残心~敗れざる君たちへ

文学・芸術

これは36回目。なかなか最近は「残心」と言う言葉を聞くこともないかもしれません。多少とも武道をたしなんだ方なら、きっとご存じでしょう。この言葉が消えていくのは、大変残念な気がします。

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スポーツの試合における、勝者の喜びはいかばかりであろうか。その素直な誇りと歓喜の表現は、たとえば、サッカーや野球などを見ていても実に感動的である。

以前、オリンピックで勝った日本人選手がガッツポーズでフロアに倒れ込んだ件が、物議を醸したことがある。死に物狂いで練習してきて、4年に一度という、「瞬間」に近いオリンピックという場で勝利を掴むのだから、その喜びがひとしおであることは、言うまでもない。敗れたときの口惜しさや、周囲の支援者たちへの慙愧の念たるや想像以上のものであろうから、それをどうこう言う資格など、野次馬ごときのわたしには無い。

が、そのたびに、ついつい敗者の気持ちを考えてしまうのが、私のいけないところかもしれない。もし、自分が勝者の立場だとしても、体中であの天真爛漫な喜び方をすることはないだろう。もっとも、私は運動音痴だから、そういう機会が永遠に訪れることはないのだが。しかし、私であればおそらく、誰も見ていない、自分だけの世界でその喜びを爆発させるような気がする。

この件が世間でも喧々諤々の論争に発展したのは、選手本人の振る舞いに対して、スポーツ界の著名人が噛みついたからだった。それでネットなどでも炎上したものだ。

選手本人の「遊びじゃなくて、命を懸けているので自然と出る。相手も命を懸けてくる。戦場ですから。」という反論コメントが、さらに炎上を加速させた。

なんとなく全般的には選手の振る舞いに好意的な意見が大勢を占めていたように見える。わたしの周囲の人間に聞いてみると、おおむねそうだった。「まあいいじゃないか、そう堅いことを云わなくても」というのが、一般的な反応のようである。

これは、スポーツというものを、どう考えているかということが、本質的な争点である。だから、人それぞれ、スポーツというものを自分の中でどう位置づけているか、で感想が異なってくるのは致し方ないし、構わない。

が、それでも、である。わたしは、頑固なのか、古いのか、やはりガッツポーズは良くないと思ってしまう。「戦場」から離れ、ベンチなどに降りた後は構わないと思うが、「戦場」でガッツポーズは無いだろう、とどうしても思うのだ。

いや、「戦場」というのは「比喩」なのだから、そう目くじらたてて挙げ足を取るなと言うかもしれない。しかし、あくまでスポーツはスポーツであって、生死をやりとりしているわけではない。健全なスポーツだというのであればなおのことだ。しかし、「戦場」は生死のゼロサムという世界なのだ。これは「比喩」では済まされない。

剣道はもともと剣術(武術)であり、正直なところ、殺し合いの技術の鍛錬であった。その精神は、スポーツ(武道)となった現在においても、いくばくかは受け継がれている。それが「残心」だ。残心とは、武道の世界ではある動作を終えたあとでも、「緊張を持続させる心構え」のことをいう。

実際に真剣の斬り合いで勝ったとしても、どこに次の敵が潜んでいるか分からない。相手が本当に絶命したか、ひそかに伏兵がいないか、時間の経過を見ながら待つ。その間、倒れていた相手が、尽きようとする最後の力を振り絞って、いきなり必死・相討ちの一打を仕掛けてくるということもあるからだ。伏兵が突如として抜刀状態で斬りかかってくることもあるのだ。斬撃が終わった後が、一番危険だとされていた。

だから、最後の最後まで気を緩めず、鞘で刀身をゆっくりと迎えに行く。その間、中腰の戦闘態勢はけっして崩さない。居合いではそうだ。視覚をはじめ五感という五感は、360度をまだ警戒したままの姿勢だ。

正確に言えばこうなる。果し合いで人を斬ったとする。まったく姿勢は、敵を斬り倒した後の中腰のまま、まったく微動だにしない。足も不用意にそろえるようなことをせず、前後に大きく開いたままだ。そのままの姿勢で、手首で刀だけをクルリと回し、切っ先だけを腰もとの鞘口(鯉口)に落とす。そして鞘を押しながら、抜き身の刀をすべて収め終わったら、はじめて刀を腰元に引き戻し、戦闘姿勢も解除、普通の立ち姿に戻る。

つまり、右手は切り放ったままの状態がこの間ずっと維持されているわけだ。あらためて、斃れた相手に武術(武道ではない)の実戦による教えに感謝し、その敢闘を讃え、死を悼んで合掌し、弔う。礼をしてその「戦場」を静かに立ち去るのである。

武芸を磨くというのは、それ自体、戦いそのものだった。殺し合いそのものである。人を殺して、初めてその経験が実戦力の蓄積となっていく。しかも、このときの勝利者は、いつかは自分も倒されることを、知っている。

