国体~憲法改正論議について

政治・経済


これは242回目。今回は、イデオロギーに関わることです。わたしが改憲論者ですが、近年問題にされている国会の改憲を巡る議論には、どうも納得がいきません。敢えて誤解を恐れず、書いてみようと思います。意見は違って当たり前です。ただ、考えもしないのは、最悪です。民主主義の名がすたるというもの。非常に極端な意見を書いてみますので、各位の材料にでもしていただければと思います。

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集団的自衛権や国民投票法など、憲法改正をするために、安倍政権はずいぶん遠回しに外濠から埋めにかかっているようだ。隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が深い。そしてそれに賛成にしろ、反対にしろ、どうも本質を巡る国民的議論が少なすぎるような気がしてならない。わたしは改憲論者だが、今行われている政治の動きというものは、果たしてこれでいいのだろうか。

要するに非武装か、それとも再軍備かということが問われているわけで、畢竟それは国民が、自分の生活圏としての国家を最悪の事態の場合に、命を賭けるか、賭けないかという究極の選択を迫られているのだ。平和主義などどうでも良い。こちらの善意が踏みにじられ、降りかかってくる激しい火の粉を前にして、あなたは平和などというお題目のために、死ねるだろうか。わたしは死ねない。

再軍備化の問題は、国家というものの機能に、「国益(国民の財産と生命)を守るために血を流すことも辞さない」を認めるかどうかが、基本的な争点のはずだ。

あくまで、この問題は議論を突き詰めれば、徴兵制を受け入れるかどうかにまで発展する性質のものだ。別に志願制でも良いのだ(主義主張はあるだろうから、徴兵は嫌だというのであれば、兵役の二倍の期間のボランティア活動従事という選択肢があっても良い。医療を始め、社会福祉への従事である。)。いずれにしろ、議論は究極の内容でなければ、意味がない。

しかし、この非武装か、再軍備か、というテーマでさえ、わたしに言わせれば、まだ瑣末なことでしかない。憲法を「いじる」以上は、畢竟、天皇制をどう考えるのか、に行き着く。そこまで手を出すのが怖いのであれば、憲法改正などやめてしまえ、とすら思う。対処療法的な改憲で、中途半端な国連軍としての派兵に応じ、利あらず身分保障が法的にはっきりしない中で死んでいく兵士こそ、いい迷惑だ。

憲法とは、国体そのものだ。象徴であろうがなんだろうが、国体とは「天皇を中心とした秩序・政体」のことである。天皇を戴いている以上は、しょせん天皇を避けて通れない。

現憲法下で、拡大解釈によって、憲法の微調整、あるいは国内法の追加によって、「あるていど」の戦闘行為が可能になっていくことになるのかもしれないが、個人的にこの流れに一番危惧している点がある。

それは、現在の法体系の下で、事実上「中途半端な再軍備化」がされていく場合、俗に言う軍国主義化や、軍の暴走、政府の無力といった事態、国論の好戦紛糾に際して、一体誰が、最終的な抑止力や事態収拾のカードになるのか、という議論がまったく無いことだ。つまり、究極のストッパーはなにか、ということだ。

わたしは、日本の法規範というものは、英国法を範とすべきだ、と考えている。一言で言えば、「成文法が無い」ということだ。そうなのだ。英国には、成文憲法など存在しない(条文というものが完全に無い、ということではない)。

天皇を象徴としたこの、simbolという表現も、英国から持ってきたものだ。象徴とはいえ、厳然と君主が存在しているという点からいっても、日本の政治体制に一番近いのは、大英帝国しかない。憲法の条文をいじくり回して、一体いつになったら、結論が出るというのだ。成文法を放棄すればいいではないか。

日本国憲法というものは、進駐軍が、わずか一週間と言う短い期間で落書き同然にこしらえて押し付けたこと自体(すでに雛形としてあった極右・北一輝の「日本改造法案大綱」を焼き直し、やっつけ仕事でこしらえたものだ。)

が、これ自体、ハーグ陸戦協定違反、つまり国際法違反だという意見もある。一方、旧大日本帝国憲法は未だに失効していないという議論、裏を返せば、日本国憲法そのものが失効状態であるという見解など、法律の世界はほとんど文章そのものというより解釈の問題に終始している。

