神不在のままで、それは可能か?

文学・芸術

これは432回目。小説のお話です。昔から小説が取り上げる題材の中で、一番多いのが恐らく愛です。それは恋愛のような一対一の愛もそうでしょうし、不特定多数への愛もそうでしょう。十把一絡げに愛、ということで考えてみます。

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歌謡曲でもそうだ。やはり人間、一番日常生活でこだわるのはこの愛なのだろう。

非常に混同しやすいが、恋(好き、嫌いの感情)と、愛とは違う。いや、違うものだと定義して考えてみよう。前者はきわめて情緒的、感情的、生理的な問題で、良い悪いを斟酌する隙(すき)が無い。しかし、愛のほうはきわめて理性的な話だと、ここでは定義しておこう。

かつて小説の名作古典で、愛を模索したものは限りなくあるのだろうが、わたしなどがすぐ思い浮かぶのは、スタンダールの『赤と黒』と、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の二つだ。

いくらでもあるのだ。だから、この二つが典型的だというつもりもないのだが、誰しも読んだことがあるようなものではこの二つが、一番わかりやすいだろうと思う。

とくにスタンダールの『赤と黒』は主人公のジュリアン・ソレル(当時の最下層の身分)が野心のために、マチルダと、レナール夫人を手玉にとろうとする。女を誘惑し、足がかりにして、あくなき立身出世をもくろむ話だ。

結局、マチルダの愛はそのまま誘惑で終わる。しかし、横槍が入って失敗するのだ。レナール夫人が、二人の婚約を知って、ソレルの誹謗中傷をしたためだ。

憤ったソレルはレナール夫人を射殺しようとするが、これも失敗。捕らえられ裁判にかけられ、死刑の判決が下る。

マチルダは、ソレルの延命に奔走する。が、ソレルは法廷で「貴族による、身分の低い人間に対する一方的な裁き」というものを糾弾し、一定の達成感に至ったようだ。ある意味彼の中で、そんな茶番な法廷劇で延命などされることを潔しとしない、という境地に達していたのだろう。そして延命を拒否する。

処刑前、レナール夫人との再開では、お互いに完全に誤解があったことを知り、許し合う。おそらく、この時点で、ソレルは初めて、自分がレナール夫人を本当に愛しているということを悟ったのだ。遅かったが、人生、気づきがすべてなのだとすれば、十分ソレルの魂は救われたはずだ。それはレナール夫人も同じだろう。

だから断頭台までの短い期間、かれはかつてないほどの幸福感で満たされた時間を過ごす。

『赤と黒』は、こうしてみると完全に恋愛小説であり、それを真実の愛とはなにかという問題にまで深め、結局究極の悲劇的状況を設定することで、それを浮き彫りにした作品ということになる。

もっとも、なぜソレルがそうしたあくことなき立身出世にこだわっていたのかということが、そもそもの問題の発端だったことが意外に見落とされる。

時折しも、ナポレオン帝政が瓦解し、王政復古となっていたフランスである。再び身分差別が始まっていたのだ。それに対する徹底的な反抗が、ソレルの行動原理の中にあった。だから、ナポレオン崇拝者なのだ。「意思」だけが信じるに足るものだった。

もう一つのフランスの古典的名作『レ・ミゼラブル』だが、これは筋書きなどなにも書く必要もないくらいだろう。

ユゴーのこの名作も、ナポレオン帝政瓦解の翌年から、王政復古の時代、そしてそれに対する七月革命の時代までを描いている。

やはり時代なのだ。ナポレオンという歴史的事実は、フランスにとっては良くも悪くも、既成概念を根底から覆した爆弾だったのである。

この小説の場合は、一人の徒刑囚ジャン・ヴァルジャンが、偉大な聖人へと成長していく姿を描いたものとして、長年多くの愛読者がいる。無私の愛ということだ。

ソレルは徹底的な功利に生き、人を踏み台にしてまで立身出世を求めた。しかし、その背景にあったものは、時代だ。ナポレオンの時代は良かったとソレルは信じている。やる気の有る者が、実力次第でどんな栄達もできた時代だった。それが根底から覆され、どうあがいたところで、坊主になるか軍人になるかしか道が残されていなかった。そこにも有形無形の身分差別が復活していた。とくに宗教界の腐敗は目に余るものだった。軍人とても、ナポレオンの時代と違い、貴族が専横していた。

ジャン・ヴァルジャンは、姉の子どもたちのためにパンを一つ盗んだことから人生が転落する羽目に陥った。その意味では相当情状酌量の余地はある。が、その後の転身にはこれまた王政復古時代の、血の通わない社会制度や風潮がことごとに彼の邪魔をした。

要するに時代なのである。ソレルは、ほぼ無信仰者である。だから、彼の愛や死の目前の幸福感には、神は不在だといってもいい。

ジャン・ヴァルジャンは神の愛(許し)をきっかけに、長い長い物語が展開され、終始この神の愛というテーマが見え隠れする。が、先のように時代が時代なのだ。腐敗した教会の言う神はもちろん不在だ。といって、真の神の愛にジャン・ヴァルジャンが目覚めたというのであれば、どうもそれは違うような気がしてならない。

「レ・ミゼラブル」をキリスト教的な愛の勝利と解釈する見方が一般的だが、それはドストエフスキーの「罪と罰」をキリスト教的な愛の勝利と誤解するのと同じように、完全にピントがずれているような気がしてならないのだ。

ユゴーは、ロマン主義者だ。ナポレオンという時代の価値観の洗礼を受けたフランス人であり、善意の基準を神からぐっと人間そのものにまで引きずり下ろしたはずの人間なのだ。

スタンダールも、ユゴーも多少前後のズレはあるが、ほぼそういう意味では同時代人なのである。

神が不在である中で、愛を考えたはずだと思ってしまうのである。

もし、小説が神に答えを求めるのであれば、小説である必要はない。三浦綾子の「塩狩峠」は、信仰に生きた一人の青年が、暴走する列車を止めるために自らを犠牲にする。

遠藤周作の「沈黙」は、自分以外のキリスト信仰者たちを残酷な拷問と死刑から救うために、みずから信仰を捨てる。神の「踏み絵を踏め」という声が聞こえたのだ。

どちらも、神や信仰はでてくるが、名作として残っているということは、それが宗教書ではなく、あくまで主人公が「なにを選択したか」に焦点がある。神が選択するのではなく、神が愛するのではない。その人物がどうしたかに焦点がある。

そこには神は触媒であったとしても、神や信仰が重要なのではない。近代というのは、そういうことである。

でなければ、聖書を、仏経典を、コーランをひたすら読んでいればいいのだ。

19世紀以降、世界の文学というものは、基本的に神不在の中に人間を置いて愛とはなにかを模索してきたはずだ。神が存在するとかしないとか、そういう話ではなく、神という題目をいったん棚上げしたところで、人間を切り離してきて愛を考えたのだ。

だから、欧州の近代文学というものが、キリスト教的な素材を使っているからといって、キリスト教文学であるとか、キリスト教が理解できなければ意味がないとか、という話ではないのだろう。

さて、それでは現代のわたしたちが、この神不在という仮説の下で200年に渡る世界文学の試行錯誤の末に、果たしてどこまで愛の命題に迫ることができたのだろうか。

おそらく、第二次大戦以降は、ほとんどその意味での「進歩」というものは、無いような気がする。文学の凋落が、それを如実に物語っているような気がする。



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