聖人の大欲

宗教・哲学

これは289回目。精神的なお話。形而上学的といってもいいでしょうか。昔からいろいろききかじってきたことを、さもえらそうに書いてみます。

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気がつけば今年ももう終わりに近づいている。あまりのスピードに面喰っている。若い頃には、60代など永遠に来ないと思えるくらいずっと先のことだったが、もう今はその年齢に達している。

なにをやったのか、できたのかわからないうちに、今年が終わりに近づきつつある中で、そろそろこの一年の垢を落とし、厄を祓い、再生を期するために、気持ちを新たにしてみたいと思った。

人間には儀式が必要だ。ちょうど、葬式が逝く者のためよりも、残されたものが心の区切りをつけるために、どうしても必要なものと同じように。

究極は、一体仏陀がなにを悟ったのかということに尽きるが、もちろん誰にもわからない。夥しい経典は、仏陀が語ったことを、すべて直接書き記したものではない。何百年もたってからつくられた偽経にほかならない。偽経だといっても、でたらめなのではない。

そうはいっても、それはしょせん仏陀が「語ったこと」であり、「悟ったこと」ではない。「悟ったこと」はおそらく永遠にわからない。人々にわからせようと、仏陀はさまざまなことを語り、「悟ったこと」を気づかせようとしたのだ。

だから偽経であってもかまわない。しょせん、それは「仏陀が悟ったこと」ではなく、「仏陀が、わからせようと語ったこと」とされるものだからだ。

では彼はいったい何を悟ったのだろうか。仏教には、上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の二派が知られている。

上座仏教は、仏陀が悟ったのは「縁起(えんぎ)」だと主張する。大乗は「空」だと主張する。

「縁起」というのは関係の世界のことだ。たとえば、わたしが、人から「あなたは誰ですか」と聞かれたとする。わたしは名前を言う。「松川行雄です」だ。しかし、それはわたしではない。わたしの名前にすぎない。しかも、わたしがつけたのではない。両親が勝手につけたのだ。

名前を名乗ったところで、その人はわたしのことがさっぱりわからないはずだ。そこで、わたしは説明する。父や母は、こういう人です。わたしは、東京のここに住んでいます。働いているところはこの会社です。どういう趣味があります。好きな食べ物はこれです。等々。最後は、健康保険証や運転免許証まで持ち出さなければならなくなる。

わたしは一生懸命に、わたしは誰かということを伝えるために、たくさんの情報を与えようとする。が、そのことごとくが、実は、「わたし」ではない。「わたし」が関係しているものばかりである。「わたし」のことを説明しようとすればするほど、どんどん「わたし」から離れていってしまうのだ。

しかし、そういう外部世界との関係性を説明するよりほかに、「わたし」を定義づけることができないのだ。では、「わたし」という人間は、存在が無いのだろうか。そうではない。確かにここに存在する。

仏陀が悟ったのは、これに大きくかかわっていると言われている。それを説明したのが(上座仏教でいうところの)「縁起(関係性)」だというのだ。

一見、宗派が大きく異なる大乗仏教でも、実は同じことを言っている。「空」とは、「縁起」を反対側から見たものにすぎない。「縁起」も「空」もほとんど同じと言っても構わないだろう。

ここに、「点」がある。誰でも「点」とはなにか、を知っている。確実に、「点」は存在する。では、それを見せろと言われて、一体だれが見せることができるだろうか。

点を示すには、いくつか方法がある。ユークリッド的なアプローチをすれば、おそらく二本の線を交叉させるだろう。その交点を指して、「これが点だ」と言うに違いない。

しかし、それは正しくない。彼が指した部分「交点」は、鉛筆で書こうが、ボールペンで書こうが、どうやったところで「面積」が存在するからだ。「点」には「面積」が無いはずだ。ナノ・レベルの高度に微細なドリルで穴を空けても、それは点そのものではなく、点を中心とした一定の面積が、どうしても排除できないのだ。

別のユークリッド的アプローチで言えば、ただ一本の線を引くかもしれない。その線の先端が「点だ」というだろう。これも正しくない。線の先端は、やはり何で書こうとも、そこには、面積があるからだ。目に見えるということは、面積があるのだ。それは点ではない。

点とは、間違いなく存在するのだが、けして「見えない」のだ。どのような技術で、極小点をつくったとしても、つきつめれば、そこにはやはり極小の面積が残ってしまうからだ。

わたしたちも、この点と同じなのだ。間違いなく存在する。かけがえのないものがここに存在するのだが、けしてそれが何かを示すことができないのだ。せいぜい、わたしが関係するさまざまな外部世界のことを引っ張ってきて説明するのが関の山なのである。

しかし、それら外部世界の関係性は、わたしではないのかというと、そうではなく、わたしを形成する大事なファクターばかりだというのも事実なのだ。これが、縁起である。「空(くう)」とは、このわたしと、それと関係づけられるすべての事象とは、違うものではなく、実は一体である、という意味だ。仏教的な言い方をすれば、「無」と「有」を合わせて、それを超越した上位ステージが、「空」ということだ。

一説によれば、仏陀はこれを悟ったのだ、という。いや、この世界のすべてが、実は一つであるということを悟ったのだ、という。

今、こういう説明を聞いても、それは「知った」ということにすぎない。「悟った」わけではない。この「悟った」と「知った」の違いは、天と地の開きがある。言動が完全に変わってしまうはずだからだ。変わらないということは、「仏陀が語ったことを知った」だけで、「悟ったわけではない」ということにほかならない。

空(そら)を見るがよい。それは透明なのに、色があるではないか。空には、色が着く所などどこにもないのに、青く鮮やかだ。そこにキャンバスが無いのに、絵があるようなものだ。

「私」も、私でないものまで私なのだ。仏陀はそれを悟ったらしい。キャンバスが無いから、「空(そら)」の絵は無限だ。同じように、悟った「私」がいたら、その「わたし」は、何ものにも縛られない。

だから、般若心経のような経典では、どこにも、拾うものなど無く、捨てるものもまた無いと説く。拾うあなたも無ければ、捨てるあなたも無い。拾うと言うことは、無いものを捨てるという無知であり、捨てると言うことは、無いものを拾うと言う執着だからだ。

この「空(くう)」という大乗の解釈は、こういうことだ。上座仏教の言う「縁起」と実は、同じことを言っている。

だから、密教では無の境地を重視しない。空(くう)は、無とはまったく次元が違うのだ。「わたし」は、間違いなくあるのだが、それはすべての関係性と一体として初めて存在する。だから、密教では無の境地を目指さない。逆である。あらゆる五感を総動員して、想念せよ、と言う。「何も考えるな」というのではなく、考え抜けという、すべてと一体観を得るべく、徹底的なイメージトレーニングを要求する。

何も考えるな、ではない。考えろという。思え、という。感じろ、という。触れ、という。喜べ、というのだ。密教は、無になれなどという、無理は言わない。その代り、最大点に想念を広げろ、というのだ。

密教は欲ですら否定しない。全肯定である。ただ、徹底的な欲である。それは、自分のためではなく、他のための欲に発展する。自我の境界線がなくなるまで、欲を最大限に追及しろ、という。そのとき、欲は自我の欲という卑小な世界観から解脱する。それを「聖人の大欲」と呼ぶ。

わたしは、ただの凡夫だが。



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