『西遊記』~消滅した中国文化

文学・芸術

これは375回目。中国三大奇書(四大奇書)の一つとされる『西遊記』は、子供も大人も楽しめる、大変稀有な傑作古典です。が、一体あの書は何を言いたかったのでしょう? 長年にわたる誤解や認識不足、あるいは先入観といったものが、わたしたちの邪魔をしているかもしれません。
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中国にはもはや本来の中国文化は無い。

共産革命とその後の文化大革命で、宗教がそれこそ「根絶やし」になってしまったからだ。

文化というものは、その国の精神文化の基底をなす宗教の独自の成熟こそがすべてである。それが、断絶させられてしまったのだから、無理はない。

隣の情緒にきわめて問題を抱えた半島国家は言わずもがなである。戦後、それまでの仏教は人口比率2割。筆頭はキリスト教で3割に達する。

これがフィリピンのようにほぼ全国的にカトリックだというのであれば、文化の均質性や統一性が保たれ、成熟することが可能だが。北朝鮮のように、宗教が皆無、韓国のように完全に分裂した宗教文化では、民族としての、あるいは国家としての成熟が進まないのだ。

信仰のある無しにかかわらず、宗教というのはそれほど重要な民族国家成熟にとっては重要なものなのだ。

その国の宗教、精神文化が成熟しなければ、外来勢力との調整・均衡をはかることもできないのだ。

中国は先述通り、1949年にこれが失われてしまった。6-7世紀以来、連綿と熟成されてきた中国独自の宗教文化=精神文化は、1,300-1,400年の精華を、見事に自ら破壊しつくしてしまったのである。

ここでいう、中国独自の文化、それゆえにこそ中国たりえた文化の核とは一体なんだろうか? それを考えてみようというのが本稿の趣旨だ。

その答えは、『西遊記』にある、と勝手に思っている。

そもそも、孫悟空が問題だ。あれは一体何なのだろうか? ともすると妖怪と思ってしまうが、間違いなく妖怪ではない。

もちろん猿ではない。猿が喋るわけがない。岩から生まれたというが、これを以て妖怪だというのも早計である。なぜなら、雲に乗って空を飛ぶ觔斗雲(きんとうん)の術を会得してるからだ。

これに限らず、孫悟空が用いるのはすべて道教の術である。つまり、仙人だということは間違いない。人でもなく、動物でもない、仙人なのである。しかも孫悟空は天界の金丹を食べていることでもわかる。これは不老長寿の霊薬だ。

福建省順昌県宝山で斉天大聖(せいてんたいせい)の墓が2005年に発見された。斉天大聖は孫悟空の自称である。つまり孫悟空の墓が実在したことになる。墓からは金箍棒(きんこぼう)も発見されている。如意棒(にょいぼう)のことだが、中国では通常は金箍棒と呼ばれている。

単なる想像力の産物と思われていた孫悟空が、実はリアルな存在であったことがわかる。つまり、人間なのだろうが、仙人の術を会得していたか、その修行中の者であったということが推察できる。

『西遊記』によれば、天竺から戻った孫悟空は仏になったとされている。しかし実際には人間界にかなり長いあいだ留っていたようだ。なぜなら、彼の墓が発見されたからだ。

墓は元末または明初に作られたものである。つまり14世紀だ。『西遊記』の三蔵法師(602年から664年)は唐の時代の人物である。

つまり、孫悟空は三蔵法師とともに天竺(インド)への旅を終えてから、およそ700年ほど中国大陸で暮らしていたことになる。あるいは、まったく時代の違う実在の三蔵法師と孫悟空(斉天大聖)を、時代を超えて合体させた作品が『西遊記』なのかもしれない。

だいたい、作者が呉承恩だというのも、現在ではほぼ信じられていない。

ただ、孫悟空が実在であったとすると、『西遊記』で語られた数々の物語も、それなりに合理的に解釈しなおさなければならなくなってくる。ただの空想・妄想・幻想物語ではないからだ。

