思えば遠い雪景色

文学・芸術

これは66回目。こと東京に関しては、どうも雪景色というのが近年、非常に少なくなっています。そんなことから・・・

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過去の記録を見てみると、東京管区気象台が開設された明治9年1876年以来では、1883年の46cmというのが、最深積雪記録だったらしい。

子供の頃には、背丈が小さかったこともあるだろうが、それにしても雪は結構降っていた記憶がある。小学校当時、吹き溜まりなどでは体がすっぽり入ってしまったのをおぼえている。なにより、雪に覆われて路面がまったく見えなくなり、最悪のことに肥溜めに落ちたことも一度だけだが経験した。

それが、近年は冬には雪が降らないものだ、と思うくらい、雪は無縁の存在だった。それだけに東京という町は、雪に弱い。

ただ、雪というのは、(雨も似たところはあるが)家の中でじっとしていることが多いために、ふだんより思考や感覚が落ち着き、深いものを模索しがちだ。とくに、雪の深夜というのは、ほんとうに音がしない。たった一人であることを思い知らされる。

時折、自重に耐えかねて雪が勝手に落ちる音がするくらいだ。雪国の人にはもうたくさんだという雪だろうが、東京ではたまにしか降らない雪の夜くらいは、ふだん無いような物思いにふけることができる。

芭蕉の句にも、雪を季語に使ったものがある。

いざさらば雪見にころぶ所まで(松尾芭蕉)

これなどは、「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅で、名古屋の弟子の家を出立するときに詠んだものと言われているが、名人が詠んだものとは思えないほど、駄作だ。
芭蕉という俳人が、賢いのか幼稚なのか、上手いのか下手なのか、ときにわからなくなる句だが、意外に芭蕉がこんな句を詠んだということが、かえって芭蕉を身近に感じさせるものがある。雨と違って、昼間の雪は、(ふだん雪を見慣れていない人間にとっては)なぜか心躍る風情であることは間違いない。そんな気持ちがよくでている。彼にしては駄作だと思うが、われわれに詠める句でもない。

一方、夜の雪が染み入るような静寂さに包まれることで、独特の感性が研ぎ澄まされそうだ。雪が稀な東京であればあるほど、たった一日の雪で、夜には誰でも詩人になる。おそらく、雪国の人間というのは、冬場この雪に取り込まれて生活をしているだけに、ずっと沈思黙考する質が備わたりしているかもしれない。少なくとも、自分にあるような軽薄さは雪国の人には少ないだろう。

あくまで個人的な印象なのだが、雪がしんしんと降り積もる風情というのは、どういうわけか死の雰囲気が漂う。わたしだけだろうか。元禄時代の赤穂義士たちによる吉良低討ち入り。幕末は安政時代、水戸浪士たちによる井伊直弼大老暗殺(桜田門外の変)、昭和に下れば、陸軍将校団による2・26事件など、思えば遠い雪景色は、いずれも鮮血に染まったイメージがあるためだろうか。

もちろん、そうした歴史的な事件だけではない。文学の世界でも、雪はどうも死を連想させる印象が、個人的には強い。たとえば、宮沢賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」などがどうしても、一番最初に思い浮かばれてしまうのだ。

雪にちなんだ俳句では、個人的に痛ましい思いのつきないのが、子規の作だ。

いくたびも雪の深さを尋ねけり(正岡子規)

正岡子規は、その末期、何重もの病苦にさいなまれ、悶絶して死んだ。34歳の若さだっただけに、また時代が近代日本の勃興期だっただけに、さらに加えて本人にはやりたいことが山ほどあっただけに、その余りにも早い死の訪れには、納得がいかないものがあったろう。病床にあって、何度も家人に雪の積もり具合を尋ねる様子が、彷彿としてくる。

同郷で親友の秋山真之(あきやまさねゆき)は、かねてより子規と分かれて軍人の道を選択していた。その若い頃、真之を激励して子規が詠んだ歌がある。

いくさをもいとはぬ君が船路には 風ふかばふけ波たゝばたて

まだ日本の海軍が、海軍とも呼べぬような代物であった当時だ。子規もこの当時は元気だったから、秋山の勇躍大望を羨望し、また自身の励みにもした歌だろう。そんな子規が、ときまさに、ロシアとの存亡をかけた戦争の足音が間近に聞こえてくるようになった頃、ついに倒れる。くだんの雪の句は、それだけに胸が痛くなりそうだ。真之は、やがて日露戦争の日本海海戦で、日本の命運を決めた一世一代の大博打をやることになる。

子規が逝ったその夜、高弟・高浜虚子が、涙にくれて詠んでいる。

子規逝くや十七日の月明に(高浜虚子)

なんの技巧もてらいもない、そのままの言葉だ。
これを俳句といっていいのか、独り言といっていいのか、わからないほど素の感情がそのまま映し出されている。しかし、それは虚子が詠んだものではあるが、虚子になりかわった子規自身の絶唱でもある。「いくたびも雪の深さを尋ね」る長い闘病生活の末の絶唱である。



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