独眼竜、最後の賭け

歴史・戦史

これは、376回目。スペインには、Japon姓もしくは、Xapon姓の人がいます。ハポンと読みます。スペイン語で「日本」の意味です。17世期、支倉常長による慶長遣欧施設がローマへの途上、スペインに上陸し、日本に帰らず南西部セビリア近辺に留まり、永住したキリシタンの日本人や、使節の現地人水夫、あるいはその支援者の子孫たちであると伝えられているようです。

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現在でも、セビリアから15kmのところには、830人ほどのハポン姓のスペイン人がいるらしい。現地のエストレージャ教会に残る洗礼台帳によると、1667年に、ファン・マルティン・ハポンという人物が一番古いハポン姓を持つ人物であるとされている。

この場所は、コリア・デル・リオという町なのだが、もちろんコリア(英語の韓国名とはまったく無縁である)市には、往路・復路、両方で、支倉一行が9ヶ月以上滞在している。一行の任務の最後の地点である。スペイン国王から主君・伊達政宗への親書が届くのを待ち続けていた場所だ。

しかし、一向に親書が届かない。この時点で、日本を発って3年が経過している。一行が、メキシコ(当時はスペイン植民地)を経由して、スペインに渡ったのだが、一説には24名。あるいは30名とも言われているが、正確な人数は不明である。セビリアのインディアス総文書館にある資料では、ローマから帰国前にここに立ち寄った際に、使節の滞在に28名分のベッドを用意したと記録されている。

このことから、第一陣で帰国した人数や、一年後に支倉とともに帰国した人数など、さまざまな要素を割り引いていって、どうも6名から8名が帰国しなかった、あるいは死亡した(今泉令史はローマで死亡している)、ことになるらしい。

実際、マドリッドで支倉と一緒に洗礼を受けたドン・トーマス・フェリペ(日本名は不明)が、国王に日本へ戻る許可と証書を要請している資料が現地に残されている。この要請は1622年であるから、支倉が帰国してから5年後であり、通算ではこの人物は8年もスペインにいたことになる。

しかもこの人物が、実際に日本に帰国したかどうかは不明である。すでに日本では過酷なキリシタン弾圧が行われており、カトリック教会から日本のこの情報は聞いていたことだろう。帰国せずに、スペインに留まったと考えるのが自然だ。

あるハポン姓の女性は、自分の子供について、モンゴル斑(はん)が出ていたと証言している。もともとスペイン人は混血の人種である。ケルト、フェニキア、ローマ、西ゴート、モロ(アフリカ系アラブ)などと徹底的に混じりあってきた歴史がある。しかし、歴史上、モンゴロイドと混交した事はない。蒙古の大侵略時代でも、その支配はイベリア半島にまでは及んでいない。おまけに、このコリア市には面白い風習がある。稲作をするときに、日本と同じように苗床をつくるのだそうだ。DNA鑑定のため、住民600人ほどの血液採取が行われたと報道があった。昨年10月ごろだったと思うが、その後、結果が発表となっていないが、どうなっただろうか。

もともと、この慶長遣欧使節団というのは、仙台藩主であった伊達政宗が、仙台領内でのキリスト教布教を許す代わりに、ノバ・エスパーニャ(メキシコ)との直接貿易を求め、エスパーニャ(スペイン)国王及び、ローマ教皇のもとに派遣したものだ。慶長18年1613年のことだ。しかし、一体なぜこの時期だったのか。

このころの日本はどういう政治地図になっていただろうか。1603年には、関が原合戦を制した徳川家康がすでに幕府を開いていた。征夷大将軍就任である。しかし、大阪には厳然として、主家である豊臣政権(豊臣秀頼・淀君)が存在していた。天下が最終的にどちらに傾くのか、まだ混沌とした戦国末期である。1633年の鎖国令までは時間があったにせよ、政宗のこの行動は、さまざまな憶測を呼んでいる。一体、たんなる伊達藩とスペインの直接貿易を開く為だけのことだったのか。

一説には、それは表向の話だという見方もある。大器でありながら、戦国末期という、あまりにも遅すぎたその登場に、伊達政宗自身が自分の運命を呪ったとも言う。甲子園の高校野球になぞらえれば、とうに地区予選大会が終わり、準決勝も終わり、東西の決勝戦に突入するという段階である。

乱世が終息していこうとするその最後の瞬間に、政宗は乾坤一擲の勝負に出ようとしたのではないか、というのだ。その仮説は、発足したばかりの徳川幕府(もはや家康は高齢で、寿命的にも先が短かった)にあっては、有力者と結んで、その内部から突き崩しを行ない、内部分裂を誘う。一方、海外とはスペインと結び、その海軍力の支援を得て、大阪の豊臣方と連携しながら、東西から徳川政権を武力で打倒する。天下取り最後のレースに、このように壮大な大番狂わせを引き起こそうとしたのではないか、というのだ。あわよくば、幕府を開くか、少なくとも天下三分の計で最終レースに、強引に入り込もうとした計略があったのではないか、と民間の研究者の間では仮説されている。

一見、荒唐無稽な仮説だが、でたらめとも言い切れない状況というものが実はここにある。これまで「NOTE」で書いてきた歴史の「裏読み」と違い、なかなか決定的な証拠がない。あくまで推論に基づく仮説でしかないが、ひとつお話として読んでいただこう。戦国が終わろうとしていた土壇場で、まさにその天下を天秤にかけた独眼竜・伊達政宗、最後の賭けである。

ワイルドカードというのは、トランプなどで、どんな種類のカードにも代用が可能なものを意味します。ジョーカーがよくこれに使われるが、個々のカードを具体的にワイルドカードだと指定すれば良い。

実は、伊達政宗が戦国末期に最後の賭けをしたのだとすれば、そのワイルドカードになったのが大久保長安(本名は、大蔵長安)という、特異な人物である。まず、この男のことを書かなければならない。やがて、伊達政宗と一見まるで関係がないかのような何人かの人物が、実は伏線でつながってくる。大久保長安というワイルドカードをめくると、なんとその裏には、真田幸村という切り札が出てくるのだ。マージャンで言えば、「裏ドラ」といってもよい。

長安は1545年、武田信玄お抱えの猿楽師(現在の能楽・金春流)の一家の次男として生まれた。もともと播磨の国の生まれというが、一説には南蛮人(スペイン、ポルトガル)とも言われる。一家が甲斐に流れてきたところ、信玄の目にとまり、若い頃から頭脳明晰であったため信玄にその才能を見いだされ家臣(代官衆)となり、税務や司法、さらに甲斐一の金山である黒川金山の開発など、数々の業務に携わることになった。おそらく、(後の業績を考えれば)信玄の人材登用の中でも、外様・真田氏の起用以上の大抜擢だったといえる。

