻撃を加えることとなった。一番の激戦が予想される中央部分を、それも弱いガリア歩兵でかためて、意図的に突出させたのはハンニバルの罠だった。

中央で歩兵同士の激突が始まるや、次第に弱兵のガリア歩兵はローマの重装歩兵に押され、潰されていく。それを両脇のカルタゴ歩兵(この左側をハンニバル自身が指揮)が、ガリア歩兵の横や後ろから支えて時間を稼ぐ。

この間、左翼のスペイン・カルタゴ騎兵が、ローマ軍の右翼騎兵を蹴散らし、ローマ軍の背後を大回りして、敵左翼騎兵の背後に回った。ローマの左翼騎兵は、カルタゴ軍の右翼・ヌミビア騎兵と、背後に回りこんできたスペイン・カルタゴ騎兵によって前後に挟まれ、陣形は崩壊。ローマ騎兵は、敗走する。

ハンニバルの騎兵軍団は、散開してローマの重装歩兵を彼らの左翼、背後から旋回包囲した。これを契機に、それまで押しつぶされる寸前だったガリア・カルタゴの歩兵は、一転して反攻に転じる。あとは、騎兵が敗走したことで丸裸になったローマ兵が次第に包囲され、行き場を失う。圧死するものも続出する中で、徹底的に殺戮(さつりく)されるという、完全な包囲殲滅戦へと展開していった。

カルタゴ軍総数5万、ローマ軍総数8万だったが、このうち騎兵ではカルタゴ軍の1万に対して、ローマ軍は6000でしかなかった。結局、カルタゴ軍の死傷者は5700。ローマ軍の死傷者は6万。そして、1万ものローマ兵が捕虜となった。完膚なきまでに叩きのめされたローマは、滅亡の危機に立たされたが、持久戦で耐えた。

ハンニバルは、ここで一気にローマに侵攻すべきだったが、すでに遠征で多大な損耗(そんもう)を被っており、ローマの同盟諸都市の切り崩しを強化するという方針転換をした。ローマ侵攻は思いとどまったのだ。

部下からは、「あなたは戦いに勝利できるが、それを活用することができない」と批判されたが、この批判は正しかった。最初の博打に勝ったのだ。妙に現実的にならず、思い切ってローマ侵攻という最後の博打を打つべきだった。

ローマの同盟諸都市の切り崩しは、思ったほど成功しなかった。そうこうしているうちに補給が絶たれ、本国との連絡もままならぬ中、カルタゴ遠征軍は消耗していった。

この間、兵力を増強しなおしたローマは、直接、北アフリカへの侵攻を試みた。狼狽したカルタゴ本国は、ただちにハンニバルを召還したが、急遽寄せ集めた傭兵軍団では、ローマ正規軍に歯が立たなかった。「ザマの決戦」でハンニバルは破れ、カルタゴは降伏する。

その後、ハンニバルはカルタゴの改革に着手。成果を上げつつあったが、内通者の謀略によりローマから追及され、身の危険を覚えてカルタゴを脱出する。しかし、追っ手は執拗にハンニバルを探し求めた。最後は黒海沿岸のビティニア王国で、毒を仰いで死んだとされる。眼帯をつけた隻眼(せきがん)の名将の最期は孤独だった。

ハンニバルが憂慮していた、ローマのカルタゴ敵視は後に証明されることになる。その後、ローマは真綿で首を絞めるようにカルタゴを追い詰め、第三次ポエニ戦争に発展。全市民が虐殺、あるいは奴隷にされた。二度と再興できないよう、市内はすべて破壊された上に大量の塩をまかれた。こうしてカルタゴは滅亡し、ローマの時代に幕が開いた。

商業利権のみに狂奔し、国防と軍事に無関心だったカルタゴ人は、汚れ役をすべて傭兵に依存した。もちろん、カルタゴ滅亡の理由はそれだけではない。複雑な要因がいくつも折り重なってはいた。が、国防に対するあまりにも無頓着な認識が致命的になったことは間違いない。

富でほとんどのものが買えた。しかし、富では買えないものもあることを、最後までカルタゴ人は気づかなかったのだ。

「いや、古代と現代では違う。戦争などそう簡単に起こらないし、起こしてはならない」という声が聞こえてきそうだ。

事実とデータで話をしよう。紀元前15世紀以来、3500年もの間に、記録上戦争が無かったとされるのは、わずか200年でしかない。

戦後70年に限って言えば、国連加盟193カ国のうち10か国前後しかないようだ。アジアにあっては、日本とブータンだけだとも言う。

この日本というたぐいまれな奇蹟的な非戦国家という現実を、日本と日本人自身の手で築き上げてきたのだというのであれば、わたしも納得しよう。事実はそうではない。日本と日本人の貢献度は、ゼロである。平和憲法の効力もゼロである。

ただそこに、世界最強の軍隊、それも最強の第七艦隊がずっと居座ってきたという事実だけが、この国に理想主義の増上慢と、現実無視の空論、そして無責任さを延々と許してきたのだ。

そういう皮肉というものに、日本人もいい加減羞恥心を覚えないのだろうか。腐ったら、やはりただの腐った鯛でしかないのだろうか。



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