世紀の落書き

歴史・戦史

これは390回目。

二つの話です。まず一つ目。いまから388年前、命がけの旅路(巡礼)を貫き、アンコールワットに落書きをしてきた男がいます。旧松浦藩士の森本一房です。

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落書きというのは、やはりいただけない。

欧州や日本のように、歴史的な文化遺産が多いところでは、建造物などにいたずら半分で落書きをする事件が後を絶たない。

とくに日本では、どこぞの国々(たいていは二つの国だが)からやってきて、わざわざ悪意に満ちた落書きをしていくので、厄介だ。

いずれにせよ、落書きというのはよくない。

が、命がけの落書きというものも、あるのだ。

森本一房は生年不詳。今では、アンコール・ワットの仏教寺院遺跡に落書(らくしょ)を遺した人物として知られる。

ご存知アンコール・ワットは、カンボジアで12世紀前半に建立されたヒンドゥー教寺院だ。敷地面積は東京ドーム15個分という。後に、仏教寺院に成り代わったが、すでに当時のカンボジア(安南)では王朝衰退しており、アンコール・ワットも廃墟と化していた。

人工池に取り囲まれ、現在でもカンボジアでは最大の名跡であり、観光客も多い。

江戸時代初期のこの武士が遺した落書は、南北の十字回廊の交わる入り口近くの右側の柱に記されている。墨書である。

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寛永九年正月初而此所来

生国日本/肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫/一房

御堂心為千里之海上渡

一念/之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為

其仏像四躰立奉者也

〈寛永九年正月初めてここに来る/生国は日本/肥州の住人 藤原朝臣森本右近太夫一房/御堂を志し数千里の海上を渡り/一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために/ここに仏四体を奉るものなり〉

摂州津池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母亡魂明信大姉為後世是
書物也

(父・儀太夫の現世の長寿と、亡母の供養のために、これを記す)

寛永九年正月丗日
・・・

この落書きを残した侍・森本一房は、旧松浦藩士。彼がアンコール・ワットを訪れたのは1632年。この時期は徳川幕藩体制がようやく整いだした段階で、まだ鎖国は始まっていなかった。

当時、カンボジアは「南天竺」と呼ばれ、仏教の聖地「祇園精舎」があると信じられていた。とんだ誤解であったが、それで良いのだ。インドではとうに仏教は消滅しており、小乗仏教が残っていたのは東南アジアだけだったのだから。

森本一房の父・一久(儀太夫)は、加藤清正を支えた十六将の一人で、朝鮮出兵にも参加しており、勇名を馳せ、秀吉から賞賛された経緯の持ち主だ。

次男の一房は、加藤家を辞して肥前・松浦藩に仕えていた。主君清正が死し、混乱する家臣団に嫌気がさして肥前国の松浦氏に仕えたらしい。

松浦氏は領内に平戸を持ち、国際的な貿易港だったこともあり、一房もまた朱印船に乗ることができたと推測されるようだ。

熱心な仏教徒だった一房は、一念発起したのかカンボジアを目指した。誤解とはいえ、「聖地巡礼」である。今と違い、羅針盤もなかった日本の朱印船である。一か八かの命がけの壮挙だ。

万感の思いを込めて記した墨書は、当世の落書きとは到底意味も重みも違う。

一房は無事日本へ帰国するが、直後に始まる「鎖国」政策の一環として、日本人の東南アジア方面との往来も禁止された。

それもあってか、幸いにも巡礼から帰還することができた後には、名を変え、安南への巡礼のことも隠し、歴史からフェイドアウトしていった。

帰国後、松浦藩を辞した一房は、父の生誕地である京都の山崎に転居したことが判明している。

1674年に京都で亡くなっており、父とともに京都・乗願寺に墓がある。

落書きといえば落書きだが、それは命がけの巡礼の先に記した、得度(とくど)の証(あかし)にほかならなかった。

388年前、そんな日本人がいたのである。

もう一つ書く。
これは命がけどころか、実際、命を落とした一青年のことです。死の間際に渾身の思いで記した、血書。掲題の画像は、この現場となった、「ブル女子刑務所」の往時の姿だ。

もしかしたら、以前この青年のことは、ここに書いたかもしれない。が、何度書いても十分だとは思えない。

第二次大戦末期、インドネシアは日本軍の軍政下にあった。宗主国オランダは駆逐されていた。

日本は軍政の方針として、インドネシアを独立の方向に誘導はしたものの、独立をさせるとは言わなかった・

当初、統治にあたった第十六軍司令官今村均中将は「独立とは、自ら戦い、勝ち取るものだ」と言っている。自分たちの手で掴みとらない限り、真の独立にはならない。インドネシアのためにもならない。

そこで独立を望む若者たちを集めて兵補とし、銃器の扱い方をはじめ、具体的な戦術論も教えた。その若者たちが中心となって、祖国防衛義勇軍(PETA)が結成される。インドネシア独立の初代大統領スカルノやハッタらは、みなPETAの出身だ。

3年後、昭和20年、日本は連合国に降伏。日本の軍政府は、スカルノらを呼び、海軍司令部から全国に向けて放送を発信、「インドネシア独立宣言」に踏み切った。

それに対して、再占領すべくオランダ勢が、英軍の援助の下、インドネシアに復帰してきた。

PETAの若者たちは、旧日本軍将兵に武器の譲渡を求めた。しかしポツダム宣言受諾により、武器は連合軍に引渡し、インドネシアに渡すことは厳禁とされていた。 旧日本軍将兵は教え子たちと板挟みとなり、苦悩する。