そんなことは、どうでも良いのだ。国民が、これが憲法だというコンセンサスがあれば、手続きなどなくとも、実効性がある。文章になっていなくとも、憲法は存在しうるのだ。なにが本質か、ということを議論もしないで、国体をいじるというのは、かなり危険だと思っている。

わたしたちが、この国をどうしたいと思っているのかが、すべてであって、旧憲法が生きているとか、現憲法は有効性がないとか、この条文を入れたい、ダメだといった応酬などどうでもよいことなのだ。

英国には、先述の通り、憲法とみなされるいくつかの条文はあるが、事実上、いわゆる慣習法と判例法の世界だ。そもそも近代的な国家という概念規定すら無いのだ。女王(王家の筆頭)に、形式的にはすべての権力が属することになっている。そして、それぞれの機構(政府など)が、実質的に権限を行使するという立憲君主制だ。

軍の統帥権ですら、女王に属している。言っておくが、政府にではない。女王一人にである。だから、Royal Navy(王立海軍)と呼ばれているのだ。伊達や酔狂でロイヤル・ネイビーなどと格好つけているわけではない。

旧憲法(大日本帝国憲法)は、軍の統帥権は、天皇に直属していた。だから、旧憲法は、非常に危険な憲法だというイメージが強いだろう。

では、その英国が、近代以降、一度でも軍国主義になったであろうか。なるほど、英国法という世界観は、女王や王の専横を排除するために、彼らから権力を奪ってきた過程で成立した形態である。中世の慣習がそのまま継続しているものだ。しかし、現実にきわめて有効に機能しているのだ。

だから、天皇に統帥権が集中させた旧帝国憲法が、軍国的なものであり、今の憲法が戦争に突入するのを避けられる憲法だというのは、まず根本的に間違っている。それだけ、日本人の法意識や、政治や戦争というものへの認識が、世界的には幼稚そのものだということにほかならない。

軍国主義(すべての国策決定が、軍益を最優先させるという考え方)や、軍の暴走というものは、時の政権が脆弱である場合に問題を発生する。今は前近代ではないから、普通選挙が施行されており、君主の専横などというものは、ありえない。

ましてや、明治以降、明治天皇は日清・日露両戦争に反対だった。満州事変以降、軍の独走に対しても、昭和天皇は、常に反対であり、それどころかたびたび激怒している。二二六事件では、自ら近衛兵を率いて鎮圧に向かうと言い出したくらいだ。

そして、前にも書いたが、昭和20年8月15日という、国家存亡の瞬間に、徹底抗戦と無条件降伏とで政府と陸軍が真っ二つに意見衝突したときに、これを救ったのは、天皇の裁可であったことを日本人は、忘れている。開戦も、天皇は反対であった。

過去の戦争において、すべて開戦時に、天皇は反対であった。しかし、政府が一致して開戦の裁可を求めたので、天皇は何度かこれを押し返している。(日露戦争はとくにそうである)

第二次大戦もそうである。政府が統一意見で開戦を求めたとき、情報は「開戦」という、一方的な意見しか天皇に届かない。したがって、天皇はその良心に基づき、「考え直せ」と押し返すのが精いっぱいだったのだ。

しかし1945年昭和20年8月の降伏のときには、政府内部が割れた。降伏勧告であるポツダム宣言に対して、徹底抗戦派と降伏派に分裂し、結論が出なかった。初めてここで、天皇は情報・状況の把握と公平な裁可としての終戦を裁可できたのだ。

間違ってはいけない。日中戦争で暴走したのは、軍ではない、政府である。そして政府をそうせざるをえないように追い込んだ、激高するメディアと世論だったのである。

天皇が開戦というものに、非常に嫌悪感を持つ一連の事実は、なにも明治天皇や昭和天皇という、個人の性格の故ではない。日本の天皇というのは、そういう存在なのだ。

古来、天皇というものは、君臨しているだけで、実際の統治はすべて武家(政府)が行ってきた。そして、どうにも問題が収まらない時に、天皇の裁可で混乱を収拾するという最期の切り札として機能してきた天皇制というものを、日本人はもっと認識を深めるべきだろう。