この大蔵(後、大久保)長安は、年齢的には、信玄の近習であった真田昌幸(後の幸村の父)と2つ違いである。昌幸も、信玄をして「我が両の眼」と言わしめたほどの逸材である。昌幸は幼少期より、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさき)で小姓として育ち、ずっと信玄そば近くに詰めていることが多かった。もともとは真田は征服地・信州の豪族だけに、人質として甲府に引き取られていたのだが、信玄の覚えめでたく、徹底的にしこまれた。第四次川中島合戦でも、一時は崩壊寸前であった武田本陣にあって、旗本として信玄を支えている。

基本的には内務官僚であったから、長安と業務上も重複あるいは、関係することが多く、かなり当時から親しかったはずだ。この二人は、信玄の直接教育によって純粋培養された、いわば、「武田学校」の同窓生だったといってよい。この真田と長安が、後年、伊達政宗の不可解な挙動に深くかかわってくる。

奇縁というべきか、信玄亡き後、後継の武田勝頼は、父親時代以上に甲斐の版図を拡大し、織田信長の心胆を寒からせることになるが、利あらず長篠合戦(設楽ヶ原合戦)で大敗する。このとき、真田昌幸は兄二人、長安も兄一人が戦陣で散っている。このため、昌幸は、家督を継ぎ、真田家当主として、所領の信州・上州などの差配と、甲府での内務官僚と、掛け持ちとなり多忙を極めていくことになる。

七年後、信長の甲州攻めで武田家は滅亡。昌幸は、その直前、勝頼を信州に引き取り、そこで上杉を後ろ盾に、徹底抗戦を主張。いったんは勝頼もこれを了承する。昌幸は先行して信州に下って篭城の準備に入った。この昌幸のプランは、大言壮語とも言えない。実際、後年、上田のような平城でさえ、徳川の強兵を一度ならず二度までも、返り討ちにしている。

一度目は、1585年に5倍の三河兵を撃破。1600年には関が原に向かう10倍の徳川秀忠別動隊を大混乱に陥れ、挙句の果てには、ほぼ1ヵ月釘付けにした。徳川秀忠は関が原合戦に間に合わず、家康から叱責される羽目になった。東軍の三分の一を、足止めしたのだから驚異的である。圧倒的優位に立った西軍が関が原で勝てなかったほうが、不思議なくらいである。昌幸にしても、開いた口がふさがらなかったろう。

しかしまだこの頃は、内務官僚としては武田家にあって大黒柱になっていたものの、合戦となると未知数の段階だった。特段の手柄もない。そのためか、甲斐国内の譜代・小山田氏が、その要害に篭城することを勝頼に進める。けっきょくこれが罠であり、小山田による裏切りに遭い、勝頼は天目山まで逃亡するが、そこで力尽き自害。

結果論だが、真田昌幸との取り決め通りに信州へ落ちていたら、難攻不落の要塞化を完了させていた岩櫃(いわびつ)城に篭城したはずであるから、後年の平城の上田城どころではない。織田勢は手も足も出なかっただろう。しかも、わずか3ヶ月後には本能寺の変で信長は死んでいることからすると、昌幸にしてみれば、切歯扼腕したことだろう。

この後は、昌幸は権謀術数を駆使して、本能寺の変を経て、大混乱する戦国後半戦を小大名として乗り切っていくことになる。武田領内において、主家滅亡後に独立して存在し続けたのは、裏切った木曽氏を別とすれば、この真田氏だけである。このとき次男の幸村は8歳であるから、大久保長安とはそう関係はなかったろうが、躑躅ヶ崎でお互い見知っていた可能性は十分にある。

かくして、武田家は滅亡する。甲府にいた大久保長安は、織田勢による武田の残党狩りが酸鼻を極めたため、逃亡・潜伏。一方、徳川家康は信長の同盟軍であり、信長から残党狩りの要請を受けていたにもかかわらずこれを無視。むしろ反対に、裏で逃亡中の武田の遺臣たちを根こそぎ匿って、家臣団に組み入れていた。武田の精鋭・赤備え(具足をすべて朱色で統一した武田の中核部隊。)に倣い、井伊直政のもとに武田遺臣を糾合して、赤備えを復活させ、徳川軍にあっては「井伊の赤鬼」と恐れられる精強部隊を作り上げたのもこのときだ。

いったい長安が、どういう経路で徳川方に飛び込むことになったか不明である。しかし、重臣の一人大久保忠隣(おおくぼただちか)に重用され、たちまち荒廃した甲斐の復興に成果を見せ始める。この功績で、それまでの大蔵姓から、大久保姓になり、忠隣の与力として、家康から最大限の支援を受け、実力を発揮していくことになる。

武田家から江戸幕府に引き継がれたものは、金貨「甲州金」の貨幣制度だけではない。人材、兵法、軍事制度、そして鉱山開発のノウハウも引き継がれている。そのほとんどすべての武田のノウハウを徳川に移植したのが、この大久保長安であった。堤防復旧、新田開発そして金山開発と大車輪の活躍をみせ、数年で甲斐を再建させたといわれている。戦国時代というと、どうしても合戦のほうに眼がいってしまうが、けっきょくこの裏方(地方、じがた)が大名の実力の本源であることを考えると、長安は相当の逸材であったということが言えそうだ。

この後、時代は信長亡き後、一気に天下統一に向かって急ピッチで頁がめくられていく。豊臣政権では、真田氏は北条氏滅亡の直接的なきっかけとなる「名胡桃城事件」を引き起こす。諸説あるが、秀吉と真田氏との間で、北条討伐のための謀議がなされた可能性はきわめて高い。北条に挙兵させるための罠である。この結果、秀吉は東国まで制することで、事実上天下統一を成し遂げることになる。唯一、去就が定まらなかった伊達政宗も、ついに秀吉の北条征伐に際して膝を屈し、その代わり本領安堵を得ている。

ちなみに、真田幸村は、秀吉の人質として大阪城に在住していたが、その器量に秀吉が惚れ込み、大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を娶っている。この大谷吉継も、実は出自がはっきりしない。実はこの人物、母親が秀吉の正室・ねねの侍女であることが近年判明しているので、秀吉の「お手つき」で生まれた隠し子であった可能性が急浮上してきている。とすると、真田幸村は、その縁者ということになるわけで、豊臣との因縁は一気に深まったと言える。