例えば孫悟空は「岩から生まれた」とされているが、これも正確ではないことになる。そもそも岩から生物が生まれるはずはない。

誕生した地点が岩山だったので「岩から生まれた」と比喩的表現を使ったに過ぎない。

もう一つ、突飛だが否定できないのは、異星人という可能性である。これも確かに否定できない。時空を往来することも可能性としては否定できない。

あるいは、異星人によって「つくられた」特殊能力者である線も捨てがたい。

問題は、孫悟空を始め、異能者(沙悟浄、猪八戒など)たちが、なぜ仏教徒である三蔵法師を支援したのか、という点である。

これが『西遊記』の謎、と言っても良い。

この道教だが、中国の歴史の中では仏教と道教が覇権を争っていた時期が長い。三蔵法師(だけではない)の帰国によって大量の仏典が中国に伝わり、その後長い年月をかけて仏教の教えは中国全土に浸透した。

その過程で道教と仏教は激しい対立でどちらかが壊滅する可能性も決してゼロではなかった。孫悟空(とされる人物、仙人)が唐時代に始まり、元末あるいは明初まで中国に生き続け、留まったのは、仏教と道教の対立を制御して、融合化を見極めていくためだったのかもしれない。

もちろん、孫悟空に仮託された人物は、一人では無かった可能性もある。何世代にもまたがった、複数の聖人たちを、あたかも一人の人物かのように仕立てたのかもしれない。

仮に異星人だとしたら、中国のような多民族、多宗教国家で、仏教と道教が同化したことで、その役目を果たして異世界へ戻っていったのだということも考えられる。

中国には現在、純粋仏教というものは、非常に少ない。文化大革命によって破壊されたものも多いのだが、もともと純粋仏教として残っていたものはきわめて限られていた。

すでに、道教と同化して、仏教なのか道教なのか、わからないほど融合していたのである。

もともと老子に端を発した道教だが、日本では長いこと、両者は牽強付会であって、関係はないという議論が多かった。しかし、フランスでは両者の関係性はあるという議論に立っている見方が強く、今では日本でも、関係性ありという見方が多くなってきているようだ。

少なくとも、孔子を祖とする儒教(支配者階級の学問、支配治世のための理論書)に対して、一般庶民たちは自分たちの精神文化(宗教といってもよい)の正当性に、老子や莊子を祖とすることで論理的な支えを求めたのだろう。

中国というと、すぐに儒教の国であるというコンセンサスが一般的だが、これは完全に間違いである。このことを最初に日本人に主張したのは、長く満洲に居住した橘樸(たちばなしらき)である。

江戸時代、幕府が朱子学を国学としたために、あたかも中国の倫理教説の聖典は、儒教の四書五経であるといったドグマがはびこった。しかし、それはしょせん支配者側の論理を説いたものとなっており、本当の中国「人」の精神文化は、老荘思想に正統的根拠を求め、実際には仏教と同化した道教なのである。

橘の本職はジャーナリストだが、生涯の後半生のほとんどを大陸で過ごしている。陳独秀、蔡元培、胡適、李大釗、魯迅らと交わり、後には満州事変の首謀者である石原莞爾関東軍参謀とも交流がある。

超国家主義的で、重農主義者でもあった橘だが、「合作社」の運動にも関わって、その思想が後世に敷衍していった。

「合作社」というのは、中国農村の協同組合で、信用、運輸、供給、消費、生産などの分野に分かれる。

共産革命後は、中華人民共和国になって発展し、資本主義経済から社会主義経済に転化させる過渡的な役割を果たした。1958年に合作社は人民公社に発展的に解消されて、消えた。(台湾では継承されていった経緯がある)

