古(いにしえ)の道~熊野古道の闇
これは167回目。かつて「蟻(あり)の熊野詣(くまのもう)で」を呼ばれたくらい、都や江戸などから熊野権現を目指す人の群れが続いていたそうです。世界文化遺産となった熊野古道です。美しい自然だけが選ばれた理由ではないでしょう。深く長い修行の歴史があってこその話です。それは、必ずしも綺麗な話ばかりではないのです。むしろ闇のほうが濃いということを、知るべきでしょう。それが本当の意味での歴史なのです。
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もともと熊野本宮大社として神が祭られたのは、今からおよそ2000年前、第10代崇神天皇の御世と言われているから、想像以上に昔のことだ。
ということは、熊野三山の一つ那智大社の大門坂の夫婦杉の見事さに感動しても、たかだか樹齢800年ほどであるから、熊野の道が始まったころには、まだ無かったことになる。本来の熊野古道と、今のそれはずいぶんと風景が違っていたかもしれない。
熊野古道は、三重県の伊勢路、和歌山県田辺市街地から本宮への道の中辺路、紀伊半島の海岸筋を通る大辺路、高野山から奈良県十津川村などを経て本宮町まで至る小辺路がある。
熊野詣は、京都から往復約1ヶ月(およそ600km)の長い道のりだから、かなりのものだ。おまけに、現在のような利便性が追及された登山用具があったわけでもない。
一応、法的には神社なのだが、そもそも熊野は神仏一体である。だから、熊野におわします神々は、神社、本宮などと呼ぶより、千年以上呼び親しまれていた「権現(ごんげん)」と呼んだ方が、お喜びのことだろう。
熊野古道といっても、先般世界遺産に登録されたものがすべてではない。熊野詣でそのものの栄枯盛衰があり、正確なルートが不明となっている区間もある。歴史的な変遷から生じた派生ルートもある。これらはほとんど、登録の対象になっていないのである。
実際、地元でも、「忘れられたルート」を再発見しようとする動きもあるようだ。
とくに先ほどの、伊勢路、大辺路、中辺路、小辺路ではない、修験者のみが通るルートがあった。それが、有名な「大峰七十五靡(おおみねななじゅうごなびき)」だ。修験者たちが、それこそ命がけでおこなっていた「大峯奥駆け(おおみねおくがけ)」道のことだ。
修行場のことを「靡(なび)き」を読んだ。熊野権現(熊野本宮大社)の本宮証誠殿( 1番)にはじまり、吉野川河岸の柳の宿( 75番)に終わる。この大峯七十五靡は、文字通り75箇所を数えるが、これは歴史的に整理されてきた結果であり、実際にはもっと多くの靡が設けられていた時期もあったようだ。
これら行場を巡るには、二つの方法がある。ひとつは、権現から吉野に向かう順峯(じゅんぷ)。これは、天台宗系の聖護院(本山派)が主導した。もう一つは、逆に吉野から権現に向かう逆峯(ぎゃくふ)で、真言宗系の醍醐寺三宝院(当山派)が主導する。
もともと中世の熊野を支配し、熊野詣の先達をつとめたのは天台宗系の本山派であり、大峯奥駈についても本山派が先行していたが、近世以降の熊野詣の衰退に伴って、江戸時代から今日まで、両派とも吉野から入るのが一般的かつ正統的なものとされている。つまり、逆峯だ。ただ、天台宗系による順峯は、那智山青岸渡寺によって復興され、今日でも行われている。
登山を志す人には、二通りある。純粋にレジャーとしての登山をする人。そして、レジャーとはいえ、主目的が信仰や人生の修行のつもりで登山をする人。もちろんその両方だという試みもあるだろう。
大峯奥駆道は、熊野古道の中でも最も険阻な縦走コースだ。そしてくだんの、ユネスコの「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産登録は、単なる自然の景勝地としてではなく、あくまでも歴史的な宗教的現場の道として登録されていることが重要だ。
靡き以外にも、道々に夥(おびただ)しい行場がある。修験者たちは、つどそこで経を読み、真言を唱えて、勤行(ごんぎょう)を続けたのだ。行者は、ひとたび山入りした以上、貫徹できない場合は、死ななければならなかった。それゆえ、行き倒れた場合に備えて、自裁(自決)用の短刀は必需品だった。
また修験者といっても、よくよく歴史を調べていけば、さまざまな「人種」が混在している。なにも、型どおりのまともな行者ばかりではない。むしろ、武家や公家などの隠密行動を委託されるような、非合法手段(情報工作のための)をなんとも思わぬアウトローとしての行者の歴史も、また修験の歴史の間違いない一断面であった。
村落の人心動揺、一揆扇動、破壊工作、女子供などの人さらい、暴行と殺害、あるいはその奴隷的使役をはじめ、およそ現代では考えられない非人道的な闇の行為は、この深山幽谷の中で数限りなく繰り返されていたのも、事実なのだ。断崖によっては、かなりの白骨が今でも発見される場所もあるのだ。
それもこれも、すべて修験の歴史なのである。良い悪いではないのだ。歴史を大事にするということは、そのすべてを受け入れることなのだ。
そして、憲法で男女平等が保証されている現代において、数少ない女人結界が張られている場所でもある。古い仏教的な概念として女性の穢(けが)れを表向きの理由としている。
が、個人的には、仏教伝来以前から、古来日本に伝統的にあった母系性社会独特の、「清廉豊沃で聖賢なる母性」を、この血と欲望にまみれた修験の裏の世界に、けして触れさせたくないという意思も、どこかに働いていたのではないか、ふとそんな気がしたりもするのだ。