インドネシアの青年たちは、3年間の日本軍政のもとでの訓練で、十分に戦闘能力を備えていた。しかし、肝心の武器が無いのである。うかうかしていると、英蘭連合軍が上陸してきてしまう。そうなっては万事休すだ。

そして、事件が起こった。 インドネシア各地で、武器を渡せと迫るインドネシア人たちと、連合軍に無条件降伏をし、武器のインドネシア人への引き渡しを禁じられていた日本軍と、あちこちで小競り合いや、乱闘騒ぎ、そして戦闘状態が発生したのだ。俗に、「5日戦争」と呼ばれている。

両者の衝突によって、各地で多くの死傷者が出ている。

最大の事件に発展したのがスマランで、インドネシア人たちが暴走し、日本人の軍人だけでなく、軍属や一般人をも拉致して監禁、人質と引き換えに武器を得ようとした。

この事件は今でも詳細がはっきりしていない。一説には、スマラン(華僑人口が最も多い街だった)の共産主義系華僑が、日本への報復的行為として暴動と化していったとも言う。他の地域の日本人死者に比べて、スマラン事件は圧倒的に多かったので、その可能性はやはり高いだろう。

10月16日夕刻、スマランの日本憲兵隊は「市内のブル女子刑務所に、多数の日本人が連行・監禁され危険な状態に置かれている」との情報がもたらされた。連行途中に、危険を察した日本人の一部が逃亡し、憲兵隊に通報したのである。

憲兵隊40人が、単独で救出に向かった。

17時。ブル刑務所に突入。しかしすでに、監房内は血の海だった。すでに殺戮が行われており、多くの日本人が鉄格子ごしに機関銃で撃たれ、庭に引き出されて竹槍で突き殺されていた。

監禁された400人の日本人のうち130人が殺害されていた。 それは3番目の監房であったという。部屋の中の日本人全員が倒れ伏し、床は靴がすべるほど血が流れていた。ほかの監房にはオランダ人を始めとして900人が閉じ込められていたが、彼らは無事救出された。明らかに日本人を標的としており、インドネシア人というより、華僑系(共産系)の暴挙の可能性のほうが高いというのはこの点でも言えることだ。(独立後、スカルノ政権は全土で華僑系の共産主義者の大粛清を行っている。デヴィ夫人は言うまでもなくスカルノの第3夫人)

そのコンクリートの壁には日本語が血書で記されていた。

・・・・・・バハギヤ ムルデカ インドネシア(インドネシア独立を祝す)独立 喜び死す 日本人万才 大君・・・

力尽きたのか、そこで終わっていた。死体の山の中で、一人の日本人青年の指が朱に染まっており、おそらく自らの血で記したのだろうと推察された。

駆けつけたオンソネゴロ省知事と市民病院長たちは蒼白になった。現場に立ち会った日本人から、「あなたたちの敵は日本人ですか? もう一度植民地にしようと、近く上陸してくる者こそ、本当の敵ではないのですか?」 と言われ、彼らは刑務所を出るとすぐに、ラジオで民衆に呼びかけた。

「日本軍と、これ以上戦ってはならない」。

ジャカルタのスカルノたち首脳部にもこの血書のことが伝わり、全国に「日本人を殺すな。彼らは敵ではない。」と繰り返し発信され、「5日戦争」は急速に終息に向かう。

現地の日本軍駐屯部隊には、意図的に武器をインドネシア人たちに貸与するところが続出した。連合軍から、「連合軍が進駐するまでの間は、日本軍はそのまま武器を保持して、治安維持に努めよ」という命令が出ており、現地の日本軍はこれを「拡大解釈」し、「信頼できる」インドネシア人組織に武器を横流しし始めたのである。

中には、日本への復員のため、港に向かう途中、わざと後をつけてくるインドネシア軍に、それとわかるように武器弾薬をまとめて放置していくような部隊もあった。

それどころか、2,000人前後の日本兵が残留して、インドネシア独立戦争を戦っている。実数は不明である。戦死が多いからだ。一説には5000人という見方もあるが、そこまでは多くなかったのではないだろうか。

実際、日本に帰りたくても帰れない事情の者も多かったろうし、美談ばかりとも言えない。インドネシア政府の記録上では、残留日本兵は903人である。

ブル刑務所で、死の間際に血書を遺したのは、阿部頌二という27歳だと判明した。早稲田卒業後、弘前第8師団入隊したが、まもなく除隊。

森永乳業に入社し、ジャワ・スマトラの森永農園の勤務となっていた。

森永農園の勤務もつかの間、終戦。日本が全面降伏して2カ月後スマトラでは現地民の暴動が続き、頌二も捕らえられブル刑務所に拉致された。

そして10月15日の運命の日。興奮した民衆が刑務所を襲撃し、件のとおり、収容されていた日本人に向けて機関銃を乱射し、無差別殺戮となった。

頌二は、終戦まで軍から毎日受けていた宣伝工作費を有効に利用し、現地民が切望していた保母の養成所や幼稚園、小中学校、病院、回教寺院などを建てていた。

指揮していた1万人余のインドネシア労働者に、朝夕、会合などで「バハギヤ・ムルデカ・インドネシア」を唱和させ、インドネシアの独立を強く願っていたので、現地民の人望は強かった。

ブル女子刑務所は今でもある。しかし、聞くところによれば、血書はペンキで塗られて、もう無いという。

近年、インドネシア残留をした日本軍将兵の最後の一人が亡くなった。・・・



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