パスカルの賭け

文学・芸術

これは181回目。昔学生時代に、スペイン人の教授(神父でもある)が、いわゆる無神論者、あるいは信仰をとくに持っていない人に対して、キリスト教徒が応えうる一つの答えについて教えてくれました。それが、「パスカルの賭け」でした。

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これは、宗教学のみならず、数学の確率論、弁証法などに大きく道を開くきっかけとなったものだが、出元は「パンセ」の中の一説によっている。

簡単に言えば、仮に理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けたところで何も失うものは無く、むしろ生きることの意味は増すから幸福が手に入る、という考え方だ。

この確率論の新たな領域を開拓するスタートになった。とくに無限という概念を確率論に取り入れたという点では画期的だったようだ。

数学のことはよく分からないので、パスカルの哲学・宗教理論を書いてみよう。パスカルが解体しようとしたものは、宗教に対して、理性のほうが信頼できるという見解であった。

まずパスカルが前提としたのは、神というものの本質は「限りなく不可知」であるということだった。そして、神の実在性については、人間の理性では証明不能だという前提を、「賭けの理論」の出発点とした。

「理性」を偏重したがる自然科学は、その「理性」が夥(おびただ)しい現実の問題に答えられないでいる。したがって、実際の生活では人間は、憶測や盲信によって「賭け」をしながら、選択による人生を送っている。

そこで、パスカルは「理性」と「幸福」というたった二つだけを天秤にかける。不可知であるために、損益等しいリスクがそこにある。であるならば、神の存在を信じたときの損益とは、「得るときにはすべてを得、失うときには何も失わない」という結論になり、もし理性を偏重するのであれば、神が存在するほうに賭ける判断のほうが賢い、と主張したのである。

つまり、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しなかったとしても、死に際して、信仰を持たない場合より悪くなることは何もない。つまりトントンということだ。ならば、半分幸福になる確率がある以上、賭けないという手は無い、という結論になる。

後の近代において、この「パスカルの賭け」は科学文明に対して重大な挑戦を突きつけ続ける。

そもそも、「理性」を信じると言い切れる人間であれば、この「パスカルの賭け」は存在意味を失う。理性が確固たるものであれば、そもそも賭ける必要性がないからだ。この賭けの根本的な意味とは、「理性」が信用ならないものだ、という点にある。

長々と、パスカルの回りくどいロジックを解説してきたが、若いころはこれでかなり「凄いことを知った」と興奮したものだが。今にして思えば、やはりわれわれ日本人、あるいはアジア人と、欧米のキリスト教の人々とは、生きている土俵が違うとしか思えない。

基本的には、われわれにとって神という領域は、しょせん神秘体験である。どう理屈をつけようと、その神秘の前では万巻の経本や祝詞でさえ色あせて見える。またパスカルのような議論をしなければ、理性を打ち砕くことができないというのは、東洋的直感からはどうも回りくどいものにしか思えない。

理性的といい、合理的といい、そして科学的というが、それは、神秘を神秘として受け入れることにほかならないのだ。それが出来れば、「パスカルの賭け」は、それ自体、不要の議論になる。また逆に言えば、必要のない人には、神が訪れることもない。それは神の不存在を意味するわけではない。ただそれだけのことだ。



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