この橘がつとに口を極めて日本人に主張し続けたのは、「中国は道教の国であり、儒教ばかりを学んでも、本当の中国人の文化性は理解できない」ということだった。

中国文化の専門家であった橘のところには、日本から企業家、政治家、軍人などさまざま人士が、中国とどうかかわったらいいのか助言を求めにやってきた。

往々にして日本人は、「論語」の世界観を中国と同一視する過ちを犯していた。橘はそれを一つ一つ正していったのだ。

道教が、最終的に仏教を取り入れ、受容してゆき、ついには融合・同化していった過程というのが、長い中国文化の形成そのものだったと言える。

したがって、なぜ、道教が仏教を欲したか、それが『西遊記』の謎を解く鍵である。

わたしたちにその答えの鍵の一つを与えたのは、先般紹介した、中島敦だろう。彼の作品の中に、『悟浄歎異(ごじょうたんに)』というのがある。沙悟浄の苦悩を描いた作品だ。
沙悟浄を通して、天竺への旅に同行した仲間たちの仙人の一人ひとりを通じて、なぜ天竺に行くのか、を突き詰めようとしていく。

もちろん、そこには答えは書かれてはいない。が、明らかに道を指ししめしている。あくまで中島敦が読み解いた『西遊記』だが、決して的外れではないとわたしは思っている。

中島敦の『悟浄歎異(ごじょうたんに)』では作品中で、沙悟浄(さごじょう)が同行者たちを、彼の目線で見つめ、考察している。一言で言えば、昨日の自分が壊れることを恐れず、今の自分が傷つくことを恐れず、彼らと接してみよう、そういう気持ちが行間にあふれているのだ。

沙悟浄とはそもそもなにか? 日本では河童の妖怪のような仕立て上げられ方をしているが、まったく河童とは関係無い。

天帝の御側役の一人で、天帝を守護する近衛兵の大将である。高官であり、西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。

ところが、天帝の宝である玻璃の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから、三千里もあるという弱水の流沙河で人を喰らう妖仙となった。

ある日、天竺に経典を取りに行く仏教者を探していた観音菩薩と遭遇。それと知らずに襲いかかるが、ひとかどの者ではないと悟って相手の名を聞いてみると、なんと菩薩の一行であると知り、驚愕。平伏して慈悲を乞うた。

これまでに9名の旅の途中の仏教者を殺したことを告白する。菩薩は次に来る取経者(天竺へ、経典を求めて旅する者たち)の弟子となるように諭し、沙悟浄という法名と戒律を与え、さらに殺した取経者の髑髏は持っておくように命じた。首から下げている髑髏である。

その沙悟浄は、三蔵法師と彼に従う孫悟空や猪八戒らと出会う。そして孫悟空の類まれな生命力に溢れた所作に感服する。孫悟空は凄い、と思うところは、彼が自分にも他人にも嘘がつけないことだ。

そしてその情熱はすぐに傍らにいる者にも影響する。いるだけで、存在感があるというやつだ。

孫悟空は、自分以外の世界や存在に意味を与える力を持っているのだ。我々にとっては何の変哲もない日常が、孫悟空の手にかかると、たちまち冒険の幕開けと化す。

毎日、当たり前のように見ていた夜明けの素晴らしさでさえ、沙悟浄は孫悟空のおかげで、あたかもそれを初めて見る者の衝撃を以て、その美に感じ入ることができるのだ。

沙悟浄が驚きを以て孫悟空を見る視点は、おびただしく登場してくる。困難な現実に直面したとき、孫悟空にはそれがまるで最短コースが描かれた地図のように見える。迷いなくゴールまで直線的に突き進んでいく。

孫悟空は読み書きができない。動物・植物・天文の知識は博覧強記なのにである。しかも、動物であれば一目でその性質と特徴、弱点などを見抜き、薬草と毒草を正確に見分け、星によって方角や時刻や季節を瞬時に知る。

一方の沙悟浄は星の名前をすべて知っているのに、実際の天空の星を見上げたとき、それが何であれがなにかを見分けることのできない。それをどう使うのかさえ知らない。

孫悟空は自分が納得しなければ、どんなに学者たちがみな異口同音に言う定説でも、頑として受けいれない。決して過去を語らず、今だけをビビッドに生き抜いている。

孫悟空だけではない。欲以外にはおよそイメージの湧きそうにない猪八戒ですら、沙悟浄は驚嘆する。

猪八戒は享楽主義者だ。天竺に行っても、仙人さながら霞(かすみ)を食べるのはごめんだ、肉を食う楽しみがないと生きる意味がないと平然と言ってのける。およそ、天竺に聖なる経典を求めて艱難辛苦を甘受しようとするミッションとはかけはなれた俗物性に満ちている。