もし、(映画のように)刀のほうを鞘にストンと落として仕舞うようにしたらどうなるか。そのとき、仮に死にかけた敵が、虫の息から、最後の一打を仕掛けてきたとする。勝利者の上体は中腰ではなく、すでに立ち姿になってしまっており(両足がそろってしまっており)、また刀が腰元に納まっている。そこから慌てて上体を戦闘態勢に戻し、抜刀しても遅いのだ。すでに抜き身のまま打ちかかってくる相手の刀に、自分の頭が先に割られている。防戦に間に合わないのだ。伏兵の奇襲でも同じことだ。抜刀というが、実は刀は抜くものではない。鞘を引くのである。

相手を斬り倒した直後から、立ち去るまでの一連の動作がすべて「残心」と呼ばれる。「残心」とは、命がけの勝負につきものだった心得である。勝負が終わった後に、その勝負を完成させるものは、この「残心」一つだったのである。ここに戦いの本当の意味がある。わたしはそれを武術のスピリッツと呼んでいる。

残心は、こうした戦いの場での実践的な教えそのものなのだが、精神的な教えも加わっている。敗れた相手への敬意だ。どんな相手からも、教えられることがある。学び取ることができる。だから、今では殺し合いはしないものの、武術から発展したスポーツとしての武道でも、勝っても敗者の前で勝ち誇ることを戒めているのである。「礼に始まり、礼に終わる」を、まさに徹頭徹尾、文字通り形にしたものが、残心なのだ。

剣道の試合では、一本勝ちをした勝者が、その場でガッツポーズなどをすれば、即刻、一本勝ちが取消されることになりかねない。剣道では、この残心が決まっていなければ、「有効打突(ゆうこうだとつ)」として認められない。有効打突とは、一本勝ちとなる打突のことである。

残心は禅から来ている考え方で、柔道や合気道、茶道などにも用いられているが、一番厳しいのは、やはり剣道のようだ。全日本剣道連盟の試合審判規則第24条で、「不適切な行為」として規定されているのが、「打突後、必要以上の余勢や有効を誇示すること」である。第27条では、一本勝ちが取り消しになり得ることを規定されており、実際に全日本選手権で、これが発動されたケースがあると聞く。

国技である相撲でも、実はこれが生きている。2009年1月場所の千秋楽、優勝決定戦で、白鵬に勝利して復活優勝を遂げた横綱・朝青龍が、勝利直後に土俵上でガッツポーズをした。このときは横綱審議委員会などから問題視され、後日、日本相撲協会から所属部屋である高砂部屋親方を通じて、本人に厳重注意が申し渡された。

さらに言えば、日本では最も古い近代スポーツの一つ、野球もこの「求道的」な性格が色濃く残っており、ホームランを打った後などに、派手なガッツポーズを行なってはいけないとされている。いわば、日本野球の不文律だ。

野球の場合、日本人の国民的スポーツとなってから、長い歴史がある。それだけに、こうした日本的な哲学が根付いたのかもしれない。水泳にしろ、ボクシングにしろ、スポーツとはいえ、戦いである。堅いことを言うようだが、私などは勝っても粛々としている謙虚さのほうが、勝者の体中で示す喜びや舞い散る紙ふぶきを見るよりも胸を打つ。何よりも、「本物」を見せてくれた喜びが伝わる。あまりにも、感覚が古いのであろうか。

スポーツは殺し目的の武術とは違うというのであれば、「戦場と同じ。命を懸けている。」という言葉は使わないほうがよい。純粋に、「健康的」なスポーツとして認識すべきだろう。それなら、感激してひっくり返ろうと、声をあげて泣こうと、雄たけびを挙げようと、一向に構わない。

わたしは、スポーツもゲームも、その淵源はこうした殺し合いの武術から始まっていると思っている。すべてがそうだとは思わないが、ほとんどがそうである。後は、そのオリジナルの姿があった時代の精神(スピリッツ)というものを、スポーツやゲームに変化していった今、どれだけその遺伝子を残しているかどうかということなのだろう。

その遺伝子をもういらない、と思っているプレイヤーは(つまり、スポーツはもはや、その原始の遺伝子を受け継いでいない、「健全なゲームである」というのなら)、リング上でも、コート上でも、派手なパフォーマンスをするのだろう。それでよい。

しかし、この原始の遺伝子を大事にしたいと思っているプレイヤーは、勝利の瞬間に、寡黙にして謙虚である。負けて、なお真摯である。

時代が違うのだ、習慣も、文化も大きく変わったのだ。人間もまったく変わってきたのだ。だから、この古い古い武闘のスピリッツというものは、確かに化石のようなものかもしれない。恐らく、こういう論議は、実際問題しょせんは不毛だろう。1+1=2のような、正解が無いテーマだからだ。

勝利後のガッツポーズが、時代の多数派の賛同を得ている現状で、わたしなどが、抗っても仕方ない。したい人はすればいい。わたしのような融通の効かない人間が、それでただ幻滅を強いられるだけのことだ。

