百年の孤独~東洋的な、あまりに東洋的な・・・

文学・芸術


これは100回目。100ということなので、100にちなんだものを書きました。20世紀が生んだ南米・コロンビアの世界文学の至宝の話です。が、妙に東洋的な世界観が描かれます。因果が根底にあります。そして襲い掛かる宿命に、延々と抗い続ける人間という概念は、不思議なほど仏教的な世界観とオーバーラップするのですが。

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「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。・・・・」

ガルシア・マルケスの最長編小説「百年の孤独」の有名な冒頭部分だ。三代に及ぶ長い年月と、絶望と至上の幸福、無感動などが微妙に交錯する瞬間を、この冒頭でマルケスは表現した。

その作風は、「魔術的(マジック)リアリズム」と言われる。日本でも一時期、これを読まなければ知識人ではない、と言われるほどの高い評価だったが、しかし、意外なことに日本全体として、これが流行となったり、一世を風靡したりといったようなことはなかったように思う。むしろ、日本人にはほとんど読まれていないような印象があるが、どうだろうか。

「百年の孤独」というと、宮崎の地元焼酎のブランドを頭に浮かべる人はいても、ガルシア・マルケスを思い浮かべる人は、それより多いとは思えない。

恐らく、映画化された作品も多いから、それで知っている人もいるかもしれない。当然南米系の映画であるから、それほど日本で有名な映画作品という印象はないだろう。

1928年コロンビア生まれ。新聞記者として欧州に駐在するかたわら創作を始める。母国の独裁政府の弾圧で新聞が廃刊になるが、55年に初の作品集「落葉」を刊行した。

マルケスが不在時、友人が放りっぱなしになっていた「落葉」の原稿を発見して、本人には無断で勝手に出版社に持ち込んで世に出たという逸話がある。その後、「大佐に手紙は来ない」「族長の秋」など、傑作を量産していく。

「百年の孤独」は、1967年に刊行。18ヶ月連続でタイプライターを打ち続けて書いたという。一族を支配する予言、大洪水などの災害、およそ現実には考えられないさまざまな事件などでちりばめられており、マコンドという仮想の村を舞台に、ある一族の誕生と栄光、そして滅亡に至る歴史が描かれており、世界的ベストセラーとなった。

ブエンディアの一族は、予言によって運命づけられている。そして、一族はそれぞれが、その死と滅亡の謎を解こうとする。ところが、そのことがけっきょく自らの破滅を実現させてしまうのだ。解こうとすればするほど、自滅の蟻地獄に陥っていくという、この理不尽で耐えがたい謎、絶望と至上の幸福の間で運命に振り回される人間模様というプロットは、「百年の孤独」に限らず、そのほかの多くの作品に共通するものだ。

日本では、さほど好んで読まれた感じがしないガルシア・マルケスだが、わたしはかなりハマってしまったものだ。「百年の孤独」は、おそらく一般にはとっつきにくい作品だ。が、映画化された原作も多いだけに映像に耐える、もっと不思議な感動を呼ぶ作品もけっこうある。

ラテン系の文学というのは、「ラテン系だという」印象とはまったく違う。ともすると、寸分の影も無い明るさや、単細胞、荒削り、いい加減さ、といったような偏見をラテンという世界に対しては持ちがちだ。わたしもついそう思ってしまう。ところが、マルケスの小説は、実に繊細で、胸が痛くなるくらいだ。なおかつ気が遠くなるような年月の経過に意味をもたせる骨太のドラマを描いているものが多い。

そして、なによりその真骨頂は、人間の意志と運命の微妙なバランスだろう。この二つの振り子が、螺旋(らせん)構造を描いていく。なにが正しく、なにが真実なのか。それは最後まで明かされないことが多い。それはわからなくても良いことなのかもしれない。しかし、人間はその謎と迷宮の中で、自分は一体誰だったのかと立ち尽くす。

ある意味、わたしなどは、「俺が、俺が」病にとり憑かれたような欧州文学の実存主義に対する、強烈なアンチテーゼではないかという気がしている。マルケス本人のことをよく調べたことがないのでわからないが、彼の小説には、不思議とキリスト教的二元論ではなく、仏教にも似た「輪廻」が非常に意識されているようだ。執拗に因縁が襲い掛かり、登場人物たちはみな翻弄されながら、これまた凄まじい執念で、ある意味、人間という地獄からの解脱に向かって抗い続ける。

「コレラの時代の愛(映画化されている)」では、初恋の女性を51年9ヶ月と4日待ち続けた男の壮大な愛の顛末を描く。男は、自分のその一途な愛を裏切るように、偏執的とも言えるような性的背徳行為を不特定無数の女性たちと延々と繰り返す。

価値の一貫性などは微塵もなく、倫理は崩壊し、思想は無残に液状化を起こす。長い屈辱と、混乱した妄想の年月の末、ついに主人公は初恋の女性と、醜悪な老いた肉体同士、肌を合わせてなにかを確かめ合う。しかし、そうした矛盾こそが、人間という存在そのものにほかならない。