しかし沙悟浄は、その猪八戒の中にも真理を垣間見る。夏の木蔭の心地よい午睡(ひるね)、渓流の爽快な水浴び、月夜に響く典雅な笛の音、春はおぼろの朝寝、冬夜の炉を囲んで酒を酌み交わす和気あいあいの歓談、・・・この世の楽しみを後から後からまくしたてる猪八戒ほど、生きることを楽しんでいる者はほかにいない。楽しむにも才能が要るのだと沙悟浄は気づく。以来、沙悟浄は猪八戒を軽蔑するのをやめた。

三蔵法師との比較で言えば、法師はあまりにも弱い。そしてすべてをあるがままに受け入れる恐るべき強さを兼ね備えている。自身の惨めさや哀れさと同時に、かけがえのない尊さも明確に認識している。その矛盾こそが、三蔵法師の人間としての悲劇性であり、孫悟空も、沙悟浄も、猪八戒も妖仙たちはみな惹かれるのだ。不思議な存在である。

しかも、同行者たちは、みなお互いの違いを敬愛しあっている。ただ理解はできていない。その答えは天竺にあるはずだか。いや、天竺に行く過程で得られるものなのかもしれない。

みなそれぞれ、違うのだ。しかし、根っこは同じだ、それだけを彼らは信じている。まったく違うもののように見えて、実は同じなのだ。ちょうと水と氷のようなものだ。化学式はどちらもH2Oで同じなのだ。

野宿の夜、山の夜気はさすがに凍える。木の葉の隙間からわずかにのぞく星を見上げては、沙悟浄はむやみに寂しさを覚える。自分には、彼らのような「核」が無い。ほとほと、自分が嫌になってくる。

が、三蔵法師の寝顔を見、仲間たちの寝息を聞いていると、心の奥にふと、温かさがともるのも感じる。「同行者」という意味に心が洗われる。これは、空海の「同行二人」に通じる心映えだ。

沙悟浄の、心が折れそうになるのを踏みとどまり、自分を探し求める旅は続いていく。中島敦は、人を食う「鬼」と化していた沙悟浄に、みんなとの距離をどう取るのかという悩みを読み解いた。

そして、その距離をゼロにするには、自分が彼らを羨望するように、自分が彼らから羨望されるような自分にならなければならない、とそう思い始める。「あんなふうに、自分もなりたい」と思わせる素敵な仲間になっていきたい、と心をよぎる。が、まだ思い始めただけである。

昨日の自分を壊すということ、自分が傷つくことを決して恐れないということ、それが仲間たちと天竺にいく旅で、得られるのではないかと、沙悟浄はそこはかとなく思い始める。

自分が傷つくことをおそれず、他者に接するということ。そうすれば、沙悟浄のように素敵な仲間たちと出会い仲良くできるということ。どんな苦難も克服できるのだ、と思えること。そして自分も「あんなふうになりたい」と思われるような自分になること。

『西遊記』は、700年に渡り、大陸で仏教と道教が相克し、影響しあいながら、やがてはまるで一つの宇宙のように生成された有様を、見事に活写している。中国文化というものがもしもあるとするなら、この土着宗教と伝来宗教とが渾然一体化したその過程なのだろうという気がする。

中国を知りたければ、『西遊記』を読め。そして、登場人物たちの(つまり、700年に及ぶ中国人たちの)精神的苦闘と試行錯誤、果てなき悠久への憧れを感じ取るがよい。中国文化の竜骨にたどり着くことができるはずだ。

もしも中島敦がそんなふうに読み解いたとすれば、芥川の亜流などでは到底ない。芥川の遥か先にまで流星のように走り抜けた、偉大な作家だったと言うべきかもしれない。



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