一方大久保長安は、秀吉の天下となった後、家康が関東に移った際には「関東代官頭」として徳川直轄領の事務を担当。江戸を守るための要衝であった八王子において、またもや武田家遺臣による「八王子千人同心」を結成するなど、現在の八王子市の基礎も長安がつくっている。名目は江戸城を、西国からの侵攻に対して、最初の防波堤ということだが、事実上の「私兵軍団」といっていい。

武田の遺臣たちだけではない。長安は、武田滅亡の際、辛くも甲府を脱出して生き延びた信玄の五女・松姫を庇護。八王子に草庵を設けて、陰に陽に生涯、支援し続けた。八王子千人同心たちの心の支えにもなったのが、この松姫であったことは言うまでもない。ちなみにこの松姫は、横死した兄弟の3人の娘を育てながら、寺子屋で地元民の教育に携わったが、生活費用を自ら捻出するために養蚕を起こしている。この八王子の養蚕、絹生産が興隆して、後年、明治序盤に日本の唯一の外資獲得製品として花開く。現在の横浜線は、八王子の絹を横浜に搬出する大動脈として敷設された経緯がある。

さて話は戻るが、1600年に関ケ原の戦いで家康が勝利すると、豊臣家が支配していた佐渡金山・生野銀山などは徳川直轄領となり、長安は「甲斐奉行」「石見奉行」など数々の役職を兼任。鉱山についての豊富な知識と経験をいかし、これまで湧き水に苦しめられることの多かった縦堀から、排水が容易な横堀に変えて効率アップに成功している。1603年には、さらに「佐渡奉行」「所務奉行(勘定奉行)」に任ぜられ、同時に「年寄(老中)」にまで登りつめた。まさに異例の大出世である。

彼の活躍は全国の鉱山統括にとどまらない。日本橋を起点とした東海道・中山道などの交通網の整備や一里塚の建設まで取り仕切っている。家康による全国統一事業は、武田家が培ってきたノウハウとそれをいかす長安という人物がいたからこそ成し得たといえる。

石高に換算すると、その資産120万石に相当すると言われた大久保長安は、最盛期には、今でいえば、財務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、文部科学大臣のすべてを兼任していたのと同じである。

長安の私財は膨大なものとなった。これは、当初から家康との取り決めで、鉱山採掘による利益を四分六分となっていたためだ。四分が長安の懐に入る。もちろん、開発のコスト、人件費や設備費その他、一切合財が長安持ちである。リスクを取る代わりに、報償も大きいということなのだが、おそらく家康も肝を潰すほどの大成功だったに違いない。巷では、「天下の総代官」とさえ呼ばれた。

このように、武田遺臣から身を起こした大久保長安は、それだけであればまだ話が簡単であったろうが、さらに驚くべきことに縁戚関係によって、諸大名ととんでもない人脈を構築していたのである。石川康長、池田輝政などから、7人の息子の嫁を迎えている。逆に娘の一人は、服部家に嫁いでいる。服部半蔵の一族は、ご存知徳川幕府の秘密警察である。伊賀者、いわば公安といってもいい。ふと気がつくと、徳川幕府の屋台骨は、大久保長安によって、ほぼ牛耳られていたといっても過言ではない。

きわめつけは、(家康の指示で)家康の六男・松平忠輝の付家老になっていたのだ。ここで、たんなる利殖にとどまらず、「権力」というものの影が見え隠れするようになってくる。長々と、大久保長安の経歴を、真田のそれとかぶらせながら解説してきたが、ようやくお待ちかね、そこで伊達政宗の登場である。なんとこの長安が支える忠輝の正室に、伊達政宗の長女、五郎八姫(いろはひめ)が嫁いだのである。この両家の取り持ちの交渉にあたったのは、言うまでもなく大久保長安である。

これで、島津(豊臣恩顧、関が原では徳川に敵対)、前田(同じく)に次ぐ東北の大藩・伊達家が、徳川家と縁戚になったわけだ。家康としては、豊臣恩顧の大藩二つが最も巨大な脅威であっただけに、東国に強力な支持者が欲しかったのは言うまでもないだろう。ところが、相手が悪かった。伊達政宗である。ただ者ではない。扱いを間違えると、徳川幕府が一気に崩壊しかねない、危ない選択肢であった。

もしこの伊達家という強大な武力と、徳川幕府内部で経済・産業・交通のすべてを握っている大久保長安(しかも私兵を保有する)とが、つながったのだとしたら。しかも、伏線には、徳川家最後の攻略目標である大阪の豊臣家が残っているのだ。ここには、真田という切り札が潜んでいる。

時代は、ここでいきなりキナ臭くなってくる。関が原以来、10年以上にわたって、珍しく合戦のない時代が続いた。とうに、人心は戦国が終わったかのような錯覚も支配していただろう。しかし、話はそう簡単ではなかった。真の天下泰平となる前に、もう一度、天下分け目の合戦が近づいていた。

伊達政宗が、派手好みだったことは有名だ。秀吉時代、朝鮮出兵に際して畿内入りした際には、将兵の軍装が余りにも絢爛豪華だったため、都人や難波人の度肝を抜いたとされている。そのことから、「伊達者(派手好み)」という言葉が生まれたそうだ。

さてその伊達政宗が、ついに徳川家と縁戚になった。家康六男・松平忠輝に、長女・五郎八(いろはひめ)を輿入れ(こしいれ)させたのである。ところが、家康にしてみれば、伊達家を一門に組み入れることで、磐石にしたつもりが、逆に母屋を乗っ取られるリスクを感じはじめた。

松平忠輝という人物は、後世の記録ではことごとく悪者扱いだが、およそそうした徳川方の記録というものは、しょせん幕政の正当化に使われているので、信憑性は低い。家康次男の結城秀康も、大変な器量人だったようだが、家康にことごとく嫌われた。同じようにこの忠輝も嫌われた。

両者ともに、相貌が醜悪であるという表現が、記録では第一義に挙げられている。しかし、実際には両者とも剛毅であり、実に器量人であった傍証が随所に残されている。悪者扱いは捏造された話であろう。優秀なものほど、後継者・家光を守るためには、かえって邪魔になってくる場合がある。その典型であろう。

問題は、この人物、キリシタンであった可能性があるということだ。すくなくとも、正室の五郎八姫は、敬虔なキリシタンであった。忠輝もキリシタンには理解を示していたことは間違いない。また岳父・政宗と同様に南蛮貿易に関心を抱いていたとしても不思議ではない。家康によって、伊達政宗のバックアップをしてもらったことで、徳川幕府を中核で支えるという信任を得たわけであるから、その野望はにわかに膨張しても当然であろう。