かつて読売巨人軍の3番打者・王貞治氏は、典型的なこの古風な武芸者のスピリッツにこだわった人物だと聞いている。彼がそれに目覚めたのは高校時代だそうだ。ホームランを打ったとき、実兄から言われた一言だったらしい。「打たれたピッチャーのことを考えろ。驕るな。」ということだ。

ノーヒットノーランを達成した瞬間の野茂英雄氏も、当時、せいぜい恥ずかしそうに、右手を軽く上げただけだった。現在、記録更新中の、イチロー選手にいたっては、そのそぶりさえ、わたしは記憶にない。

1959年、あの天覧試合でサヨナラホームランを放った長嶋茂雄氏も、ただ黙々とベースを一周しただけだった。

かつて、松井秀喜選手が、高校3年の夏の甲子園大会で、相手のピッチャーから5打席すべて敬遠され、チーム敗退したことは有名な話だ。相手チームにしてみれば、強打者松井に打たせてはならないとし、勝つためには手段を選ばなかったのだ。この相手チームの選択が、果たして高校野球として妥当なものだったかはいろいろと議論はある。

相手チームの監督も、当時は勝つためにはああするしかなかった、と言っていたが(メディアから、高校野球らしくないとして猛烈なバッシングを受けた)、後年、「果たして、いかに勝つためとはいえ、大人の世界の判断を彼ら高校生に強いて良かったのか、と疑問を持っている」とも述べている。

その話はよい。別のテーマだ。この5打席連続敬遠をされ、チームが敗退しても、この時の松井選手は毅然としていた。悔しい思いは、われわれ無責任な観客からは到底察することのできないほどだったに違いない。が、そんな思いは微塵も見せず、黙々と塁に出て、任務を果たそうとした。

実は彼はそれ以前、中学時代にやはり相手チームから恐れられ、初回から明らかな「ボール」を4球投げられ、敬遠されたことがあったそうだ。そのとき、松井選手は、相手ピッチャーを睨みつけたまま、バットを放り投げ、一塁へと「歩いて」いった。

試合後、コーチに呼び出された松井選手は、きつくたしなめられる。

「大事な野球道具を粗末にするやつに、野球をやる資格などない。そして、敬遠はルールで許されている立派な作戦だ。相手をにらみ、ふてくされた態度のお前の方が、よっぽどマナー違反だ。」

以来、松井選手が変わったという。甲子園で、同じく敬遠を、それも全打席強いられ、敗退した松井選手だが、この時は内心の苦渋や不満、不本意など一切見せず、毅然たるものだった。

その彼を、作詞家の阿久悠(故人)は、詩を捧げ、讃えている。

「敗れざる君たちへ・・・
あなたはたぶん、恨みごとを云ったり作戦を誹謗したりはしないだろう。
無念さは、おそらく青春期の総決算のような形で、猛々しく噴出を待っているだろうが、あなたはそれを制御し、次なる人生への勲章にしエネルギーにしてしまうに違いない。感情を小出しに爆発させ、その時その時の微調整を繰り返し、如何にも活力あり気(げ)に振舞う人とは、あなたはスケールが違う。
ドンと受け止めて、いつかやがて、まるでこの日の不運が最大の幸運であったかのように変えてしまうことだろう。バッターボックスの中で、微動だにしなかった態度を称える。ブーイングに便乗しなかった克己心を何よりも立派だと賞める。照れたり、くさったり、あきれたり、同情を求めるしぐさを欠片(かけら)も見せなかったことを賛美する。一振りも出来ないまま一塁ベースに立ち、瞑想していた男の顔を惚れ惚れと見る。あなたの夏は、いま無念の夏かもしれないが、流れの中で自分を見失わない。堂々の人間を証明してみせた、圧倒的に輝く夏だったのだ。」

この1992年8月16日の、夏の甲子園で見せた松井選手の見事な態度は、かつて死と隣り合わせの武芸者たちのそれと、なにも変わらない。負けた松井選手がこの立派な態度である。勝った場合にも、謙虚そのもので当然だ。

こういったことを書いたり、思ったりしていること自体、もはや日本では時代錯誤、無用の長物にすぎないということかもしれない。欧米流に、喜びや哀しさ、怒りや悔しさを思う存分、素直に体で表現するほうが人間らしい、現代的で、自然だというかもしれない。

先にも書いたように、これはスポーツを一人ひとりが心の中でどう位置づけているか、ということによる。感情を思い切り全身で表現して良いのだと思うなら、敗者がまだそこに立っているリングやコートの上で、ひっくり返ってガッツポーズをすればよい。負けてくやしければ、カメラの前で我を忘れて泣きじゃくればいい。好きなようにすればいいだろう。

日本も変わったのだ、というなら、それもいい。しかし、そんな日本に、わたしは納得しない。少なくとも、スポーツ界において、「侍ジャパン」というような言葉は、使ってほしくない。それは「残心」という武芸者のスピリッツこそが、「サムライ」の「サムライ」たる所以だからにほかならない。



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