日常が深く、静かにつくり笑いをする

文学・芸術

これは62回目。映画のお話です。同時期に旧ソ連とアメリカで制作された、二つの名作があります。日常というものの重みを、これ以上思い知らされる映画は、いまのところわたしは知りません。

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日常と非日常。21世紀の日本という、この何も不穏なことのない幸せというのは、それを失ったときに初めてわかる。平凡な毎日だが、それがどれだけ尊いかということは、その中に埋没しているときには、気づかない。

宗教の違いだけで、ケニアでは200人もの女子学生が拉致される。民族が違う(それも微妙にである。根っこは同じスラブだ。)というだけで、殺し合いがウクライナで展開される。政府を批判したというだけで、中国では監獄に引っ張られ、下手をすれば拷問され、結局行方がわからなくなる。

表向き、こうした非日常が、日常的に繰り返されるということは、日本ではまず無い。それだけに、ごくごく当たり前の日常が音もなく過ぎていくことの尊さというものは、ついつい遠い記憶のように、いつしか気にもしなくなる。

人間というのは、勝手なもので、息苦しくなると自由を渇望し、自由になってしばらくすると、また倦怠を感じる。

昔、80年代初頭に、ソ連の映画を観たことがある。数少ない中でも、出色の一作がある。「モスクワは涙を信じない」。1979年制作だ。時代設定は1950年代から70年代のソ連だ。

ソ連映画の中では、おそらく名作として残る作品だと思うが、およそ共産主義などイデオロギーは一切無縁の映画なのだ。要は恋愛ドラマの筋だてなのだが、とにかくなにも非日常的なことはおよそ起こらない。つまらない惚れたの、離れたのというどこにでも転がっているような風景が、最初から最後まで続く。

工場で働く三人の若い女性たちの生き様なのだが、その一人エカテリーナは、精一杯背伸びをして、インテリ階級の男とねんごろになる。が、「ただの」工場労働者にすぎないとわかると、すぐに捨てられる。しかも、妊娠してしまった。

一気に20年後に舞台は移る。エカテリーナは、なんと大工場のトップにまで栄進していた。子供はもう大学生だ。新たに恋人ができるが、男はどんな理由にしろ、女が自分より上のクラスであることに我慢できずに、去る。

すったもんだして、けっきょくハッピーエンドになるという瞬間に、寸止めの終わり方をする。

共産主義であろうと、資本主義であろうと、女というものが、社会で独立していこうとしたときに、誰しも一度や二度はぶつかる壁のようなものが、作中では繊細に、静かに描かれていく。男女平等を謳ったはずのソ連社会で、生身のロシア人女性たちの等身大のドラマが活写されている。

途中、さまざまなどたばたも仕組まれているものの、およそどこにでもあるような日常の連続であることに、変わりない。ところが、意外にこの映画、見終わったあと、心に残る不思議な魅力がある。日常の描き方が、うまいのだろう。

ちなみに、「モスクワは涙を信じない」とは、ロシアの諺からきているらしい。「泣いたところで、誰も助けてくれない」という意味だそうだ。

同じ日常の尊さや、意味の深さ、といったものを、「モスクワ・・・」のように、奇をてらわず、真正面から、しかも淡々と描いていく名作もあれば、逆に、強烈なコントラストで見るものの心を、いやがおうでも震わせる映画もある。

その代表は、あまりにも有名な米国映画「ディア・ハンター(鹿狩り)」だろう。1978年制作のこの名作は、ロシア系移民の多い鉄鋼町に住む三人の男たちの話だ。マイケルたちは、休みには山で鹿狩りを楽しむ、ごくごく田舎の青年たちだが、ベトナム戦争が始まり、徴兵される。

全編のおよそ半分が、出征前夜に行われた、三人のうちの一人の結婚式とそのドンチャン騒ぎで占められている。183分という長尺を、存分に生かしたこの、延々と続く、だからどうしたというような日常の繰り返しが、実は後で効いてくる。

さすがに、観ていて飽きがくるころ、舞台は一変。ベトナムでの過酷な戦闘と捕虜生活、脱出劇が描かれる。それも、けして長くない。一人は廃人同様になって帰国し、一人は行方不明。主役のマイケル(ロバート・デ・ニーロ)だけが、まともな生活に戻ろうとするが、あのくだらないほどふつうの日常にどうしても、戻れない。

マイケルは、そのうち行方不明となった一人ニックの消息を掴み、再びサイゴンを訪れるが、悲劇的な結末が待ち受けている。最後は、静かな葬式のシーンだ。マイケルほか友人たちが、ニックの葬儀後にウォッカを乾杯するシーンはあまりにも切ない。

日比谷でのロードショーを観に行ったとき、映画が終わり、エンドロールになったが、誰も立ち去ろうとしなかった。普通、エンドロールが始まると、次々に観客は帰り始めるものだが、誰一人立ち上がろうとしない。私自身そうだった。立ち上がれないほど打ちのめされた、と言っても過言ではない。

地獄と、あまりにも普通すぎる日常とのコントラストは、劇的である。ちなみに、この映画、共演のジョン・カザールが、製作中癌だと判明。制作会社のユニバーサル・スタジオは、カザールの出演に難色を示したが、監督のマイケル・チミノと、主演のデ・ニーロが、「カザールを降ろすなら、自分たちも降りる」といって、強行した逸話がある。カザールは、公開前に残念ながら死亡した。同じく共演者のメリル・ストリープと婚約していたが、このため結婚には至らなかった。

期せずしてちょうど同じ70年代末から80年代初頭という時代に、ソ連とアメリカの両方で制作されたこの代表的な名作二つは、女の日常、男の日常というものの意味や価値を、深く味あわせてくれる。

かたや純然たるソ連・ロシア人の労働者階級。方やアメリカのロシア系移民の労働者階級。一方は、長い長い時間の経過が、日常の重さを心に染み渡らせる。そして一方は、日常のすぐ裏側に広がる、思いもよらない闇によって、失われた日々の重さがずしんと心にのしかかってくる。

高邁なイデオロギーや、主義主張、誰が悪いのか、なにが悪いのかなどという無意味な問いかけは、一切ない。静かに、そして深く、尊い日常がわたしたちと同じように、こわばったような、無理なつくり笑いをしながら進行していくのだ。

論より証拠。まだ御覧になっていない方は、鑑賞をお勧めする。



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