確率

文学・芸術

これは239回目。飛行機事故は、ジェット機時代に入って以降、乗客の壊滅の度合いが飛躍的に増加しました。プロペラの時代は、まだ滑空して不時着するケースがありましたが、ジェット機ではかなり困難です。ついつい、わたしたちはなんでも確率を考えたりします。が、どうもその確率というのは、理解が間違っているかもしれません。

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航空機事故は、壊滅的な結果になるのが普通になってしまった上に、乗客数がジャンボクラスと大規模化したことで、犠牲者数も多く、いっぺんに多くの人命が失われてしまい、悲惨さが際立っている。

しかし、この航空機事故に出遭う確率自体は、そんなに高くないことは、よく知られている。それは、保険会社調べでは20万分の1にすぎない。仮に毎日飛行機に乗っていて、事故に遭う確率となると、438年に1回という確率だそうだ。

これは、隕石が地球に落ちて地上に衝突する確率2万分の1より遥かに低いということになる。もっとも、隕石に当たってしまう確率100億分の1にくらべてれば、遥かに高いのだが。

航空機事故といえば、比較されるのは普通、自動車事故だ。われわれが自動車事故で死ぬ確率というのは、1万分の1というから、飛行機事故に遭遇する確率(事実上死を意味する)より、ずっと高いことになる。

しかし、横浜市の統計調べによると、一生涯に交通事故で死傷する確率は2分の1だとあったから、これがどういう計算か知らないが、恐るべきことだ。飛行機など心配していられない。日常が恐怖と隣り合わせだということになる。

世の中、なんでも確率だという人もいるが、すべて確率を気にしていたら身動きが取れなくなる。磯釣りや海水浴などをしていて、通常打ち寄せている波(有義波高)の2倍の高さの波がやってくる確率というのは、1000分の1だとされている。かといって、1000回数えている人もいるまい。

悲惨な確率がある一方、目の色が変わってくるような確率もある。カジノで億万長者になる確率というのは、60万分の1だそうだ。これだと、なかなか本気でやろうとは思えない数値だが、一代で財を築く確率は、米国においては423分の1だそうだ。どうだろうか。遠いと思うか、それとも現実味があると思うだろうか。

もっといえば、米国では100万ドル( 1億2000万円)以上の金融資産を持つ人の確率は125分の1だが、日本では100分の1だ。1%である。少ないといえば少ないが、天文学的な比率ではない。スキー場で怪我をする2000分の1の確率に比べれば、遥かに現実感がある。

この確率を考えていくと、どうもそれが「起こる」ことを前提に考えがちだが、じつは確率というものは、前提として「確率現象は存在しない」ということにある。要するに「虚構」なのだ。極端に言えば「嘘」である。

学校で学ぶ数学や物理学、化学、生物学など理数系のものを、科学と称しているが、これは現実世界で成立する「法則」を調べることだ。その法則を利用して、機械は動き、新幹線が走り、飛行機は飛び、人工衛星が打ち上げられる。

しかし、確率の世界というのは、物理法則も、因果関係もなんら存在しない。確率というものは非現実世界で成り立つ法則を導き出すことにほかならない。サイコロがいい例だが、予測できない、制御しにくいことを「偶然だ」とみなすのが確率の出発点だ。

また確率数値の意味するものも、われわれの現実世界に置き換えるのは、そもそも間違っている。サイコロの場合、1の目が出る確率は6分の1だが、これは、サイコロを6回振れば1回は1の目が出るということとは無関係なのだ。ただ人間は、この確率が高ければ「実際に起こるだろう」、確率が低ければ「実際には起こらないだろう」という期待感で、現実世界に無理やり対応させてしまうのだ。

だから、実際に起こった事実のデータである統計とも、まったく次元の異なる世界だということになる。統計数値の高さをみて、可能性の高さを意識するのは正しいが、それを確率と見なしてしまうと、間違う。あくまで確率にすぎない。

この確率法則をあまりにも導きにくいものの一つが、相場である。上がるか下がるかは、確率半分だが、それで話が終わればそんなに簡単なことはない。なにしろ銘柄を選ばなければならないのだ。

相場は、基本ランダム(でたらめ、乱雑、規則性が無い)な世界である。ところが、時間が加われば、なぜかトレンドや、サイクルといったものが、発生してくる。これも、計算で割り切れることはまず無く、せいぜい近似値を予測することができるにすぎない。

かつて、80年代に証券業界などから専門家たちが集まり、機械化・自動化プログラムで、運用パフォーマンスを挙げるプロジェクトが試みられたが、結論はなんであったかというと、それは「不可能」ということだった。人間の判断を超える機械化は、できないということだ。同じ試みは、米国でも行われたが、失敗に終わっている。どうも、人工知能によるチェスとは、違うらしい。

ときに、逆を考えると、当たりがよく、大きいかもしれないなどと思ったりする。というのも、誰しも虚構の確率を気にする。だからその多数派の逆をやるのだ。もちろんいつもそうだということではないのだが、できるだけ市場関係者がどう予想しているかということを、わたしはよく考える。それは、往々にして、相場はそれと逆の動きをしてしまうことが多いと、経験的に知っているからだ。

しかし、それも裏をかいたつもりで、それ自体が裏目に出ることがある。かつて、英国首相ウィンストン・チャーチルは、「もう一度人生をやりなおせるならなにをしますか」と聞かれ、「モンテカルロで、今度は黒に賭けるよ」と言ったそうだ。そのとき、ルーレットで黒が15回連続で出たのだ。チャーチルは赤に賭けた。その後、16回、17回と、黒が出続けたのだ。



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