その発生や歴史的経緯は、まったく英国の王室と日本の皇室は違う。しかし、いずれも近代国家の世界観が支配している現在、その機能や、理想とする姿は同じものであろう。

だから、天皇に大権を集中させ(国家元首である)、しかし、そのすべては政府と議会(政府だけではない、ここが重要だ)が代行する。天皇には最終的に裁可する権能と、そして「拒否権」が残される。これが、おそらく日本の歴史・文化的に、一番馴染む政治体制だと個人的には思っている。

極端な例を考えてみたらよい。いったい、今の日本国憲法において、仮に政府が中国と無謀な戦闘状態に入ったとき、いったい、その政府を止めることができる最後の切り札があるだろうか。政府を超える「権威」を持ち、歴史的につねに混乱を収拾し、暴走に抑止的な機能を果たしたものは、天皇以外には無かったではないか。

満州事変のことでもそうだ。現地軍は国際法に基づく当然の軍事行動を起こしたが(満州国建設は明らかにやりすぎだったと思うが、軍事行動自体は侵略でもなんでもない。日清日露戦争で得た満州での権益と、居留する日本人の生命財産の保全のために軍事行動を起こしただけである)

しかし日本はその後は、不拡大方針だったのだ。ところが、積年の中国側の対応に激昂し、中国撃つべしと強硬論となったのは、世論とメディアであり、政府はそれに抗すべくもなく、便乗するかのように派兵増派。日中戦争が拡大したのだ。現地軍は、「師団増派は不要」、と押しとどめていたにもかかわらずである。

いったんダムが決壊すると、もはや止まらない。現地軍の中でも、世論を背景に、師団・連隊ごとに手柄争いと化し、けっきょく国家全体が中国へ中国へと泥沼の戦火を拡大させていくことになった。

このとき、戦争不拡大といいながら、ずるずると戦火を拡大させた政府に怒り、めずらしく直接首相を詰問し、「最初の話とまったく違うではないか。お前の言っていることはまったくわからない。話もしたくない。」と叱責して、首を飛ばしたのは、天皇である。

太平洋戦争開戦に関してもそうだ。以前書いたことがあるが、政府内閣・軍すべて一致で開戦の詔勅を天皇に求めた。当時の杉山陸軍参謀が天皇に呼ばれ、「おまえたちは、対米短期決戦と言うが、どのくらいを目処にしているのか。」「三ヶ月くらいと考えています。」「おまえは、支那事変(満州事変の後の、日中全面戦争)当時、陸軍大臣だ。あのときは、2ヶ月程度で済むと言っていた。以来、4年たっても、終わらないではないか。」「なにしろ、支那は広うございまして・・・」さすがに穏和な性格の昭和天皇も怒髪天を衝いた。「支那が広いというのなら、太平洋はもっと広いぞ!いかなる成算があって、3ヶ月というのか!」

天皇という、全権能が集中していたはずの至高機関でさえ、愚昧な政府や軍、そして勝手な議論が横行する「民意」と呼ばれる衆愚(ポピュリズム)を、抑えきれなかったくらいだ。それでも、最悪、終戦に持ち込むことは出来たのだ。悲惨な結果になってからではあったものの、最終的には天皇によって本土決戦は回避されたといっていい。究極のストッパーとしての役割は、十分に果たしている。

それがなくても大丈夫だという信頼を、日本人は、政府という存在に対して持ちうるのだろうか。それとも全国的なデモや運動を起こして、政府を止めるような力や覇気が、国民にあるとでもいうのか。日中戦争拡大に熱狂し、政府を泥沼の戦争に追い込んだ好戦的な世論やメディアの暴走はどうだ。戦争を起こすのは、政府や軍だと勘違いしている人間が多すぎる。それを拍手喝采したのはこの「日本国民」だということを、どこかに忘却していやしないだろうか。そのとき天皇だけが、不快感を露(あら)わにしていたのだ。

仮に、東シナ海上で、日中が武力衝突するという不測の事態が起きたとしよう。世論はまず間違いなく、この流れから行けば、「中国撃つべし」で激昂する。とくに戦争経験も、歴史認識も希薄な若年層が強硬な反応を見せるだろう(靖国参拝にしろ、嫌韓・嫌中感情は、世論調査では圧倒的に若年層に多い)。この過剰反応する世論に対し、政府はそれに流されないと確信が持てるだろうか。

政府すら流されるのだ。それは、先述の通り、日中戦争の例を見れば自明のことだ。出口の見えない東シナ海上の紛争が深まったとして、最終的なその事態収拾のカードがあるのか、と問うている。アメリカがなんとかしてくれるなどと考えないほうがよい。それは別の問題だ。