とくに、この二人に大久保長安が加わると、一段とこの流れが加速する。なぜなら、五郎八姫が忠輝に嫁した1606年というのは(長安、62歳)、次第に鉱山からの算出が減少していった時期に当たる。鉱山開発からの上がりに代わるものを、長安が渇望していたとしても不思議ではない。

しかし、非常に微妙な問題であるこの南蛮貿易を推進するには、それなりの権威と武力的な存在感が必要だ。長安にとっては、忠輝・五郎八姫の婚姻は願ってもないその大チャンスだったに違いない。実際、この後、産出量が激減していくにつれて、長安は要職を次第に解かれ始める。そこに焦りが無かったとはいえまい。

ちょうど、世は大阪の陣にむかって、一直線に硝煙の匂いが立ち始めるころだ。東西両軍ともに、キリシタンや南蛮貿易と密接にコンタクトし、軍事力強化に動き始めている。伊達政宗は、この機に家康から了承を得て、スペイン・ローマ本国、いわゆる「奥南蛮」との直接交易に乗り出し、支倉遣欧使節団を出発させるのである。日本中まだ、だれもこの奥南蛮との直接交易は試みたことがない。いずれも、日本や近隣の出先機関との交易にとどまっていた。

家康は、本来ならこれで幼少の家光に政権を譲っても、伊達を取り込めば一安心というところだったろう。1610年には忠輝を、信濃松代(長野県)14万石から、さらに越後福島45-60万石へと一気に加増する。忠輝と五郎八姫は、なかなか夫婦仲が良かったことが確認されている。

しかし、どうもすでにこのときから家康は、危惧していた不安を意識し始めているようだ。ある種の情報を察知したのであろうと推察される。日本在住の英国商館長リチャード・コックスでさえ、本国への連絡事項に、「松平忠輝と伊達政宗は共謀して、スペイン・ローマの後ろ盾で、徳川家康に反旗を翻す」という巷の噂を書き残している。

それほど、忠輝と政宗の存在感が際立ってきていた証左であろう。実際に、共謀があったかどうかは定かではない。ただ、そのくらいのことは虎視眈々と考えていたとしてもなんら不思議ではないのが、政宗という人物である。

実際、その前の秀吉政権の時代にも、一度ならず二度までも、伊達政宗謀反の嫌疑がかけられている。一度目は、鶺鴒(せきれい)花押事件である。二度目は、豊臣秀次粛清事件である。いわば、体制側としてみれば、これほど危険な有力者もいない。いわば、叛意を常に潜在させている「札付きの前科物」なのである。

大久保長安は、武田遺領から、信玄の諜報機関をそっくり我が物にした可能性は高い(真田昌幸も同様である)。それだけに大阪の豊臣方や、関が原合戦以降、死一等を減じられて、和歌山の九度山に幽閉されていた真田昌幸・幸村父子と、なんらかの連絡を取り合っていたとしても、これまた不思議ではない。が、当然そのような記録が残っているわけもなく、客観的には、彼らを結ぶ線というものは、ほとんど無い。

伊達政宗、松平忠輝、大久保長安、そして彼らと大阪方および真田幸村との間に、関係があったかなかったか、まったく不明だが、大阪の陣の後の伊達政宗の挙動から考えると、なにかがあったと考えるのが自然なようだ。それは後に述べる。

徳川家康が、人生最後の仕上げとして大阪攻めを狙っていたことは衆目の認めるところであったわけで、そのタイミングに合わせて、家康出陣後には空城(からじろ)同然となる江戸城を、大久保長安が千人同心を総動員して急襲・乗っ取り、東北では伊達政宗が蜂起し、大阪では真田父子が豊臣方に参じて連携するというプランが、もともと無かったとは言えない。豊臣秀頼の大阪城が健在である以上、伊達政宗が蜂起すれば、徳川体制はいきなり危機に陥ることは火を見るより明らかであった。

政宗にしてみれば、決起のタイミングは、家康が高齢で死ぬか、大阪が立つか、どちらが先かという二者択一になってきていた。表面的には磐石化しつつあった徳川幕藩体制も、実は一皮剥けば、伊達政宗という自ら暴発したくてしょうがない時限爆弾がいつ作動するかもわからないという、恐るべき波乱を内包していた可能性がある。

軍資金は長安の膨大なものが蓄財されている。池田輝政など豊臣恩顧の大名たちとも、縁戚を結んだ長安である。後は、大阪方がどの段階で意を決するか、どこで真田父子をはじめ、反徳川に燃える大量の浪人たちが大阪に入城するかだったわけだ。もしかすると、正宗は年齢からいっても、家康の死を待っていたかもしれない。実際、大阪の陣の2年後に家康は死去している。一方、家康にしてみれば、時間切れが迫っていた。うかうかしていたら、信玄のように、いま一歩のところで自分が死んでしまいかねない。政宗と家康、この緊張感のわずかな差が、家康に先手を打たせることになる。

その意味でも、上手は家康のほうだった。おそらく、この情勢というものをわかりすぎるほどわかっていたのは、家康であったろう。家康と、長安・政宗の息詰まる確執のバランスがこのとき実は頂点に達していたのかもしれない。そして、家康もまた、一気にこのリスクを封じ込めるタイミングを、探っていたに違いない。どんでん返しは、徳川家康の真骨頂である。

事態急変が起こる。大久保長安が倒れたのである。脳卒中であった。これは偶然であろうと思うが、伊達政宗や忠輝にとってみれば、青天の霹靂であったろう。ワイルドカードが、徳川による自分たちに対する切り札に早代わりしてしまったのである。

長安の死の直前、寝たきりになってしまった長安を家康が見舞っているが、なにがあったかわかったものではない。口も利けないほどになっていた長安に、家康が放った言葉は、もしかしたら「おまえに引導を渡してやる」ということだったかもしれない。あるいは、死に際だけは安心させておいたか、この辺はつまびらかではない。家康が長安をどう個人的に思っていたかにかかっているわけで、今のところは手がかりはない。

長安は1614年6月13日、死去する。毒を盛られ、死を早められた可能性もある。家康がじきじきに見舞ったのも、心配してのことではあるまい。なにか特別な意図がなければ、家臣の自宅にまで家康が赴くわけがない。

