人は他人に、いったい何ができるのか

宗教・哲学

これは42回目。人はなんのために生きるのでしょう。自分のため。これは当たり前です。議論にもならない。問題は、自分以外の人のためのときです。古くて新しい、矛盾です。

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西洋のキリスト教と東洋の論語(孔子、儒教)とでは、人間の姿勢について、ずいぶんとアプローチが違う。どちらが良いとか優れているとかいうのではない。どこに重点を置いているか、ということにほかならない。

聖書では、あまりにも有名な「人はパンのみに生きるにあらず」とある。その崇高な理想主義的なたたずまいは、孤高といえども気高さを覚える。論語では、「衣食足りて、礼節を知る」とある。人間のともすると陥る弱点を、見事に衝いて余りある。

仕事というものは、人のためであるとはいえ、結局自分のために行なっている。あるいは家族のためであるかもしれない。聖書の言葉と論語の言葉は、いずれも重さは同じなのだが、そのバランスは難しい。

いったい、自分や家族以外の人間のために、徹頭徹尾生きることができる仕事があるのだろうか。あるとすれば、それは宗教家しかないのではないか。それも、道をはずせばえらいことだが。

かつて若い頃、まだ自分が青かった時代に、キリスト教徒になろうとしてのめり込んだことがある。結果的に転んでしまった経緯があるのだが、その頃読んだものの中で、当時も、そして未だに解けない問いがある。

問いそのものは分かりやすいながら、答えは果たしてそれで良いのか、と考えさせられたのは、遠藤周作の『沈黙』だった。外国人宣教師が、日本のキリスト教禁令のかどで捕縛される。彼は、殉教を覚悟しているわけだが、牢屋の中の騒ぎ声が止むことなく、牢番にクレームをつける。

『私が磔(はりつけ)にされる前に、心静かに祈ろうというときに、あの騒ぎ声はなんだ。邪魔だから、やめさせろ』、と。

牢番は皮肉たっぷりに言う。『何を言ってるんだ。あれはお前が棄教しないから、お前の信徒たちが拷問され、殺されていっている悲鳴だ』。

宣教師は、目が覚めた気がしたのだろう。何も言わなくなった。そして、命拾いができる最後のチャンス、踏み絵の場面を迎える。だが、踏めない。なかなか踏めない。信仰と、自身の名誉を裏切ることはできない。

そのとき、誰かが耳元でささやいた。誰もいない。その声は、「私を踏みなさい。それでみんなが救われる」。彼は、踏んだ。

もう原文を見なくなってから、30年以上は経っているので正確ではないだろうが、おおむねそんなクライマックスである。宣教師は、自分が一番大切にしているものを捨てて、自分を信じる人たちを救おうとしたのだ。それが、果たして結果的に、救われた人たちにとって良かったことなのか、どうなのかは、誰にも分からない。ここに、その難しい問いが隠されている。

ついで、といっては何だがもう一つ紹介しておこう。明治・大正期の詩人、山村暮鳥(やまむら ぼちょう)の一編だ。短いものなので、敢えて全文掲載する。旧仮名づかいは、便宜的に現代のものに置き換えたので御容赦。暮鳥にも申し訳ないが、敢えて読みやすいように、そうさせていただく。オリジナルを読みたい方は、原文をご覧いただきたい。暮鳥は、ちなみに牧師であった。

キリストに与える詩

キリストよ
こんなことはあえて珍しくもないのだが
今日も年若な夫人が私のところに来た
そしてどうしたら
聖書の中に書いてあるあの罪深い女のように
泥まみれな御足を涙で洗って
黒い房々したこの髪の毛で
それを拭いてあげるようなことができるかとたずねるのだ
私はちょっと困ったが
こう言った
一人が苦しめばそれでいいのだ
それでみんな救われるのだと
婦人は私のこの言葉に喜ばされていそいそと帰った
婦人は大きなお腹をしていた
それで独り身だと言っていた
キリストよ
それでよかったか
何だかおそろしいような気がしてならない
(山村暮鳥、詩集『風は草木にささやいた』より)



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