人間の中では、つねになにかが壊れ、なにかが死に、なにかが生まれてこようとしている。そして、その混乱の蟻地獄の底にまで落ち込んでしまうと、実はそこに驚愕すべき奇蹟の価値体系が息をひそめていたことに気づく。理性では説明不能な、しかし厳然とした秩序が存在していることを思い知らされる。それは、本人すら気がつかなかった秩序なのだ。

「予告された殺人の記録」は、実際に起きた事件をモチーフにして書かれたものであるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。

作品中の謎は、致命的なほど謎であり続ける。しかも、非日常や、ふつうなら考えられないようなことを、まるで日常の一断面であるかのようにさりげなく描く。これに違和感を覚える人もいるかもしれない。ただ、そこで描かれる人間の苦悩は、まさにわたしたちが、現実に直面しているものそのものと言っていいほど生生しい。

最近の小説というものが、なんでも奇をてらいすぎ、あるいはあまりにも寓話的に過ぎ、現実の自分の生きている日常と重ねることが困難なことが多い。しかし、ガルシア・マルケスの小説は、あまりにもありえない、突飛なストーリーが展開する割には、あまりにも生々しいわたしたちの現実生活と不思議なほど重なり合う。

この「予告された殺人の記録」は、ガルシア・マルケスの小説らしさが一番出ていると思う(これも映画化されている)。本人も生涯最高傑作だとしているくらいだから間違いないだろう。話は、こんな感じだ。

この物語は、犯人も、動機も、場所も、手口も全部が街中の人に知られた中での言わば公開殺人である。事件で惨殺されることになる男サンティアゴは、かつて町の少女アンヘラを弄んだことのある(とされる)地元の金持ちの息子だ。アンヘラはその後、美しく成長して、よそ者としてやってきたモダンな都会の男・サンロマンの玉の輿(こし)に乗る。しかし、初夜のベッドで処女でないことを知られそのまま実家に追い帰されてしまう。

大恥をかかされた女の家では、二人の兄弟が激昂する。アンヘラを弄んだのは誰だと問い詰め、アンヘラは、「サンティアゴよ!」と口走る。兄弟は「サンティアゴを殺す」と町中に触れ回り、一日中泥酔し、延々とナイフを研ぎ続け、人々にそれこそ誇らしげに吹聴する。そして、予告どおりに殺人事件が起こる。サンティアゴは二人に滅多刺しにされ、なにがなんだかわからないうちに死ぬ。サンティアゴの母親や、女中ですら、知らないうちに、殺人に手を貸すハメに結果的には陥った。

「自分たちに後悔することは何もない」と言い切る兄弟は「男であることが賞賛され」て、司法からも寛大な判決を受け、短い刑期を終える。

しかしアンヘラを犯した男がほんとうにサンティアゴだったかは、作品の中でははっきりされていない。アンヘラはじつは本当に愛していた男をかばっただけの可能性も示唆されている。ずっと後年になってもアンヘラは「サンティアゴだったのよ、これ以上詮索するのはよしてちょうだい」というばかりだ。サンティアゴは冤罪だったのかもしれない。

その一方で、もともとはサンロマンとの結婚を望んだわけではなかったアンヘラだったのだが、追い返されたその日から逆に、サンロマンに激しく焦がれていくという皮肉な経過をたどる。彼女はサンロマンを忘れられず、十七年の間に二千通もの手紙を書く。しかしその手紙はサンロマンに届くものの、一通も封を開けられることはなかった。

次第に老いが彼らを襲い始める頃、その膨大な手紙の束を持ってサンロマンがアンヘラをたずねてくる。道に一通一通、落ちている。驚いてそれを、拾いながら、アンヘラが辿って行った先に、サンロマンがたたずんでいる。・・・このエピソードの行方は最終的には作品の中では書かれていない。サンロマンとアンヘラの、あまりにも遅い、しかし、新しい人生の出発があったのかどうかも、結局は謎のままだ。

混沌としか言いようのないほど、この人間と言う不可解な存在に、ガルシア・マルケスはある一定の価値観を押しつけたりはしない。人間という謎に、敢えて謎かけをしてみせたということかもしれない。そのほうが、人間というものの本質をあぶりだすことができると、マルケスは考えたのかもしれない。

まるで、法華経や、禅問答の公案でも読まされているような、不思議なほど東洋的な人間存在への迫り方は、欧米世界にとっては非常に特異な存在として映ったのだろう。1982年にノーベル文学賞を得たのも、欧米人にとって驚異的なほど「物めずらしかった」だけかもしれない

確かに20世紀という、この混乱の世紀が生んだ世界文学の至宝であることは間違いないが、不思議とわたしたち東洋人には衝撃というより、その謎が謎のままで心地よく納得できてしまえる価値観があるようだ。

本当であれば、日本やインドにこそ、ガルシア・マルケスのような大作家が出てきていなければおかしい。果たして、ガルシア・マルケスが東洋哲学や東洋文学に、どれほどの関心があり、造詣があったかという点については、ざっと調べたところほとんど接点は見つからない。

ガルシア・マルケスという男は、南米文化の突然変異として生まれたのだろうか。未だにそれ自体も、わたしにとっては謎のままで残っている。

・・・この巨大な宇宙の中に、巨大な苦痛の車輪が回っている(タゴール)



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