問題はその後である。それまでことあるごとに衝突していた大久保長安の主家である大久保忠隣など武断派と、本多正信ら文治派の長年の家臣団の権力闘争を、家康は利用した。

実際にあったか、なかったかは定かではない。本多らは、「長安に謀反の計略があった」ことを暴露。本多ら文治派による、大久保派(武断派)に対する讒言(ざんげん)である。内容はくだんの、「忠輝・政宗らと共謀して幕府打倒をたくらんでいた」というものである。この徳川幕府序盤最大の疑獄事件と化した「大久保長安」事件は、勢力関係を一変させることになる。

長安の罪状は、倉に武田菱の武器や毒酒が大量に備蓄されており、武田家再興を図っていたともされたが、時代錯誤も甚だしい。武田滅亡は32年前のことである。

この濡れ衣は、長安の本来の企てである『徳川幕府乗っ取り』という恐るべき罪状を、世間にそれと知られぬようにカモフラージュするためのものであったとしか考えられない。

長安に『徳川乗っ取り』をする計画が無かったのであれば、家康としては長安粛清の口実としては、ただ不正蓄財の濡れ衣だけで十分だったはずだ。

言葉を返せば、政宗・長安らが、忠輝を擁して幕府権力を襲奪する計略が「あった」ということの証左とも取れる。だから、それが露わになって、徳川体制も存外脆弱なものなのだと世間に認識されることこそ、家康が一番恐れたことだろう。

だから、根も葉もない、アナクロニズムとしか言えない『武田再興』などという嫌疑を仕立て、「長安だけ」を処断する策に打って出たのだ。

この結果、恐るべきことに、長安の7人の子息たちは、37歳から15歳まで、全員が斬首処刑。腹心たちも殺された。長安自身は埋葬から掘り起こされて、改めて磔(はりつけ)に処せられ、後に首は晒された。

長安と縁戚関係にあった大名や、関係の深かったものはことごとく処刑あるいは、改易、流罪となっている。池田輝政などは、長安より3ヶ月先に死去していたので、難を逃れた。

ところが、ここに不思議な一事がある。この事件がほんとうであるとするならば、もっとも断罪されて然るべき伊達政宗に罪が及ぶことはなかったのである。ましてや、松平忠輝も然りである。

幕府の体制を磐石のものとした最大功労者である大久保長安一族にすべての罪を負わせ、一党を根絶やしにしたことで、忠輝・政宗へ、無言の恫喝とも言えるくさびを打ち込む効果があったろう。

家康にしてみれば、長安存命中にこれを行なわなかっただけ、長安に対するせめてもの配慮をしたつもりであったかもしれない。しかし、時間はギリギリだったのである。

長安=忠輝=政宗ラインが、もしも大阪城や真田幸村とかねてからつながっていたとしたら、長安の死(1614年6月)の冬に、大坂の陣の幕が切って落とされているから危機一髪、絶妙なタイミングで謀略は潰されたことになる。家康にしてみれば、それこそ土壇場で形勢を一気に逆転させたわけだ。

このへんが、家康の巧みなところだろう。大阪の陣が目の前に迫っている中で、伊達政宗を相手に武力衝突をするのは得策ではない。まかり間違えば、死せる大久保長安の計略に自らハマることになりかねない。徳川・松平一族にも亀裂が入る。ここは、家康、生涯最後の我慢のしどころだった。両者ともに、お咎めなし。長安一人を悪者にして、事態を収拾した。ここで、事実上、勝負あったというところであろう。伊達政宗は、下手な動きが取れなくなってしまったのだ。

長安死去から1ヵ月で一族が捕縛され、7月には処刑が始まった。最終的には武田家の血を引く僧侶などにも塁が及び、翌年に伊豆大島に流罪となっている。

この大久保事件が突如として起こった直後、伊達政宗は、駆け込み的に支倉遣欧使節団の二度目の出航(前年は遭難して失敗)を強行している。時間が無くなったのは、政宗になってしまったのだ。

家康も家康で、事を急いだ。忠輝・政宗ラインには一指も触れず、まるで何もなかったかのように振舞い、一方では一気に大阪との決戦を強引に始めたのである。それが、大久保事件と同じ1614年の方広寺鐘銘事件である。

これは、完全な言いがかりであるが、徳川方は豊臣に叛意有りと激しく糾弾する口実とした。この事件は大久保事件(6月)の直後、7月である。一方で大久保一族を片っ端から処刑していきながら、片方では大阪を挑発したのである。

真田幸村が、大阪に入城し、大阪方の主力の一隊を担ったのは同年0月である。すでに、関が原合戦以来、徳川方についていた兄・信之と、その義父であり家康重臣の本多忠勝の懇請によって、死こそ免れていたが、父とともに配流先の九度山で10年以上が経過していた。この間、昌幸は憤死しており、幸村はわずかな家臣たちとともに幽閉先に沈潜していたのだ。

大久保長安と九度山の真田父子との間の、長きにわたる隠密の連絡・交渉があったかどうかはわからない。ただ、仮にあったとすれば、幸村は(すでに父は死んでおり)、長安=忠輝=政宗ラインが崩壊してしまった以上、もはや万事休すと思い定めたに違いない。

大阪から、ぜひ脱出して与力して欲しいという熱望に、死に花を咲かせたいという思いが触発されても無理からぬものがある。かねてから、長安や、政宗から計略が持ち込まれていたとすれば、なおのことである。白髪が増え、歯も抜けと、老余敗残のわが身を自嘲する幸村の直筆の手紙(姉の村松殿宛て)が残されている。

ことここに至っては、忠輝・政宗ともに家康に対してひたすら平静を保って恭順している以外にない。大久保一党が滅ぼされてしまった以上、八王子千人同心も機能しない。

政宗が仙台で、豊臣=幸村が大阪で蹶起したとしても、肝心の江戸城本丸の急襲・奪取という実働部隊が、まるごと消えてしまったのであるから、どうにもならない。

そして戦国時代の幕切れとなる、最後のクライマックス、大阪の陣が始まる。1614年11月の冬の陣、15年5月の夏の陣である。夢破れた伊達政宗は、不本意ながら、参陣することになる。しかも、あろうことか、伊達隊と真田隊の激突という劇的な場面を歴史は用意した。歴史の女神も、意地の悪いことをするものだ。

真田幸村という人物は、父・昌幸に徹底的に仕込まれしたが、軍歴自体はほとんど無いに等しい。関が原合戦のとき、昌幸とともに、10倍もの徳川秀忠別働隊を返り討ちにした第二次上田合戦(幸村は当時33歳)に参加したのが唯一の戦歴といっていい。しかし、すでにこの時代、あのようなすさまじい戦国時代の合戦というものを、一度なりとも経験した武将たちも、次第に少なくなってきていた。

