東亜同文書院

政治・経済, 歴史・戦史

これは382回目。かつて上海に、日中の学生たちがともに将来を夢見た学び舎(や)がありました。東亜同文書院です。上海は上海徐家匯海格路にありました。終戦の翌年1946年に閉校。それは現在の愛知大学に継承されています。こんな学校があったというお話です。ほとんどの日本人はもう忘れていることでしょう。とても残念です。

:::

かつて戦前の上海は、アジア最大の都市だった。世界中の悪徳、不潔、堕落の集積回路でもあったが、東京など吹けば飛ぶような存在でしかなかった。

フランス租界と各国の共同租界が中心部を占めており、事実上無法地帯だったから、逆に言えば最大限の自由がそこにあった。

三井物産などは、本社を上海に移す予定だったくらいだ。太平洋戦争が始まったために、この計画は頓挫したが、今でも当時の三井物産上海支店のビルは、裏通りに面して存在している。

少なくとも、わたしが90年代に最後に訪れたときにはまだあった。まだあるだろう。エントランス外壁上部に、「三井洋行」とくっきり彫られていたの覚えている。

その上海に、日本でも最もグローバルな最高学府が存在した。東亜同文書院だ。

東亜同文書院大学は、1901年(明治34年)5月26日、東亜同文会によって清朝時代、上海に設立された日本人を対象とする高等教育機関東亜同文書院を前身とする。

中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。

1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格。

1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、翌年学生、教職員の帰国によって閉学した。44年間のうちに、5000人の有為の学徒を世に送り出した。

現在は、上海交通大学の校史博物館(兼愛国主義基地)となっている。
もともとは、南洋公学、上海工業専門学堂だったが、国民党政府の重慶移転に伴い、同学も移転したため、日本政府が接収し、同文書院校舎として使用した。

東亜同文書院

興学要旨にはこうある。

・・・中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり・・・中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り・・・

学生の大半は各府県が学費を負担する府県費生であったが、外務省や南満州鉄道、商社からの委託生ほか、私費生も一部受け入れていた。

特色は、「大旅行」である。卒業論文のための「支那調査旅行」いわゆる「大旅行」が制度化された。

学生たちは数名から5・6名のチームを組んで各地へ3ヶ月から半年までの旅行をし、その範囲は中国本土にとどまらず東南アジアにも及んだ。彼らが収集した地域情報をもとに、1915年から1921年にかけて『支那省別全誌』全18巻が刊行され、1918年に研究所として支那研究部が新設されると、大旅行はいっそう組織的に実施されるようになった。

学生たちに与えられた通行許可証(今で言うパスポート)である。これは当時の中国政府が発行したものだ。学生たちはこの通行許可証を常に肌身離さず携帯した。通行許可証があれば危険な目に遭うリスクが避けられた。当時の日本の外務省からは、3万円の寄付まであった。

学生たちは大きな麻袋にすべての荷物を入れ、会計係は銀貨を体中にまきつけて出発する。学生たちが身に着けていたものは当時の中国ではまだ珍しく、彼らが携帯していた目薬などは中国の農民たちが欲しがったのだという。農村の農民たちは学生たちに友好的で、ときには食べ物も与えてくれた。農村での好待遇に学生たちは喜び、ますます中国に対して好感を抱いたらしい。

しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだ。

逆に、中国共産党の勧誘も密かに進み、学生の間には共産主義を標榜し、学内外でビラ配布など、反戦反日運動に身を投じて捕縛されるものも続出した。

実際、校風は自由だったのだ。マルクスなど共産主義の関係蔵書も図書館には豊富にあり、規制は無かった。

英語は敵性外国語だからといって規制するようなこともなかった。

どちらにせよ(それが正しかったか、間違っていたかは問わず)明確な将来の世界の青写真を目指していたことは確かだ。

こういう大学であるから、著名人も多く来校して講演を行っている。

1908年(明治41年)-1月 犬養毅来校。
1911年(明治44年)- 4月東郷平八郎、乃木希典来校。
1924年(大正13年)- タゴール来校。
1926年(大正15年)- 10月近衛文麿来校。
1927年(昭和2年)- 12月胡適特別講義。
1929年(昭和4年)- 6月日犬養毅、頭山満講演。
1931年(昭和6年)- 4月魯迅特別講義。

台湾の青年も数多く選抜されて上海に渡った。

東亜同文書院は日本の対中貿易取引に携わる人材の育成を旨とするため、現代中国語(なかでも北京語および上海語)、英語等の外国語や商科関係の科目を重視した。また中国にたいして友好的立場を明確にしている。

学生たちは全寮制によって兄弟の情を育んだ。

書院の学生たちは入学時どのような夢を描いていたのだろう。

書院生を対象にしたアンケート結果が残っている。圧倒的多数が「中国で働く、骨を埋める」と答えている。他に、「日本と中国・アジアのために」、「中国人のために」、「中国を見、学びたい」といった答えがあるように、入学者のほとんどが中国を中心とするアジアや世界に大きな関心を抱いていた。

さらに、書院生の将来の就職先として、外交官や新聞等のジャーナリストを選ぶ者が少なくなかった。このことから、書院生は国際感覚にあふれた意欲旺盛な若者たちであったであろうことも推測される。

日中戦争激化、太平洋戦争勃発という、大きなうねりの歴史の中で、学生たちは右に、あるいは左に分かれて、同窓同士、骨肉を争う場に身を投じていった。

陸軍第15師団に補充兵として動員された老兵士の中には、同文書院の教員や教授もいたそうだ。そしてその大半がインパール作戦で命をちらしている。

東亜同文書院は、敗戦後、中国に再接収の後、交通(通信)大学として新たな歴史を始め、今日に至っている。

わたしは、1997-8年に上海を久々に個人旅行で訪れたときに、是非にと思い、立ち寄ったことがある。万感の思いとはあのことだ。

とうに、四十歳になろうとしていたわたしだが、学生時代以来、なかなか旧校舎のある交通大学を訪れる機会が無かったのだ。

かつてそこにはアジアのために大望を抱いて勇躍していた学生たちが、確かにいた。思想の違い、選択の違いはあっても、その情熱だけは同じであった。

自分は一体、なにをしてきただろうか、とつくづく恥じ入るような思いで交通大学の構内を歩いたものだ。その思いは、60代になった今でも、なにも変わらない。