日本の、いつも定見のない世論というものや、信頼に足らない政府というもので、事態収拾ができるという確信があるのか、と問うているのだ。よくよく日本人は、憲法改正論議に関して、天皇制というものが持つ重みを、見直してみるべきだと思う。

結論から言えば、なにも帝国憲法に戻せとは言わないが、天皇は英国同様に、象徴として存在し、なおかつ形式上は、少なくとも軍の統帥権をはじめ、すべての政治権能を天皇の帰属させるべきだと考えている。いざというときの、事態打開の切り札が王室(皇室)であるということは、英国のみならず、わずかに世界に残っている諸王国を見れば一目瞭然である。

タイを見てみればよい。どんなに軍や国民が騒乱状態を引き起こしても、結局のところ国王の鶴の一声で、たちまち事態は収拾に向かうのだ。あるいは、それを「口実」にして、紛争当事者が手を打ち、話し合いに応じるきっかけに「利用」しているといってもいい。これが伝統と歴史というものの核弾頭並の抑止力である。アメリカやロシアや中国という、革命によって生まれた国家群が、ひっくり返っても手にすることができない希少な国家機能こそ、この英国やタイ、日本のような国体なのである。一見、アナクロニズム(時代錯誤)のように見えて、実はもっともプラグマティック(実利主義)的な発想だ。

わたしは、安倍首相が行っている靖国参拝についても、憲法改正の動きについても、(条件付きだが)基本的には賛同している。しかし、国家百年の計ということを考えれば、明治をつくった元老たちが生きていた時分ならまだしも(彼らは、「撃ち方止め」のツボを心得ていた。)、彼らが鬼籍に入って以来、現在にいたるまでの日本人というものに、わたし自身、正直とても自信を持てない。

70年近く、戦争を経験しなかった国である。なにがどうなるか、わかったものではない。事情はどうあれ、先が見えなくなるときに、取り合えず矛を収めるための切り札を確実に持っているべきだとつくづく思う。

先進各国と比べても、これだけ株式投資をする人口比率の低い国なのだ。マネーという、この直接生き死にを賭けていない「喧嘩の仕方」ですら、ほとんど知らない日本人だ。だから東京市場は、外人のやりたい放題と化している。ましてや実弾が飛ぶ戦争など、およそコントロールできようはずもない。

もっと個人個人が、日本の憲法はこうあるべきだとか、国体をどう考えているのか、ということを、妄想でも幻想でもよいから、具体的に考えることが必要なのではないか、と思う。右でも左でも、なんでもよい。議論が足らないのである。このまま、なし崩し的に、左右の議論が煮詰まらないうちに、中途半端な再軍備だけが進むのは、憲法改正論者のわたしとしても、どうにもいただけない。

わたしが一番危惧するのは、軍の暴走や迷走の末の袋小路を引き起こす最大の要因が、日本国民と政府の政治的未成熟さにほかならないという点だ。平和主義者や護憲派の認識を裏切るような結論、つまり、究極のストッパーは、「天皇以外には存在しないという皮肉な結論」を直視すべきだと言っているのだ。

憲法改正の議論は、このように、徴兵制度と天皇の統帥権という問題を通らずに、ありえないとわたしは考えている。それらが欠けたどんな条文改正や、付帯法の整備などをしたところで、しょせん現実には衆愚がそれを運用するのだ。とても信用に足るものではない。

「そんな馬鹿な」、と言うのであれば、その国家の窮地にストッパー役を果たせるどんな仕組みが考えられるというのか、政府にどんな構造や規制をすればそれが可能なのか、国民にそれをコントロールできる力と識見があるのか、具体的に回答せよ、と言いたい。

法というものは、書かれている条文のことではない。国家国民の良識やコンセンサスのことなのだ。(だから、その点成熟している英国では、判例法だけで事足りている。杓子定規な条文が無いだけに、むしろ柔軟でもある。)

民主主義が最も先鋭なアメリカでさえ、ときに軍の暴走をときとして止めることが出来ないというのに、実弾を撃った国民がほとんどおらず、70年にわたって軍隊を制御してきた実績が存在しない日本ごときに、できると思うほうが、時代錯誤はなはだしい。



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