ましてや、昌幸の神業ともいえる采配ぶりを間近で見聞したわけであるから、この経験は絶大なものがある。ちなみに、幸村という名前は実際には確認されていない。残されている手紙などでも、信繁(のぶしげ)が正しい。かつて、1561年の第四次川中島合戦で、兄・信玄の盾となって奮戦、討ち死にした武田信繁の威徳をしのび、昌幸が次男誕生の際に、その名に信繁とつけたい、そう信玄に懇望して許された経緯がある。

幸村(ここでは通称で書く)も、武田の遺伝子を強烈に体内に残していたのであろう。ちなみに、信玄が没したときには、幸村は6歳で、躑躅ヶ崎館にいた。大阪城での真田隊の軍装は、武田ゆかりの「赤備え」で統一。軍旗も無地の赤旗であった。

本当は、家紋の六文銭を掲げたかったであろうが、徳川方には兄・信之の名代として、甥っ子たちが参陣していた。それをはばかって、あえて家紋はつけなかったようだ。しかし、武田遺臣の最後の誇りは全面に押し出したということになる。

まだ、冬の陣のうちは、大阪方優勢のうちに終わっていたし、後藤又兵衛とともに、籠城ではなく、積極出撃策を主張していた。だから、幸村にしても、万に一つの可能性を考えていたろう。

しかし、夏の陣に至っては、積極出撃策のチャンスも失われていた。万事休す、というところだったろう。この段階では、幸村もすべての望みを捨てている。勝ち負けが問題ではなく、どれだけ見事な死に花を咲かせることができるか、だけである。

東軍が、四方から大阪城を目指している中、幸村は5000の兵を率いて出城。道明寺で伊達の本隊と激突する。伊達政宗の心中はいかばかりのものであったろう。「世が世であれば・・・」というところだろうが、もはや政宗としても家康の手前、どうにもならない状況に追い詰められていた。

道明寺では、先発隊の後藤基次(又兵衛)隊に合流するはずだったが、なんと幸村が遅参する失態をしている。果たしてこれが濃霧による本当の失態であったか、大本営・大野治長らの采配ミスだったか、あるいは幸村の意図的なものであったかは、不明である。

いずれにしろ、後藤隊は真田など後続部隊の到着を待たず、単独で伊達本隊に攻撃をしかけ、壊滅していた。このときの後藤隊は、死兵さながら、阿修羅のように突貫したと伝えられている。2800の兵で、10倍以上に膨れ上がっていた幕軍先鋒の水野隊、伊達の片倉隊などに対し、小松山から平地に降りての展開・突撃を敢行したのである。おそらくは、ほぼ自滅に近い突貫であったろうと思われる。

真田幸村は毛利勝永ら合計1万2000人で後藤を追ったが、ときすでに遅かった。ばらばらに敗走してくる先発隊の残兵を収拾し、態勢立て直しのため撤退。政宗は前線の水野隊から、鉄砲隊による追撃を要請されるが、許さなかった。このため、幸村は自ら殿軍(しんがり)となって、余裕で撤収するを得た。

この伊達政宗の行動は、あまりにも不可解である。大阪城を進発してきた浪人勢は、幸村のほか毛利隊、明石隊、薄田隊など中核がそろっていたわけで、一気に追撃し、まとめて壊滅させるチャンスだったはずだ。大阪城を名実ともに裸城にしてしまう、絶好の機会だったのである。が、なぜか伊達政宗は、追撃指示をしなかったのだ。ほとんど、ただ見送ったといってもよい。

幸村は、あの有名な「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候え(東軍は、100万人もの軍勢で押し寄せてこられたが、男子は一人もおられぬようだ)」と叫んだという。

が、おそらく本心は違う。幸村は、このとき伊達政宗には、自分に対して戦意が無いことを確認したのであろう。それが、「東軍には男が一人もいないようだ」という一見挑発的な捨て台詞であったと推察される。なぜ、政宗には自分に対して戦意がないと確認したかったのか? それは、戦後の処理で明らかになる。

伊達政宗の戦陣における傍若無人ぶりは、つとに有名である。この大阪の陣でも、援軍要請を言下に断り見殺しにし、自軍を遮るものは同じ東軍でも容赦なく、部隊まるごと撫で斬りにしたくらいである。やられた友軍がこの伊達隊の非道を詰り、家康に訴えても、政宗は謝罪一つせず「軍法に則ったまで」の一言ではねつけている。そういう男である。とくに、このときは生涯の大望を頓挫させられた直後だけに、憤懣やる方なく、怒りのやり場に困っていたのであろう。

その感情的には暴発寸前であった政宗が、西軍のうちもっとも精強な真田隊ほか浪人勢の集団を、最大のチャンスにみすみす追撃せず、見送るということは尋常ではない。幸村との間に、なんらかの阿吽(あうん)の呼吸があったとしか考えられまい。政宗の言い草が振るっている。「鉄砲の銃弾が不足するから」といけしゃあしゃあと言ってのけたそうだ。戦(いくさ)をしにきているにもかかわらず、である。

それがなんであったのかは、大久保長安一族の悲劇的な死で、永遠に闇に葬られた。この一挙に、政宗の心中には、「不本意な戦(いくさ)」という本音がかいまみえるようだ。ただ、はっきりしている事実がある。幸村討ち死に後のことである。

幸村は、その後天王寺口で態勢を立て直し、最後の大攻勢に出る。大阪城南方は、十重二十重に東軍が重囲を深めていた。真田の赤備えは、東軍からも目立っていたようだ。幸村は、隣に布陣していた毛利勝永と事前の打ち合わせをしていたが、毛利隊が敵(本多隊)の挑発に乗って発砲、合戦が始まった。かねてから勝永と幸村は、引きつけてカウンターを打つという線で意見の一致を見ていたが、この作戦が崩れたのである。

勝永はいそぎ陣に戻り制止しようとしたが、ますます激化してしまった。そこで作戦を変更し、一転、突撃に移った。これが予想外の展開で、本多隊を蹴散らすことになる。幸村もこれを見てチャンスと判断したのであろう。密集隊形で突撃に入った。

真田隊は茶臼山に陣取っていたが、前面左の阿倍野村には、松平忠直隊がいた。前面右の紀州街道沿いには伊達本隊(松平忠輝隊)がいた。いずれも大兵である。幸村は、伊達勢には眼もくれず、矛先を前面左の松平忠直隊に集中する。

総勢3200人の赤備えが、手前に分散する小部隊を蹴散らし、前面左に展開する1万5000人の松平忠直隊を強襲の末、これを撃破。中央突破したところ、左隣では毛利勝永の奮戦が、家康本陣前の旗本隊を大混乱に落とし入れていた。幸村は、その間隙をすりぬけて、さらに左奥に陣取っていた家康本陣に真一文字に突入。家康本陣は目も当てられないありさまとなり、数人の旗本に抱きかかえられながら、家康本人は馬標(うまじるし)を捨てて遁走。

辛くも幸村の急襲を免れたが、家康の生涯のうち、「家康ここにあり」の馬標(うまじるし)を捨てて逃げたというのは、若年の頃、三方ヶ原合戦で、武田信玄に完膚なきまで叩きのめされたときと、この真田隊による本陣突入のたったの二度である。いずれも武田の血脈が相手だったということは、よほど家康にとっては、武田の遺伝子が天敵だったようだ。

この後、幸村は家康を仕留めることができないまま、挽回してきた幕軍に三方から攻めた立てられ、力尽きて退却。討ち取られる。享年49歳。薩摩藩初代当主・島津忠恒(しまづただつね、義弘三男)の国許への手紙にはこう書かれている。

「五月七日に、御所様(家康)の御陣へ、真田左衛門(幸村)仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆(徳川本陣)、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。」

しかし、この大阪夏の陣において、使用銃弾数と戦死傷者数が最大を数えたこの天王寺口の激戦で、見事な働きをしたのは、幸村だけではない。早々と討ち死にした幸村の後、残軍を収容しながら、退却中に最後の猛戦を展開した毛利勝永隊の奮戦のほうが、その凄みにおいては、むしろ幸村を凌ぐものがあったというべきであろう。

なにしろ、幸村の家康本陣突入が成功したのは、毛利勝永の奮戦あってのことだ。天王寺口では、4000を率い、先述の銃撃戦から一転、総攻撃に判断を切り替えた。戦闘開始直後、本多・小笠原など敵前線の大将を瞬く間に討ち取り、続いて、浅野、秋田、榊原、安藤、六郷、仙石、諏訪、松下、酒井などの十隊を次々に撃破。ついには幸村隊と相前後して家康本陣に突入している。勝永と幸村は、前者が大手、後者が搦め手(からめて)の役割分担で取り決めていたから、両者の呼吸がすべてだったとも言える。

このため、真田隊壊滅で戦線が崩壊すると、四方八方から関東勢の攻撃を受けて、撤退。退却においても、勝永の采配は水際立っていた。反撃に転じてきた藤堂高虎隊を返り討ちにして大損害を与え、食い下がってくる井伊の赤備えや細川忠興(ほそかわただおき)隊の追撃を防ぎとどめて、この間に残軍の城内への撤収に成功している。城内にて、自刃。

少なくとも、大阪夏の陣で、各所に展開した大阪方の軍勢のうち、最後の最後まで戦線を維持したのは、この毛利勝永隊だけである。幸村の勇名に半ば隠れてしまっているのは、大変残念だ。おそらく、十隊撃破とはいえ、個々の部隊が大兵ではなかったためだろう。幸村が撃破した松平忠直隊は大軍であったから、こちらのほうが武名として晴れやかに映ったに違いない。この勝永だが、幸村と同様に、物静かで寡黙。日ごろから、温厚にして、大阪城内でも一二を争う人望だったと伝えられる。

かくして、大阪夏の陣は、真田隊全滅によって終局に向かう。7万8000人の大阪方と、15万5000人の幕軍の決戦の末、豊臣秀頼・淀殿(母)の自害という結果となった。100年に及ぶ戦国時代にもようやく終止符が打たれることとなる。

先述通り、真田隊の最後の突貫の際には、彼らの左手前には松平忠直隊が、右手前には松平忠輝・伊達政宗隊がいた。政宗は、真田隊が自軍の目の前を素通りし、松平忠直隊に阿修羅のように襲いかかっていった様を、実見していたはずである。

先日の道明寺合戦で、真田隊ほか諸隊への攻撃を控え、ただ見送った政宗である。幸村もこの最後の戦いに際して、結果的に政宗に礼を尽くしたことになる。

このときの政宗の胸中はいかばかりであったろうか。朱(あけ)に染まる真田隊の密集突貫。それを見送る深い羨望の眼差し。

「本来であれば、ともに轡(くつわ)を並べて徳川を叩きのめすところだったが、無念である。かくなる上は、ほんとうの戦国の武士(もののふ)の散りざまを、とくと見せてやるがいい。思い残すことなく、存分にやれ。」

政宗のことである。そんな思いだったのではないだろうか。

伊達政宗の不可解な行動は、さらにこの戦後に見られる。大阪は、勝ちにおごる東軍によって乱暴狼藉の限りを尽くされた。手柄を証明するための「偽首(にせくび、民間人を殺して、首を取り、敵の武将だと偽る)や、女子供への暴行、奴隷として売り飛ばすなど、凄惨を極め、大阪市内は散々に蹂躙され、地獄と化した。数千人単位で、虐殺、拉致されたと言われている。戦後、幕府はこのときの被害者の解放を各藩に命じているが、そのすべてが解放されたわけではないようだ。

この混乱の中で、諸説はあるが、幸村の三女・梅(阿梅)が、伊達隊・片倉小十郎重綱(重長)の陣に出頭して、捕らえられる。弟の大八(3歳から5歳)も連れていた。

最初から「阿梅」と名乗ったとか、はじめはどこの女ともわからず、侍女として使ったとか、いろいろ伝わっているが、どういうわけかこの梅だけは、とにもかくにも直接片倉陣営に保護されている。

美麗な女性だったようだが、12歳から17歳くらいと、年齢も伝承に幅がある。この梅が重綱の後妻となっていく。重綱の正室は、亡くなる前、後妻に梅を指名したとされるから、この梅は前妻にも信頼されていたことになる。重綱は、父親に勝るとも劣らぬ知勇兼備の名将であり、「鬼小十郎」と称される。

かつて豊臣全盛期に、伏見にあった真田幸村邸は、この伊達家重臣片倉重綱邸と、隣同士であった。幸村と、重綱がもとより親しかった可能性は高いだろう。長安の計略の有無にかかわらず、ここにも伊達(片倉)と真田を結ぶ線はあったことになる。なにより、三女が片倉陣営に事実上、匿われたという事実が、それを物語っているといっていい。もとを正せば、片倉家の先祖は、真田と同様に信州出身であったという知られざる事実もある。同郷人である。

ちなみに幸村のそのほかの妻子は、和歌山に潜伏しているところを浅野家臣に捕縛され、徳川方に送られたが、放免されており、家康はことさら事ここにいたって、女子供まで亡き者にする必要を感じていなかったようだが。しかし、男子となると話は別である。

いずれにせよ、二手に分かれて避難していた幸村の妻子たちのうち、一手が敵方の、あろうことか伊達重臣片倉陣営に自ら落ちていったというのは、あの当時の大阪一帯の殺戮と混乱をきわめた無政府状態の最中である、女子供だけで逃亡し、運良く伊達隊に拾われるなどということは、およそ非現実的である。

かねてからの示し合わせなり、護衛や先導役なりがついていたとしか考えられまい。少なくとも、幸村が残された唯一の男児である大八を、片倉に託したという意図は間違いなさそうである。問題は、なぜ、それが伊達の重臣・片倉家だったのか、という疑問が残る。

幸村の長男(幸昌、通称大助)は、大阪城で秀頼たちとともに自害していることは分かっているが(享年13歳、あるいは16歳)、表向き弟の大八は行方知れずであった。この大八を伊達家が匿っているのではないか、という嫌疑がかかる。このため、伊達家では、大八は、以前に事故で死亡しているという話を捏造して流布。危機を免れている。

大八(後に、守信・もりのぶと称した)はその名を片倉久米介と改名。密かに伊達領内で生き延びるが、元服後は片倉四郎兵衛守信となり、やがて真田姓を復活させていくことになる。

このときも、幕府から再び嫌疑がかかるが、伊達家はしらを切って言い逃れている。伊達家が、匿うだけでお家存続が危うくなる危険な幸村の遺伝子を、かくまで守ろうとしたのは、やはり尋常のつながりではなかったとしか言えまい。

さて、大阪の陣の後、やり場のない不満が鬱積する伊達政宗に、さらに追い討ちがかかる。大阪の陣の直前、どさくさに、家康は伴天連(バテレン)追放文を公布。事実上の鎖国へと舵を切っていた。支倉使節はもはや、逆賊扱いにしかならない。大久保長安の急死前後の、緊張感がピークに達していた微妙なタイミングで、家康に先手を取られた政宗は、この最後の大勝負に出る機会を永遠に失った。あとは、あまりにも長い老年が待ち構えていることになる。

家康は、2年後についに死亡するが、その直前、枕辺に伊達政宗を呼んでいる。後事を頼んだのであろうが、具体的になにを言ったかは不明である。ただ、家康死後、二代将軍秀忠は、突如忠輝を改易、追放としている。罪状は、大阪の陣での不行跡というものだが、すべて言いがかりである。それを言うなら、後見役の伊達政宗に重責があったはずだ。忠輝は、伊勢をはじめ三箇所を転々と回され、最終的には信州諏訪に幽閉され、92歳で亡くなった。五郎八姫は離縁となり、政宗が引き取った。

徳川家における忠輝の処分は、江戸時代最後まで貫かれ、死後何年たっても一切の赦免措置はなされなかった。驚くべきことに、忠輝の死から300年経った昭和59年、1984年7月3日、忠輝の墓のある貞松院(長野県諏訪市)と、徳川宗家18代目の子孫との話し合いで、ようやく彼の罪が赦免された。かくも長き流罪、が意味するものは一体なんなのであろうか。明治以降は別として、幕末まで延々と赦免がなかった忠輝の処遇というものは、やはり伊達に対する「見せしめ」の意味合いしかなかろうと思われる。

家康死後に起こる予定の、こうした幕府の裁定を、家康は死の間際に政宗に伝え、噛んで含めるように諭したのだろう。よくよく個人的な野望を捨て、翻意し、徳川体制の護持に勤めるよう説得したのではないか、と推測される。時代が変わってしまったのだ。政宗も変わらなければならなかった。これを担保するために、1617年、秀忠の養女・振姫が伊達の嫡男・忠宗に嫁いでいる。いったん徳川と縁が切れた伊達家は、これで再び徳川宗家の一門に連なることとなった。

大久保長安というワイルドカードが、果たして存在していたのか、すべては藪の中である。しかし、長安一族が根こそぎ処断され、松平忠輝が永久追放され、真田幸村も豊臣勢とともに滅んだ。伊達政宗は、戦国最後の大器のまま、不完全燃焼を運命づけられてしまった。もともと派手好みの男である。泰平の世が進むにつれて、フラストレーションからであろうか、ますます奇矯な行動が目立つようになっていった。

二代将軍秀忠は、その死に際して、父・家康同様、枕辺に政宗を呼んでいる。そして、かつて伊達政宗謀反の疑いが出た折、死が迫った病弱な家康が、それを押して奥州征伐を考えていたということを打ち明けたそうである。家康、秀忠と、二代にわたって、死の間際に、「野望を捨てて幕府擁護するように」と懇請された政宗である。ここに至ってようやく、不完全燃焼を収めたかもしれない。

幸いなことに、三代将軍家光が、伊達政宗を非常に高く評価し、実の父親のごとく慕っていたことは間違いない。大器を自認する政宗としては、唯一の慰めであったかもしれない。その後の政宗は、人が変わったように、家光を立てた。もしかしたら、家康・秀忠は、今際の際(いまわのきわ)に家光の出生の秘密を伝えていたのかもしれない。(NOTEで、以前書いた「誰が信長を殺したか」を参照。)

それとも戦国乱世の生き証人が、ことごとく鬼籍に入っていく中で、政宗はやはりどこかの時点で悟りに達したであろうか。その資質からいって、余りにも遅く登場した戦国最後の大器も、その語り部としての役割に甘んじて老年を終える。

乱世が終息していく時代にあって、政宗はそれに入りきらないほどの資質の大きさを、本人自身がもてあましていたのであろう。この後、時代は徹底した鎖国とキリシタン弾圧に傾斜し、国内では殉教が相次ぎ、1637年の島原の乱で弾圧はピークを迎えることになる。

支倉遣欧使節団が帰国したのは、1620年である。大阪夏の陣の5年後にあたる。カトリックに改宗していた支倉常長も、失意のうちに2年後に没している。政宗本人は、さらに生き続け、島原の乱の前年、1636年、68歳で逝った。幕府は、このとき江戸で7日、京都で3日、服喪するよう命令を発布している。御三家以外では、特例であった。

伊達政宗の外交交渉につないだ最後の賭けはこうして潰えた。ただ、その遺品の中には、驚くべきことにロザリオが残されていた。キリシタン禁令、鎖国が決定的となってもなお、晩年まで残されたロザリオに託した政宗の思いとは、一体なんだったのであろうか。



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